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最悪の出立をしてからレイモンドとの馬車の旅は酷く重い空気に包まれていた。それでも二日もすると二人でぽつぽつと話すようになり、ぎこちなさは残るが日常会話程度なら普通に話せるようになったのだ。妊娠しているクレアの体調を考えて普通は四日ほどで着く日程を八日かけてゆっくり公爵家へ向かっている。転移装置を使えば一瞬で目的地に着くが、妊婦に転移装置は胎児に影響を与える場合があるため馬車での移動となったのだ。クレアにとって公爵家へ向かうまでの時間があったことは救いである。ただでさえ離縁前提の結婚で思い悩んでいたのにアイリーンのことまで加わって精神はすり減っていた。望まない婚姻とはいえ相応の覚悟を持って結婚に同意したのに、クレアは子どもを産む道具にしか見られていなかったことが酷く悲しい。それに不誠実だとアイリーンに言われた言葉がナイフのように胸に深く突き刺さって酷く痛む。結果的にレイスを裏切ったことに変わりはないのでアイリーンの言ったことも全て間違いではない。それにレイスを引きずってレイモンドと向き合うことができないのは彼に対しても失礼で申し訳なく思う。


そんなぐちゃぐちゃの感情をなんとか整理できたのは男爵領を出て六日目ほど経った頃。観光と休憩を兼ねてやってきたのは庭園で有名なラーク伯爵家だった。ラーク伯爵はアスクストーン公爵と学園時代の親友らしく、今でも気さくに話せるほど仲が良いそうだ。ラーク伯爵家は子息が六人という男所帯で、結婚しているのが長男だけで彼は妻子と共に王都で伯爵夫人と暮らしている。庭園のある屋敷には伯爵と子息五人で使用人も料理人以外は男性しかいないためレイモンドも安心して来られる数少ない場所だそうだ。

そうして案内されたラーク伯爵自慢の庭園にクレアは感嘆の息をつく。庭には見渡す限りの薔薇が咲いており、言葉も失うほどそれはそれは素晴らしい庭園だった。少々薔薇の匂いがきつかったがそんなことも気にならないくらいクレアは夢中になって庭園を散策する。息抜きによく訪れるというレイモンドに庭園について説明を受けながら彼と一緒に歩いた。その際レイモンドにエスコートされたのだが、彼はガチガチに緊張しており動きが硬すぎてお世辞にも上手とは言えない。あまりのエスコートの酷さに見かねた伯爵家の人がさりげなくレイモンドにアドバイスしたり庭園のルートを先導したりしてくれてその光景にクレアは思わず笑ってしまった。そんなクレアを見たレイモンドも釣られて笑うと一緒にベンチへ腰かけて穏やかな時間を過ごしたのだ。









「ようこそ、クレアさん。首を長くして待っていました。アスクストーン公爵夫人として、レイモンドの母としてあなたを歓迎いたします」


そんな言葉とともにクレアはアスクストーン公爵家へ迎え入れられた。夫人は二十五歳の息子がいると思えない美しさで、微笑んだ表情がレイモンドとよく似ている。一応歓迎はされているらしい。クレアはレイモンドにエスコートされて公爵夫人の前まで来ると緊張の中カーテシーをして挨拶をする。


「アスクストーン公爵夫人、歓迎のお言葉、ありがとう存じます」

「まぁ、そこまで格式ばった挨拶はしなくていいのよ。これから家族になるんですから、気軽にお義母様と呼んでちょうだい。さ、長旅で疲れたでしょう?まずはお茶でも飲んで休憩にしましょうね。――――レイモンド!」


クレアに温かい眼差しで話してくれていた態度を一変させて公爵夫人は目を吊り上げてレイモンドを睨む。レイモンドはぎくりと肩をびくつかせて顔をこわばらせた。


「なんですかその酷いエスコートは。それでクレアさんが転んだりでもしたらどう責任をとるの!次期公爵ともあろう人間が情けない。今後はエスコートが完璧にできるようになるまで彼女のエスコートは禁止です!」

「何を言っているのですか母上!なら一体誰がクレア嬢をエスコートすると!?」

「もちろんわたくしがいたします。あなたはそれを見てしっかり学びなさい。言っておきますが、わたくしの方があなたより百億倍エスコートがうまくてよ。さあ、行きましょうクレアさん」


そう言われてもどうすればいいかわからないクレアはおろおろするが、公爵夫人はレイモンドからクレアを引きはがすとそのままクレアを完璧なエスコートで屋敷の中へ案内する。クレアが今までエスコートをしてもらった中で一番上手だ。その様子をレイモンドは拗ねた子どものように終始ふくれっ面で見ているものだからクレアは耐え切れず噴き出してしまった。一緒に公爵夫人も笑いを零すと、和やかな空気の中クレアは温かく公爵家へ迎え入れられたのだ。



休憩を終えて一通り屋敷を案内された頃、アスクストーン公爵が帰宅した。後ろには荷物を山ほど抱えた使用人たちがずらりと並んでおり、クレアは異様な光景に圧倒される。クレアが公爵と挨拶を交わすと、その荷物を公爵夫人が訝し気に見た。


「おかえりなさい、イザーク。その荷物は一体なんですの?」

「何って、もちろんベビー用品だよ。行きつけの本屋へ行った帰りに偶然赤ちゃん用のおもちゃを見かけたらつい色々買い込んでしまったんだ」

「ベビー用品はレイモンドやクレアさんと一緒に選ぶ約束だったではありませんか。こんなに買ってきてどうするのです」

「またそれは別で選べばいいだろう?これくらい買ったっていいじゃないか。それより知り合いの医者から妊婦の体に良い食材を聞いて買ってきたんだ。クレアさんにはたくさん食べて栄養をつけてもらわないと。彼女には元気な男の子を産んでもらわないといけないからね」


公爵のその言葉にクレアは頭に重い石をドスンと置かれたような感覚に陥った。忘れていた緊張が一気にぶり返して額に脂汗が滲む。そうだった、クレアはここにレイモンドの子を産むためにやって来たのだ。これで子が流れようものならクレアは追い出される以前に殺されそうである。それに女の子が生まれてしまったら男を産むまでここに縛りつけられるのだろうか。


「父上」

「イザーク」


レイモンドと公爵夫人の声がほぼ同時に重なった。二人とも冷めきった目で公爵を睨みつけている。しかしクレアは出産のプレッシャーからそんな二人の様子には気付かなかった。


「レイモンド、特別にエスコートを許すからクレアさんをお庭に案内してあげて。ラーク伯爵の庭園ほどではないけれど、我が家も薔薇が見頃だわ」

「そうします。クレア嬢、行こう」


レイモンドに手を取られてクレアは立ち上がると、やや強引に部屋から連れ出された。顔を真っ青にしているクレアにレイモンドは父親の間の悪さに悪態を心の中でつきまくる。すでに母から怒られているだろうが父は気遣いがおかしな方向へ行くため、後でレイモンドからもきつく注意しようと決めた。





「イザーク!どうしてクレアさんにプレッシャーをかけるようなことを言うの!せっかくリラックスできていたのに!妊婦は繊細なんですからね!女にとって子を産む重責がどれほど苦しいものかちっとも理解できていないわ!!しかも男を産めだなんて!わたくしがお義母様にそう言われ続けて毎日泣いていたのを忘れたの!?」

「す、すまない。そんなつもりで言ったわけじゃないんだ。女の子だって大歓迎さ!それにほら、彼女は少々痩せすぎているだろう?だから少しでも栄養を付けてほしくてだな」

「そんなつもりが無くても元気な男を産めと当主に言われたら重責以外の何になるというのです!?それにクレアさんの健康状態についてあなたが気にかける必要はありません。そこはわたくしと使用人たちが徹底的に管理いたします。お願いですから余計なことをしないでくださいまし!」

「すみません……」

「あなたは仕事では機転が利くし根回しも上手だけれど、人様の恋愛事になると空まわって仲がこじれることになるんですから。やっと我が家に来てくれた花嫁を逃すようなことはあってはなりませんよ。レイモンドの初恋を応援したいなら何もせず黙っていてください。何かしようと思うなら必ずわたくしかレイモンドに相談すること!わかりましたね?!」

「は、はい!」

「それから、後でレイモンドからも怒られるでしょうから覚悟しておいてくださいね?わたくしよりも怒っていますよ」

「……はい」


床で正座をしながら縮こまっている公爵に夫人は大きく息をついた。





「すまないクレア嬢。父の言ったことは気にしないでくれ。私の結婚が決まってからずっと浮かれているんだ。仕事ではかなり頼りになるんだがプライベートでは余計な言葉や行動が多くて。何か言われても流していいから」

「あの、もう大丈夫ですから」


中庭にある東屋に来てからというもの、レイモンドはずっと低頭でクレアに謝り倒していた。メイドが用意してくれたお茶も飲むタイミングを失ってすっかり冷めてしまっている。クレアも公爵が悪意を持って出産について言ったわけではないことは理解しているつもりだ。そのことを伝えようにもレイモンドは焦ったように謝罪を繰り返している。


「レイモンド様」


あたふたするレイモンドにクレアが呼びかけると彼はピシリと固まった。クレアが彼の顔の前で手を振っても時が止まったように動かない。そういえばレイモンドを名前で呼んだのは初めてだった気がする。一応婚約者になったとはいえさすがに本人に許可も取らずに呼んでしまって不敬だっただろうか。


「許可もとらずに名前でお呼びして申し訳ありません。お気を悪くなさったようなら…」

「悪くない」

「え?」

「全く悪くない。むしろすごく嬉しい。是非これから私をそう呼んでくれ」


クレアの手を握りながらレイモンドは真顔でずいっと顔を近づけてきた。思わずクレアは仰け反る。


「は、はい。ではお名前で呼ばせていただきますね」

「そうしてくれ。それで、その、私も君を、ク、クク、ククレアと呼んでも?」

「え、ええ。どうぞ……」

「……ありがとう」


レイモンドから発せられたクレアの名前が挙動不審だった気がするが、彼は喜びの笑みを浮かべた。思わずその笑みをクレアは見つめる。

最初はレイスとよく似ていると思ったが、見れば見るほど別人なのだと実感する。実際、レイモンドとレイスの笑顔は全く違う。それにレイモンドがこんな風に笑みを浮かべたのを見るのは初めてだった。彼と出会ってからというもの、ゆっくり話し合えたのは公爵家へ来る途中に寄ったラーク伯爵の庭園だけだ。離縁前提の結婚でなければクレアはレイモンドともっと向き合えていたのだろうか。


「それから遅くなってしまったが、私との結婚を決めてくれてありがとう。君の意思を無視した挙句、結婚を強要したようなものなのにミルトン男爵家から妊娠と婚姻の連絡が来た時は本当に嬉しかった。私にできることなら君の願いは何でも叶えると誓う。これからは夫として、君の側にいさせてくれ」


レイモンドはその場で跪くと、クレアの手を取ってその手に口付けを落とした。ストレートな告白に驚くが、彼の耳が真っ赤に染まっている。レイモンドに対して恋愛感情はないが、それなりに情は湧いてしまった。不器用ながらも一生懸命ひたむきに接してくるレイモンドを突き放すことはクレアにはできなかった。思いを返すことはできないが、別れる時が来るまではクレアもレイモンドにできるだけ誠実に向き合いたい。


「こちらこそ不束者ではありますが、よろしくお願いいたします」


クレアがそう返すとレイモンドは顔を上げて満面の笑みを浮かべる。レイモンドの美しい相貌も相まってその破壊力は凄まじい。これほどの美貌ならいくら女性を避けていても群がってしまうわけである。その笑顔を見つめているとレイモンドはクレアの頬にキスをする。クレアは一瞬何が起こったのかわからず目を瞬かせて彼を見ると、その様子を見て彼は少し寂しそうに微笑んだ。



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