第五話 メイドの周回作業
食事が終わって、約束していたパン屋に案内した。
「素晴らしいですね、明日の朝、さっそく焼きたてのパンを買ってきましょう」
今まで知らなかったのだが、街のパン屋というのは早朝からやっているのだ。この山崎パン店も朝の五時に開店だった。
さて、家に帰るとイザベラがとんでもないことを言い出した。
「ご主人様。食後のお勉強の時間ですよ」
いやだよ、と栗栖は首を振る。今からメンテナンスの終わったソシャゲで新イベントをやるつもりだったのだ。結局メンテナンスは当初の予定より一時間程伸びて、七時十分に開けた。
「今からイベントがあるんだ!」
「イベント――? すいません、ちょっと何を言っているのか分かりかねます」
「さっき言ったじゃないか。ソシャゲのイベントだよ」
「ご主人様、お勉強が終わってからにしてください」
有無を言わさぬ迫力に思わず頷く。
今日はどのような宿題が出ましたか? と聞かれて素直に答える。あら、あんまり少ないんですね、とイザベラは驚いたようだが嘘を疑うようなことはしなかった。栗栖の言うことを素直に信じたのだ。これには栗栖もちょっと嬉しかった。たった二枚のプリントが宿題なのだ、むしろ勉強をみてくれるというイザベラに罪悪感すらあった。
だが、その後のイザベラの言葉が栗栖には衝撃だった。
「では教科書をお見せください。ご主人様、苦手な教科はなんですか?」
「英語と数学」
「では得意な教科は?」
「いちおう、国語かな」
「では今日は苦手な二つの予習復習をしましょう。どのような勉強をやっているのですか? 教科書の何ページでしょうか」
「予習とか復習するの? いまテスト前じゃないよ」
「ご主人様、お勉強は毎日やるのがよろしいですよ。そうすればテスト前に慌てることもありません」
正論である。
「でもさあ、じゃあ俺はいつソシャゲの周回をすればいいんだよ?」
「そんなものは時間の無駄です。ストーリーだけ追っていれば良いのです」
「いや、まあ……そうね」
そりゃあそうだけど、と栗栖は頭を抱える。たしかにソーシャルゲームの周回作業ほど後になって時間の無駄を感じることもない。そもそも作業、などと言われている時点で気がつくべきなのだ。あれは遊戯ではなく作業なのだ。その行為はときにハムスターの車輪周しに例えられるほどだ。
「というかイザベラさん、実はソシャゲのことよく知ってるんじゃ?」
「数ヶ月前までお屋敷で住み込みをしていましたから。そのときに同室だった娘がそういうのが好きだっただけですよ。私自身はまったく興味ありません」
「でもさ、俺、勉強したくないよ」
栗栖はとにかく勉強が嫌いだ。別に学校の成績は悪いわけではないのでそう問題とも思っていない。教師に怒られない程度の、最低限の成績は維持しているつもりだ。
「ご主人様、私は世界で最高のメイドを目指しております」
唐突に夢を語られて、栗栖は目を丸くした。
この娘は凄いな、とも思った。
人間、高校生くらいになると自分の夢も正直に話せなくなるものだ。不思議なもので、昔は夢を持って生きろと大人は言った。けれど進学や就職などの現実が近づいてくるにつれ、夢ばかり見るなと言葉は変わっていくのだ。
「最高のメイドである私のご主人様は、最高であるべきなのです。ですからご主人様にはそのための努力をしてもらいます。もちろん私も努力をします。それが良い主従関係と私は思います」
「……分かった、勉強をしよう」イザベラの熱意に動かされた。「でも、ソシャゲの周回も大事なんだ」
「それは勉強が終わってからでは?」
「いや、イザベラ。キミがやってくれ」
「はい?」
イザベラはキョトンとした顔をしている。
だってメイドだろ、と栗栖は笑いかけた。
「俺はちゃんと勉強をする。そのためには後顧の憂いを無くしたんだ。ちなみに後顧の憂いって分かる?」
「大丈夫です、分かりますよ」
「と、なるとだ。ソシャゲのイベントはどうしても気になる」
「それで?」
「その周回をキミに任せたい!」
勢いで言ってみた。
イザベラは深い、それこそマリアナ海溝のように深い溜め息をついた。やっぱりダメだったかなと栗栖は内心で冷や汗をかく。もしかして嫌われた?
そもそもいま言ったことは全て口からデマカセだ。本音で言えば周回をしたくないだけ。面倒な作業を押し付けようとしているのだ。
「ダメ……かな?」
沈黙。
緊張。
動悸。
そしてイザベラは、小さく頷いた。
「そうですね、私も最高のメイドを目指す身です。食わず嫌いはいけません。ソシャゲの周回もお任せください。ご主人様、特A級メイド、イザベラ・リシャールが全てつつがなくやっておきましょう」
「本当か! ありがとう! はい、これスマホ。あ、アルバムの写真とネットの検索履歴は間違っても見ないでくれよ!」
「承知しました」
これで心置きなく勉強ができるぞ!
と、思ったが別に勉強などしたくない。なんだか上手いことのせられた気もしなくもない。栗栖からすればどれだけ面倒でもソシャゲをやっている方が良いのだ。
「そういえばイザベラさん、日本語読めるの?」
スマホの画面を見つめながらイザベラは答える。
「あまり難しくないものであれば。私は8カ国語と6つの言語を習得しております。その中には日本語も入っておりますのでご安心ください」
「ふうん。あ、周回の順番はこうね。これなら8タッチで一周終わるから。それでこのクエストを延々やっておいて。体力がなくなったら果物使って回復させてね。間違っても石で体力回復したらダメだぞ」
「分かりました。ご主人様、話すのはよろしいのですが手も動かしてくださいね」
「はいはい、宿題ね」
それにしても、と栗栖は思った。この前までどこかの屋敷に住んでいたのならばずっとそこに居ればよかったのではないだろうか? いったいどうして日本に来たのだろうか。
今度聞いてみようと思った。今は、真剣にスマホをいじっているイザベラを見ているだけで満足だった。こうして横顔を見ていると、息がつまるほどの美しさだ。なんだか現実味がない。夢の中のようだ……。
そして夜がふけていく。
結局この日、栗栖は一時間半勉強をした。家でこんなに勉強をするのは初めてだった。イザベラはその間、ずっと周回作業をしてくれた。悪くない成果だった。