山越え2
「アイラ、起きろ、魔獣が出た」
コラン様の声に目を開けると、急に体が浮いた。
あれ、なに? 私、寝てた?
目をこすって頭を上げると焚火の向こうで、なにかに対座するハージ兄が見えた。
「落ち着いて、声は出すな。きっとまずミシェルたちを狙うはずだ」
暗闇に目が慣れてくると、無数の目玉がキョロキョロと見えた。
犬の魔獣?
普通の犬でないことは目が六つついていることでわかる。
一、二、三、四、五……一体何匹いるのだろうか。じりじりと近づいて、コラン様が言ったようにミシェルたちを狙っているようだ。
「奴らは火が苦手なんだ。魔法でハージを援護するから、アイラはじっとしていてくれ」
魔法? 魔法でそんなことが出来るの?
声を出さずにコラン様にコクコクと頷く。
じっとしていることしか私にはできない。
ハージ兄とミシェルたちが気になっていると、隣でコラン様がなにか呪文を唱えだした。
あっ——!
一匹の魔獣がとうとうミシェルの方へ飛び出した。
その動きを皮切りに、次々と犬の魔獣が襲いかかる。
すると、隣が急に明るくなった。
コラン様の手のひらの上に、人の頭ほどの大きさの丸い火の玉が浮かび上がる。
コラン様が何かを唱えると、その火の玉は勢いよく魔獣の群れへ飛んでいった。
キャン! キャン!
火傷したのか、魔獣たちは悲鳴を上げながら燃えた毛皮の火を消そうと地面に転がる。
すごい……!
魔法って、こんな風に使えるんだ。
その間に、ハージ兄が剣を振るい、次々と魔獣を斬り伏せていく。
コラン様が火の玉を放ち、ハージ兄が魔獣を切り裂く。
二人が魔獣を倒し終えるまで、ほとんど時間はかからなかった。
毛皮の焦げた匂いと、生臭い血の匂いが漂う。
領地を荒らす魔獣狩りを見たことはあったが、目の前で倒される瞬間を目撃するのは初めてだった。
こんな危険なこと、いや、もっと危険なことを、この二人はずっと経験してきたのだろう——。
衝撃的すぎて吐きそうだし、気分も悪い。
でも、なんとか耐えなくちゃ……。
「……アイラは、見るのは初めてか?」
「こ、こんなに直接見るのは……」
そう答えた瞬間、コラン様のマントが目の前を塞いだ。
どうやら、見えないようにしてくれているらしい。
「ハージ、ちょっと、後始末が見えないところでアイラを休ませてもいいか?」
「あ……こっちは大丈夫です。アイラをお願いします」
心配そうなハージ兄の視線を受けても、私は声をかけることができなかった。
なにもしていないのに、情けない。
遅れてやってきた震えが、膝をガクガクと揺らす。
木の下に座るよう促されると、コラン様に後ろから抱きかかえられ、そのまま座り込んだ。
「怖かったな……。私と繋がってなければ見ずに済んだのに」
「いえ、情けなくてすみません。きっと、お二人にとっては、大したことのない出来事なのでしょう?」
十数匹の魔獣——恐ろしい牙、うなる声。
二人は少しも動じることなく、それを次々と倒していった。
その光景を思い出すだけで、再び体が震える。
「すまない。こんな時に、どうしてやったらいいかわからない」
コラン様がマント越しに私の腕をさすってくれる。
大きく温かい手の感触に、少しずつ震えが治まっていく。
なにより、コラン様の心臓の音が、不思議なほど安心させてくれた。
「ミシェルたちは、無事ですよね?」
小さく尋ねると、コラン様がわずかに笑ったのが分かった。
「……ああ、もちろん無事だよ」
「もう、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
震えがおさまったことを伝えたが、コラン様は私の言葉を完全には受け止めていないようだった。
「後片付けが済んだら、ハージが呼びに来るだろう。大丈夫なら、顔を見せてくれ」
もぞもぞとマントから顔を出すと、覗き込んでいたコラン様と目が合う。
コラン様は、私の頬についた髪を払いながら、静かに顔色を窺っていた——。
「あ、火の玉……」
頭上に先ほどより小さめの火の玉が浮いていた。
明るいと思ったら、これで照らしていたのだろう。
光で照らされたコラン様の美しい顔。
なんて優しい表情をしているんだろう。
「大丈夫そうだな。口を開けて」
反射的に口を開けるといちごの飴が私の口にいれられて、下唇を指で軽く押された。
私はコラン様の指が唇から離れていくのをぼんやりと目で追った。
一瞬だけ。
ほんのその一瞬だけ、私がコラン様の特別になったような錯覚をした。
甘い飴玉の味が少し苦く感じたのは……きっと気のせいだと思う。
「アイラ、大丈夫か?」
ハージ兄はミシェルたちを連れてきて、近くの木に繋ぎ直した。
その間、新しくコラン様が焚火を起こしてくれる。
私は焚火の側に加わったハージ兄に声をかけた。
「アイテム、たくさん取れました?」
ハージ兄は冒険者だ。
魔獣のアイテムを回収し、ギルドで売っている。
今までも、こうして魔獣をたくさん倒してきたのだ。
そして、ずっと仕送りを続けてくれた。
感謝こそすれ、気分を悪くしている場合じゃない。
私が笑いかけると、ハージ兄はやや乱暴に頭を撫でた。
「ダークウルフの牙は高く売れるからな。プレスロト国に着いたら換金して、美味しいものを奢ってやる」
「楽しみです」
「ハージ、焚火の番は私がする。眠ってくれ」
「……アイラをお願いします」
そう言って、焚火の向こう側でハージ兄はコロンと寝転がった。
疲れていたのだろう。すぐに寝息が聞こえてきた。
なんだか、兄の知らない一面を見てしまった気分だ。
焚火がパチパチと燃える音を聞きながら、私はコラン様に尋ねた。
「コランお兄様、ハージお兄様は……その、冒険者として強いのですか?」
「……ああ。ハージは勘もいいし、なかなかの腕前だ。うちの騎士団の副団長と比べても、なんら遜色はないだろう。氷の山でも、ずいぶん助けられたからな」
「そうですか……。あの、さっきの魔獣よりも危険なものがたくさんいるのですか?」
魔獣と戦うハージ兄を見て、私は急に怖くなった。
あんなにたくさんの魔獣を相手にして。
ハージ兄はずっと、戦い続けてきたのか……。
「この山にか? こちらが刺激しなければそうそう襲ってはこないだろう。ちなみに先ほどのダークウルフの強さは中の下くらいだな。ただ、群れを成してくる分、厄介な魔獣だ」
「中の下……」
だったら、ハージ兄はいつもこれよりずっと強い魔獣と戦っているのかもしれない。
「心配か? 私もハージもいるから大丈夫だ」
「いえ、ハージお兄様はこうやって魔獣を倒してきたのかな、と思って」
「冒険者だからな」
「……本来なら領地を守るのがハージお兄様の仕事だったのです。なのに冒険者になって、家のためにお金を工面してくれました。私が学校に行けたのはハージお兄様のお陰です」
「ハージはいい兄だな」
「はい。自慢の兄です」
「私も」
「?」
「私もアイラの自慢の兄になりたい」
コラン様が私のポニーテールを揺らした。
見つめられると胸が苦しくなる。
私の「兄」になりたいだなんて、こんな光栄なことはない。
やはり、コラン様はハージ兄が好きだから私を妹と思って可愛がってくれているのだ。
本当なら手放しで喜ぶところなのに。
なのに、どうして胸がチクチクするのだろう。
ハージ兄を取られちゃうから?
それとも……これ以上は考えちゃいけない。
大好きなハージ兄とコラン様。
モヤモヤする気持ちに蓋をして、ただ、大好きな二人を見守っていかないと。
赤い糸で繋がって、優しくされたりしたら、特別に思ってしまっても仕方ない。
きっと、これは呪いの効果なのだ。
……赤い糸の呪いとは、なんて厄介なものなのだろう。