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そうしてクレアが公爵家へ住み始めてからは過保護すぎる生活を送った。もはや管理されていると言っても過言ではない。クレア専属の侍女が付き、何から何まで言葉一つで全て誰かがやってくれるのでクレアが自ら動くことがない。ミルトン男爵家ではメイドはいるが人数は少なく、身の回りのことは自分でするのが当たり前だった。生活環境が一変したのはしかたがないことだが慣れない環境はとても息苦しい。とりあえず使用人たちからも邪険にされることはなく、むしろとても優しく接してくれてほっとした。
また、公爵家で住み始めて知ったことだがレイモンドは公爵家でも女性を一切寄せ付けない。クレアの部屋へ来る時もわざわざ執事に使用人たちへ退室を命じさせ、全員いなくなった後に入室するほどだ。レイモンドと同じ空間にいれる女性はクレアと公爵夫人、そして彼の乳母だけだった。これほどの女性嫌いで何故クレアは大丈夫なのか甚だ疑問である。レイモンド曰くクレアが彼に興味を示さなかったことが気に入られた理由らしいがやっぱりよくわからない。でもクレアの望みを何でも叶えようとしてくるレイモンドには正直助かっていた。レイモンドが来るだけで部屋にいる使用人たちは皆いなくなるし、一人になりたい時にお願いすると図書室などの静かで落ち着ける場所へ連れて行ってくれる。こまめにクレアの様子を見に来るレイモンドがよく部屋から連れ出してくれるので大変ありがたかった。
また、公爵夫人直々に夫人教育をしてもらえたのは嬉しい出来事でもある。クレアは地方貴族が通う学校の初等科までしか卒業していないので本格的な淑女教育を受けられるのは素直に嬉しい。嫡男であれば初等科の卒業後は王都の学園に通えるが、跡継ぎ以外が初等科以上の教育を受けるためには相当な金銭とコネがいるのだ。ましてや地方貴族の令嬢は勉学より家のための結婚が優先されるので尚更だ。教育を受ける機会を得られたのはまさに幸運としか言いようがない。この先一人で生きていくために必ず役立つのでそこはレイモンドに感謝しながら夫人の教育を受けたのだった。アスクストーン公爵夫人の仕事は主に社交だったのでお茶会などに出るのかと思ったが、それは様子を見ながら行うそうだ。いきなり社交に出るにはあまりにも知識が不足していたので安心した。
もう一つ変わったことがあるとすればレイモンドが毎日クレアへ本を贈ってくることだ。その種類は歴史、文学、恋愛、推理など多岐に渡る。クレアは本を読む習慣がないのでいきなり本を渡されても戸惑うばかりだ。別に読めないわけではないが、夫人教育と大勢のメイドたちに囲まれている中でとても本を読む気にはなれない。クレアの趣味は料理と家庭菜園だ。料理は無理でも庭で花に水をあげるくらいはしたいが、公爵夫人に淑女の嗜みは読書や刺繍だとピシャリと言われたため何も言えなかった。しかたなくもらった本を広げるが全く進まない。ミルトン男爵領では羊皮紙の本が主流だが紙製でも本は大変高価なものだ。それなのにそれを毎日持ってくるレイモンドの経済力に驚きつつ、無駄遣いだと思わずにいられない。でも毎日クレアに照れた笑みで本を贈るレイモンドを見ると何も言えずお礼を述べることしかできなかった。
レイモンドとの仲は進展もなければ悪くなることもない。お互いぎこちなさが残る微妙な距離を保っている。クレアの要望は何でも聞こうとしてくれるのでありがたいと思うがそれだけだ。クレアは聞かれたこと以外は基本的に自分のことを話さない。でもそれはレイモンドも同じで彼も自分のことは話さない。クレアがレイモンドに何も聞かないのもあるかもしれないが、彼も彼でクレアと距離を置いていた。歩み寄りたいとレイモンドは言っていたが、そんな素振りは今のところない。彼が何を考え、どう思っているのかクレアにはわからないしどうせ出ていくのだから聞く必要もないと思い過ごした。
そして今後の予定として決まったのは招待客を招いた正式な結婚式はクレアが出産を終えてから三カ月後、今から約一年後だ。それに伴いレイモンドとクレアのお披露目を行うことになった。本当は世間へのお披露目は婚約式をするのが普通だが、事情が事情なのでそこはクレアのお披露目という名目のパーティーとなる。そしてこのお披露目のパーティーの前日にクレアはレイモンドと婚姻届けを教会へ提出し、正式な夫婦となることも決まった。結構な過密スケジュールなのでクレアは忙しくなると思いきや、それほど忙しくはない。というのも、クレアが重い悪阻になってしまったからだ。一日中気持ち悪さがこみ上げてトイレとベッドを往復する毎日で、パーティーの準備などとても手伝える状況ではなかった。レイモンドと公爵夫人にパーティーの準備はほぼ丸投げ状態でとても申し訳ない。それでもレイモンドたちは大丈夫だと言って決してクレアを責めなかったのが余計にいたたまれなかった。
そうして過ごしているうちにクレアのお腹はどんどん膨らんでいき、自分一人の体ではないと実感するようになった。医者から妊娠を告げられた時は正直半信半疑だったが小さな命が自分に宿っている。子どもはかつてレイスと望んだが、それも終ぞ叶わなかった。もうこの世にはいない人をいまだに心の中に居座せるなんてやはりクレアは不誠実な人間だ。レイモンドに誠実になりたいと思っていてもふとした時にレイスが思い浮かぶ。結局心の整理もきちんとできないままここまで来てしまった。それでも今はレイモンドの婚約者であり、母親になるのだからと自分に言い聞かせて心にそっと蓋をする。誰もいない図書室で一人の時間の中、ぼんやりと窓の外を見つめてポツリと呟いた。
「レイス、ごめんね」
何に謝ったのか自分でもわからないが、久しぶりにレイスの名を口に出せた。名前を呼ぶことができるようになっただけ傷は癒えたらしい。それだけでも大きな進歩である。お腹を撫でながらクレアは目を閉じる。
そんなクレアを本棚の影でレイモンドは本を持ったまま静かに立ち尽くしていた。