第七話 ランデブー
それから、地獄の特訓の日々が始まった。
毎日は規則正しく過ぎていく。朝起きたらまず早朝ランニング。朝ごはんはパンで、学校へ。昼ごはんはたっぷり精のつきそうなものだ。そして学校から帰ってくればまたランニング。そして風呂にはゆっくり入り、それから夕食。夕食後はストレッチをして夜の十時には布団に入る。こんな日々が続く。
イザベラはとにかくやる気だった。彼女はトレーニングウェアまで用意してきたのだ。
上は涼しげなノースリーブ。これでもかというくらい胸が強調されている。汗をかけばスポーツ用のブラが少し浮き上がり、それが心底エロい。下はスカート調のフリルがついたショートパンツ。上下は洒落た原色で、そのまま凱旋門の周りをランニングできそうなくらいだった。
かたや栗栖は学校指定の体操服。野暮ったいことこの上ない。もっともイザベラに言わせれば本番と同じ服で走ることは慣れという意味でも良いそうな。靴だけは新しいランニングシューズをイザベラが買ってきた。サイズもぴったりだった。
「では走りましょうか」
イザベラの言葉で毎日のランニングはスタートする。
彼女の体力は底抜けだった。しかし最初こそついていくのでやっとだった栗栖も、2日3日と続けるうちに慣れていく。筋力と違って体力というものは思ったよりもつきやすいらしい。また、イザベラがフォームの修正をしてくれたのでそのおかげもあるだろう。
「良いですか、ご主人様。腕は体と平行に振る感覚です。腰より前にはふらず、腰から後ろに水をかくように腕を振り続けるんです。そして足はとにかく前に出す。そう思い続けることも大切なのです」
前に――前に――前に。
栗栖は走る時、とにかくそのことだけを想った。イザベラの扇情的な姿もそのうちに目に入らなくなり、自分が軌道に乗った一個の衛星のように感じてくる。
そうしているうちに、日常生活でも変化が出てきた。なんだか日中も生き生きとしてきたのだ。体力がついたからか、それとも適度の運動で夜もぐっすり眠れるおかげか。とにかく目つきまで変わってきた。
「なあ、お前最近元気だな」
友人の山崎が言ってくる。
「そうか?」
「あ、もしかして星5レア引いた? ピックアップの」
「ま、そんなところかな」
もしもメイドにレアリティをつけるなら、イザベラは文句なしで最高レアリティだろう。
「良いなあ。俺、今月はもうお金なくてさ。親に課金止められてんだよね。なあ、金かしてくれねえ?」
「貸すわけないだろ」
「だよなー」
「友人間でのお金の貸し借りはトラブルの元だってイザベラも言ってたからな」
「イザベラって誰だよ」
「メイドだってば」
また可哀想な目で見てきた。
「お前もそろそろ現実見たらどうだ? そういえば最近店に外人さんが来るんだよ。朝なんだけどな、俺接客したいんだけど父ちゃんがダメだって言うんだよ。ずるいよな、その人が来る時間だけ父ちゃんが接客してんだぜ? いつもは中でパン焼いているのにさ」
「へえ、そうかい」
たぶんその人、俺の知ってる人だよと栗栖は心の中で言う。
「外人さんなんだけどさ、マジで奇麗なんだよ。俺もああいう人とお近づきになりたいなあ。お前もメイドがどうとか言ってないでさ、真面目に外人さんと付き合える方法考えたら?」
「ちょっと待て、それは真面目に考えることなのか?」
「あたりまえだろ~」
まったく、どっちの頭がおかしいのか分からなくなってきた。
そんなバカな会話もあったりしたが、とにかく毎日のトレーニングは続く。イザベラは当然のように土日も走り込みをさせた。
「たまには休みが欲しい」
「そうですね、来週は休みにしましょう」
「それもうマラソン大会終わってるし」
「あら、そうでしたか?」
いけしゃあしゃあと言うのだ。
休日のランニングはいつもより遠くまで行くことになった。先頭が栗栖、イザベラは陰のようについてきては、時折励ましの言葉をかけた。
隣町の広い公園だった。そこに到着したのは昼前。道のりは約二十キロ。途中で一度小休止を挟んだが、なかなかのタイムだった。
昼間の公園といえばたいてい小さな子どもをつれた若奥様たちがいる。あとはお金のないカップル。日曜日だというのにスーツ姿のサラリーマンもいる。そこは爽やかな日差しがみちみちた健全な空間だった。
「さてと、ご主人様。お昼にしましょうか」
「お昼って、俺たち手ぶらじゃないか」
イザベラは腕に巻いたレディース用の時計を確認する。それはスイス製の品の良い時計だった。しかしどこか古びた時計でもあった。たぶん流行したのはずいぶん昔だろう。
「そろそろでしょうか」
イザベラがそういうのと同時に、公園の一角にある駐車場に白いミニバンが入ってきた。その車を見た瞬間、すぐに気がついた。あれは父親の車だ。
降りてきたのはやはりというか、栗栖の父親だった。
「え、親父?」
父親は手にレジ袋を持っている。
「やあやあ、二人とも」
「いつ帰ってきたんだよ」
「今朝だよ。それよりお帰りは?」
ふん、と栗栖は鼻を鳴らす。父親にお帰りというのはどうしてこんなにも気恥ずかしいのだろうか。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「うんうん、イザベラちゃんは出来たメイドだなあ。それに引き換え我が息子は挨拶もできないのかい」
「うるせえな。それより何持ってんだよ」
「お昼ご飯。二人共、まだなんだろ?」
「申し訳ありません、旦那様。足に使ってしまいました」
「別に気にしないよ。それにしてもこんな場所まで走ったの? すごいね」
父親はレジ袋をイザベラに手渡す。中には彼女が作ったサンドイッチが入っているのだ。もともと栗栖の父親の帰りを知っていたイザベラが用意しておいた計画だった。
栗栖の父親を足に使うことに抵抗はなかった。イザベラにとってご主人様は栗栖であって、栗栖の父親はあくまでご主人様の父親なのだ。
とはいえ、そんなことをわざわざ口にだすような完璧メイドではない。ただ微笑んで、それを感謝のしるしとした。
「じゃあ僕、帰るから」
「なんだ、食べていかないのか?」と、栗栖は聞いた。
「だってねえ」そういって、父親は気まずそうに笑った。「僕、おじゃま虫だろ」
「おじゃま虫? それはいったいどんな虫ですか」
「いやいや、イザベラちゃんは知らなくてもいいことさ。じゃあね、トウヤくん。頑張りたまえ。がむしゃらに走れるのは若者の特権だよ」
父親は分かったようなことをいうと、すぐに帰ってしまった。
「あはは、何言ってるんだろうねあの人」
栗栖は誤魔化し笑いを浮かべた。
「おじゃま虫ってどんな虫ですか?」と、イザベラはもう一度聞く。
「俺も知らないよ」
栗栖は努めてぶっきらぼうに答えるしかなかった。そうしなければ、にやけてしまいそうだったからだ。
イザベラが芝生の上にレジャーシートを敷いている。
周りには公園で食事をとっている人なんていない。けれどイザベラのような外国人の女性がそういうことをするだけで、ここでピクニックをするのが実に自然なことであるように見えてくる。誰も文句なんて言わないだろう。
木陰に敷かれたシートに、イザベラは「どうぞ」と栗栖をいざなった。
栗栖はくたくたになりながらも、その場に崩れるように腰を下ろした。一度座ってしまうともう立ち上がれないのではないかと思ったくらいだ。
「疲れたなあ」
イザベラは微笑んだ。
「ご主人様はよくやっておりますよ」
ちょっと驚いた。
栗栖の記憶では、イザベラが自分を褒めてくれたのは初めてだったからだ。これには栗栖も照れて、「よせやい」と、頭を掻いた。けれどその言葉一つでこれまでの頑張りが報われたのは事実だった。
「どうぞ」
と、おしぼりを渡される。それで手を拭く。イザベラはサンドイッチを取り出す。
「美味しそうだね」
「はい、美味しいですよ」
イザベラがサンドイッチを手渡してくる。その瞬間、指の先が触れ合う。あっ、と思い栗栖は手を引いた。そうすると、イザベラの手は蛇のように伸びてきて、栗栖の手を改めて掴んだ。その手のしなやかな感触――栗栖は初めて女性の手に触れたのだ――に、彼はあがりきった。
「そんなに緊張しなくても良いじゃありませんか」
その微笑みは、どこか妖艶だ。
もてあそばれていると感じた栗栖は、無理やりなんでも無さそうな声を作った。
「汗をかいてるから、悪いと思ったんだ」
「あら、そうでしたか。てっきり私、ご主人様が女性に免疫を持たないのかと」
ケラケラと笑うイザベラ。確実に楽しんでいる。メイドのくせに、と栗栖は内心でむっとした。どうにかぎゃふんと言わせる方法はないものか。……ぜんぜん思いつかなかった。
「どうぞ、ご主人様。改めて」
「ありがとう」
サンドイッチを食べながら思う。
――いったいこの女は何なのだ?
どうして俺の隣にいる。そもそもSランクのメイドになりたいと言っているが、それはどうやって決められているんだ。俺と一緒に居たら昇格するのか? わからないことだらけだった。
だがイザベラは確かに今、自分の隣にいる。それは真実だった。
イザベラはその細長い四肢を奔放に伸ばしている。いつもはストレートなプラチナブロンドの髪も運動しやすいようにポニーテールで縛ってある。その首筋の白いこと白いこと。まるで石膏像と見紛うほどだ。
イザベラもサンドイッチを食べている。栗栖は彼女が食事をとるところを初めて見た。今まで二口女よろしく、夜中に上の口からこっそりと食べているのではないかと疑っていたくらいだ。
「人前でものを食べるのは嫌いじゃなかったのか?」
ちょっと意地悪な質問だったかな、言ってから栗栖は後悔した。
「今日は良いんです」
「どうして?」
「だって今日は日曜日ですから」
それが答えだとばかりにイザベラは胸を張る。本当にもう、張り裂けそうなくらいだ。胸元からはちょっとだけ谷間も見えていた。
「な、なんでだよ」
あまり見ては失礼だと思い、無理やり目をそらす。
「日曜日はメイドもお休みなのです。だから今日の私はオフの日なんですよ」
初めて聞いた。
「じゃあなにか、俺はメイドじゃないキミに連れられて、休日に隣町まで走らされたのか?」
「そういうことになりますね」
あまりにも悪びれないイザベラの態度に、怒る気力も失せた。それでどうしたかというと、栗栖は笑った。
「おかしいですか?」
「ああ、おかしいさ。じゃあ俺たちはいま、休日に一緒に出かけてるだけか?」
「そういうことになりますね」
「そういうのさ、何ていうか分かるか?」
そう、栗栖は聞いた。
結構本気で聞いたつもりだ。
栗栖はイザベラのことが好きだった。だってこんなに奇麗な人なんだから。だがイザベラの態度が自分への好意なのか、それともメイドとしての振る舞いなのか、それが分からない。どちらかといえば後者のような気がする。
つまり片思いなのだ。
「さあ、日本語を十全に知っているわけではありませんので。しかし、フランス語でなんと言うかなら知っていますよ」
「へえ、なんていうの?」
「rendezvousです」
聞いたことのある言葉のような、ないような。あまりに発音が良すぎて、栗栖には何と言ったのかよく分からなかった。だけどそれが悪い意味の言葉ではないということは理解できた。
「このサンドイッチ、美味しいな」と、栗栖は言う。
「当然です、私は完璧なメイドですから。あとはワインでもあれば良かったのですが」
「俺は未成年だぞ」
「フランスでは16歳から飲酒が認められています」
「ここは日本だ」
「そうですね」
イザベラが目を細めた。その顔があんまりにも奇麗で、一瞬時が止まったかと錯覚したほどだ。でも違う、止まっていたのは栗栖の時間だけなのだ。
イザベラがゆっくりとまばたきをしている。その姿を一生でも見ていたいと思った。