15
雪がこんこんと降り積もる真冬に、クレアは出産した。難産だったようで産気づいてから出産までに丸二日かかり、出産後も出血が酷く目覚めたのは出産から五日後だった。
下半身の痛みで目覚めると誰かがクレアの手を握っていた。
「……クレア?クレア!あぁ、よかった!目が覚めたのか。待っててくれ、今医者を、いや、ヴィンセントを連れてくる!すぐ戻るから!」
目が霞んでよく見えなかったがあれはレイモンドだ。泣きそうな声でクレアを呼んだかと思えばバタバタしながら部屋を出て行った。ヴィンセントと言っていたので男の子だったようだ。男ならヴィンセント、女ならシャロンと決めており、レイモンドの祖父母の名前をもらった。跡取りとなる男児を出産できてクレアは心の底から安心した。嫡男であれば誰からも子どもについて非難されることも後ろ指を指されることもない。男子を産むまでここにいろと公爵に言われる心配もなくなって本当によかった。
レイモンドはすぐに赤子を抱えてやって来ると、クレアの腕にそっと乗せる。まだふにゃふにゃの小さな命を優しく抱きしめると涙が溢れた。嬉しいのか悲しいのかわからない。そんなクレアを赤子ごとレイモンドは抱きしめると額にキスを落とす。
「クレア、ありがとう。ヴィンセントを産んでくれて、本当にありがとう。君が無事で本当によかった」
レイモンドは医者や公爵夫妻が来るまでずっとクレアたちを抱きしめ続けた。
その後、公爵夫妻から嫡男の出産に歓喜しクレアを褒めたたえた。欲しいものがあれば何でも用意すると言われたのでクレアは子どもの世話を自分で行いたいとお願いをする。別れるまで少しでも子どもの側にいたくて願い出ると、公爵は二つ返事で快諾してくれた。公爵夫人が顔をピクピクさせながら公爵を嗜めるが彼は屈託のない笑顔で言い返す。
「母親なのだから子どもの世話くらいしたっておかしくないだろう?」
「母親でも伯爵夫人、次期公爵夫人なのですよ?夫人が自ら子の世話など世間に知られたらなんて言われるか」
「初孫が生まれたのにそうカリカリするな。世話をするところはどうせ身内しか見ないし、よそに言わなければいいだけのことだ」
「でも」
「リュドミラ、乳母の代わりにクレアさんが名乗り出てくれたんだ。雇う経費が浮いたと思いなさい。この話はおしまいだ」
公爵のその言葉はクレアの心を抉るのには十分だった。ヴィンセントの実母であるはずなのにクレアは乳母の代わりとして扱われるのか。産む道具として役割を果たした今、クレアの価値は彼らにとってどうでもいいものへどんどん下がっているようだ。
公爵夫人は気分が悪いと言って部屋を出て行ってしまった。部屋を出ていきたいのはこちらの方だ。
「父上、今すぐ出て行ってください」
静かに怒りを放つレイモンドが公爵を睨みつけると彼は慌てて首を振る。
「いや、すまないレイモンド、これは」
「クレアはヴィンセントの母親です。乳母ではない。父上がクレアをどう思っているのかよくわかりました」
「すまない、本当にすまない!あの言葉は本心ではない、言葉が悪かったのは認めるし謝る!でもクレアさんのお願いをきくためにはリュドミラにああやって言うしかなかったんだ。乳母を認めればクレアさんからヴィンセントを取り上げてしまう!だからその……本当に申し訳なかった」
「謝るのは私ではなくクレアにです!言葉くらい選べないのか!」
レイモンドが公爵を部屋から追い出して乱暴に扉を閉めた。閉まった扉からクレアさんすまない、と公爵の弱々しい声が聞こえた気がしたが応える気力もない。公爵はここへ来た時から相手の気持ちを考えない言動があったがそれが本心なのか言葉選びが下手なのかよくわからなくなってきた。どちらにせよもう関わりたくないのは確かだ。レイモンドははぁ、と大きく息をつくとクレアの元におずおずとやって来る。
「あの、クレア、すまない」
「レイモンド様のせいではありませんよ。それより公爵様に私がヴィンセントの実母だと認識していたようで安心しました」
「あのバカにはよく言い聞かせておく。母上にも。ヴィンセントの母親は君だけだ」
「レイモンド様」
レイモンドが次の言葉を発する前にクレアは彼を呼んだ。いい加減周りの言葉で振り回されるのが煩わしくて聞いていられない。
「少しの間で構いません。ようやくヴィンセントに会えましたし、家族で一緒に過ごせませんか?」
「ああ、もちろんだ」
レイモンドは柔らかく微笑むと恥ずかしそうにしながらクレアの隣に座った。すやすやと眠る我が子を見ながらレイモンドと同じ金髪の髪を撫でる。
「クレア、すまない」
「……」
「本当に、すまない……」
クレアの肩を抱きながらレイモンドは呟いた。何に対しての謝罪なのかわからない。公爵夫妻の態度なのか、離縁することなのか。相変わらず彼が何を考えているのかよくわからない。クレアを好いていてくれているみたいだが、いまだに明確な言葉で言われたことはない。そういう素振りを見せるが態度だけではもう彼を信じることができなくなっていた。それでもこの屋敷の中ではレイモンド以外頼れる人はいない。もし彼がクレアに気持ちを伝えてくれていたら、クレアも自身の気持ちを言えていたかもしれない。彼に好意はなくてもヴィンセントが生まれた今、子どもの父親として尊重したかった。
〇
雪が溶け始め、春の移り変わりを感じるようになった頃。ミルトン男爵家がようやくアスクストーン公爵家へ到着した。出産した頃は雪が多く降り積もる真冬だったため馬車が道を通れず来ることができなかったのだ。
両親と兄夫婦、少し大きくなった甥っ子に囲まれて皆がクレアを祝ってくれた。特に母と義姉は男児を産んだクレアを大袈裟なほど褒めてくれた。上位貴族ほど男児を産めなかった夫人への当たりがキツいと聞いていたらしく、これでクレアが肩身の狭い思いをせずに済むと安心したそうだ。
そしてクレアは家族のサポートを得てヴィンセントの世話をした。クレアは産後の回復が遅く、しばらくベッドから起き上がることができなかったのだ。その間はレイモンドがメイドと交代でヴィンセントの世話をしてくれた。そういえばレイモンドは女性への耐性がついてきたように思う。クレアが侍女やメイドと一緒にいても人払いをせずに部屋へ入って来るようになった。必要以上に近寄らないところは変わらないが大きな進歩である。
ようやく体調が回復できた頃に本格的にクレアがヴィンセントの世話を引き継ぎ、そこへミルトン男爵家が来て助力を得られたのである。家族に感謝しながら丸二週間の滞在後、ヴィンセントと一緒にミルトン男爵家を見送ったのだった。
レイモンドがこっそり教えてくれたが公爵があれこれしていてくれたらしく、公爵夫人からの嫌味は一切なかった。レイモンドにも協力をしてもらって感謝を伝えると、夫婦なのだから当然だと言われる。でもこの夫婦生活もいつまで続けられるのだろうか。可愛い我が子を素直に手放すことがクレアにできるのかわからない。どうせお別れするのだから関わらないようにしようかとも考えたがそれは無理だった。レイモンドが連れて来た我が子を始めて抱いた時、愛しさが溢れて関わらないなどできるはずがないと感じた。本当は母親として成長を見守りたかったが、離縁はクレアでは覆せない。レイモンドに相談しようかと何度も悩んだが彼が何を考えているのかわからないため彼を信じきれず言い出せなかった。
そうして不安な日々を過ごしているとレイモンドから結婚式についての話をされる。以前のような簡易的な結婚式ではなく、大勢の招待客を招いた本番の結婚式だ。最近公爵夫人を見かけないと思ったらクレアの着るウェディングドレスやお色直しのドレスの打ち合わせをしていたらしい。どおりで嫌味の一つもなく平和だったわけだ。まだクレアの体調が治りきっていないので当初の予定よりも結婚式は延期していてまだ正式な日取りは決まっていない。日程も含めて本格的に準備を始めたいと言われた。正直全く乗り気ではなかったがこればかりは仕方がない。離縁するのにこんな大々的な結婚式をするなんて本当にお金の無駄遣いだとしか思えないがやはり公爵家ともなればやらなくてはならないのだろう。内心うんざりしつつ、恥ずかしそうに結婚式の話をするレイモンドに作り笑いで応えた。
〇
クレアがヴィンセントの世話に慣れた頃、結婚式の招待客をリストアップしていると公爵夫人に呼び出された。結婚式の日取りが概ね決定し、教会と王家に予定の確認を取っている。これで了承が得られれば結婚式の日程が正式に決まり、関係各所に日にちを知らせるのだ。公爵夫人は毎日上機嫌でドレスや内装のデザインを決めており、レイモンドとクレアの意見は完全に無視されている。これには公爵とレイモンドが窘めているようだが聞く耳を持たないそうだ。だが公爵夫人のドレス選びにはセンスがあって間違いないのも事実だった。クレアはドレスに興味がないので公爵夫人に任せておけばとりあえず恥をかくことはない。ベビーベッドにいるヴィンセントをメイドに任せてクレアは公爵夫人の元へ向かった。
「やっぱりこのグリーンの生地がいいわ。これは披露宴のメインドレスに使用しましょう。これに会わせる宝飾品を出しておいて。ウェディングドレスのレースは決まったから、あとはティアラね。いくつかピックアップしたけど実際にドレスを着て決めましょう。あぁクレアさん!ウェディングドレスの仮縫いができたのよ!早く着てみてちょうだい!」
部屋へ行くと、ドレス工房のスタッフとメイドたちが右へ左へと慌ただしく行き交っている。お色直し用の仮縫いのドレスがあり、そこで公爵夫人はあれこれと指示を出していた。上機嫌でクレアを呼ぶと仮縫いが出来あがったばかりというウェディングドレスの元へ連れて行かれる。そのドレスを見た瞬間、クレアは息が止まった。
「……っ…」
「素敵でしょう?クレアさんの綺麗な体の曲線が映えると思って急遽マーメイドラインのドレスに変更したの!王道のエーラインも良かったのだけどありきたりで出来もイマイチでねぇ。これに変えて正解だったわ!試着したらティアラを選びましょう」
『素敵だよ、クレア』
『君がこのドレスを着てくれる日が待ち遠しい』
『クレア、愛している』
ぐるぐると記憶が交差する。あの時の情景が鮮明に蘇って心が黒く塗りつぶされていく。愛しさと悲しさと苦しさがぐちゃぐちゃに混ざり合って心が悲鳴を上げた。
どうして忘れさせてくれないのだろう。
どうして約束を守ってくれないのだろう。
どうして人の心を潰すようなことをするのだろう。
どうして……
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして
どうして、レイス
目の前に冷たくなった彼がいる。顔は潰れていて見ない方がいいと布で覆われていた。
その隣に彼との結婚式で着るはずだったウェディングドレスがある。せっかくだからと主流のものではないマーメイドラインのものを作った。
世界から音が消えて、まるで自分だけがその場に取り残されたような錯覚に陥る。
何もかもが黒く染まっていく。黒くて何も見えない、真っ暗な闇。
この後どうなったか記憶はない。ただ、苦しくて、気持ち悪くて、ブツリと何かがキレたように目の前が真っ暗になった。




