第四話 2人の食卓
それから授業が終わり、放課後。
もしも本当に帰宅部という部活があるならば間違いなくエース級の二人、栗栖と山崎。最後の授業が終わったその瞬間には帰り支度を済ませていた。そして放課後を示す鐘の音が鳴り止まぬうちに教室を飛び出している。
いつもなら、
「どうせメンテだろ。どっかで遊んでいくか?」
となるところだが、今日は違う。
「さあて、俺はさっさと家に帰るかな」
「そうか? じゃあ俺も店の手伝いでもしようかな」
「それはやめておけよ」と、山崎に言っておく。
「なんで?」
運動部のやつらが制服から着替えてぞろぞろと学校から出ていくる。今度のマラソン大会に向けて、部活そっちのけで走り込みでもするのかもしれない。
「いや、まあほら。いつメンテが終わるか分からねえぞ」
それもそうだな、と山崎は帰っていった。
危ないところだった。山崎が店番でもしていようものならイザベラを連れて行くことができなかった。今日の朝、パン屋を教えると約束したのだ。
家に帰るとイザベラが廊下にしゃがみ込んで掃除をしていた。といっても栗栖の家は汚くなりようがない。そもそも物が少ないのでホコリが積もる程度なのだ。いわゆるゴミ屋敷とは違う。
そのぶん、イザベラが掃除したことによって家は新築のようにピカピカだ。
「ああ、ご主人様。お帰りなさいませ。もうそんな時間ですか」
「うん、ただいま」
家に帰った途端、心臓が早鐘を打ち出した。
緊張しているのだ。
イザベラはすまし顔で掃除をしている手を止めた。どうやら雑巾がけをしていたようだ。白い前掛けが少しだけ汚れている。
立ち上がったイザベラは、その前掛けで手を拭いた。
「ご主人様、本日の夜ご飯は標準的な日本の家庭料理にしてみました」
「そりゃあ良い、パン屋はどうする?」
「そうですね、あとでも良いですか? そろそろ魚が焼き上がります」
もちろん、と栗栖は答えた。イザベラはパタパタと足音をさせてキッチンへと行く。見ればスリッパを履いている。実に外国的だ。
というわけで、いつもより早い夕食をとることになった。
「どうぞ、ご主人様。おあがりください」
メニューは白米、焼き魚、そして味噌汁。あとはサラダだ。
どこで買ってきたのだろうか、その疑問に答えるように「昼間、スーパーに行きました」と、イザベラは聞いてもないのに言った。
「お金は?」
「旦那様に」
まったく、あの父親はどこまで知っているのだろうか。
いやそりゃあ全て知っているのだろうさ。イザベラのことは知らないなどと言いながら、全部手の平の上なのだろう。帰ってきたらとっちめてでもイザベラのことを聞かなければいけない。
そこでイザベラ本人に聞けないあたり――まあ、つまり栗栖はそういう男なのだ。
なんとも違和感のある食卓だった。それは空がまだ茜色の時間に夕食を食べるからではない。イザベラがそばに立っているからだ。
「キミは食べないのか?」と、栗栖は当然の疑問を聞いた。
「はい、食べますよ。あとでですが」
「いま食べれば良いじゃないか。座りなよ」
「それは命令ですか? 主人としての」
翡翠のようだったイザベラの目が、今はビー玉のように空虚に見えた。
「命令じゃないさ。お願いとか、提案とか、そういうの」
どうしましょうか、とイザベラは小首をかしげた。その目はまるで値踏みでもするように栗栖を見つめている。栗栖は自分の体の裏側を見つめられたような嫌な気持ちになった。
「ご主人様、メイドは主人と食事を共にはしません」
「日本じゃ普通、一緒にご飯を食べるものなんだよ」
「そうですか、では」イザベラは席に座った。だが自分の分の食事はないようだ。「申し訳ありませんが人前で物を食べるのは苦手なので」
「ならまあ」
さきほどよりはマシになった。
だがどうにもイザベラは不機嫌そうだ。
「ど、どうしたの? なにか気に触るかな」
やっぱり食べたいのだろうか。
「いえ、ただ何か会話をしていただかないと。フランス人は話し好きなのです。こういった沈黙には慣れていません」
どの口がいう、と栗栖は思った。ならせめて愛想の一つでもよくしたらどうだろうか。
ただイザベラの美しさはその人形のような沈黙にこそあるとも思った。ならば彼女はこのままで良いのだ。せいぜいこちらが笑わせてやるよう努力してみせよう。
とはいえイザベラと出会ったのは昨日の今日だ。ほとんど初対面に近い人間となにを話せというのか。いきなり話をするのが好きだから話をしてくれだなんて、親に時々言われる「最近どうだ? その……学校とか」という質問よりも悪質だ。いうなれば私の楽しめることを言ってみろ、と言われているようなものだ。
無茶振りだ。
こういう時は共通の話題を探そう。
と、思ったがそれもない。仕方がないので最終手段だ。
「俺の話よりも、キミのことを知りたいな」
誤魔化した。
「私の話ですか?」
「そう、キミの話。例えばそう……趣味とか」
「ありません」
間髪入れずに答えられた。
しかしさすがのイザベラもそれだけでは素っ気ないと思ったのか、「ご主人様は?」と付け足してくれた。
「いや、俺もないけど。しいていうならソシャゲかな。分かるかな、ソシャゲって」
「ソーシャルゲーム。もちろん知っております。日本の若年層を中心に絶大な人気をほこる、主にスマートフォンを使用してプレイするゲームのことですね」
「うん、まあそうだね」
「ネット内で他人との繋がりを感じさせるゲームが多く、そのほとんどは相手よりも自分が優れているという優越感を得るためのものです。またガチャ、や、ガシャと言った射幸心を煽るシステムが搭載されており、そのために大量のマネーを投入するということがにわかに社会問題になっているとか」
「うんうん、だから無理のない課金――無課金が大切だよね」
イザベラはジト目で栗栖を見つめる。
「ご主人様、無駄遣いはダメですよ」
「む、無駄遣いなんてしてないよ」
目をそらす。課金は多くても月5000円までと決めているのだ。もっともそれはお題目で、熱が入ればさらにお金を入れることもある。
「フランスにもクールジャパンはそれなりに輸出されておりますよ。残念ながらソーシャルゲームはあまり人気がありませんが。しかし初音ミクなどは根強い人気で、ときどきライブなどもやっているそうですよ」
「へえ、イザベラさんも好きなの?」
「いえ、私は興味がありません」
イザベラは斬り捨てるように言った。
そして会話が途切れる。
栗栖はゴムのように味のしない白米を咀嚼する。なんとも気まずい沈黙だ。イザベラも会話の取っ掛かりを必死で探しているようで、目が泳いでいる。
なんとか見つめけて話を切り出そうとしたら、
「あのさ――」
「あの――」
というふうに、同時になってしまった。
「あ、イザベラさんからどうぞ」
「いえ、ここはご主人様から」
「こういうのはレディーファーストだろ?」
「メイドはメイドであってレディではありませんので、あしからず」
「じゃ、じゃあ。あのさ、どうして日本に来たの?」
栗栖は勇気を出して聞いた。このまま何も知らないままでいたら、これ以上親密にはなれないだろう。
イザベラは栗栖の質問に、じっくりと二十秒ほど考え込んだ。そして、
「ここにはご主人様が居ますから」
「俺が?」
分からなかった。どうして俺が居たら日本に来るということになるのだろう。栗栖の困った顔を読み取ったのだろう、イザベラが話を続けた。
「これでは不親切でしょうか。では、もう少しだけ説明をします。私、イザベラ・リシャールは世界でもトップクラスの特Aのメイドです。
これはW・S・O(World ServantOrganization)――世界召使機構が定めた、厳正なランクです。そして私はこのランク付けで最上位のSランクを目指しているのです」
「Sランク?」
なんだか格好いい、と栗栖はそんなことを思った。
「はい。しかし私には『なにか』が足りないのです。それが分からなければ、その『なにか』を手に入れなければ、私は今度の試験も必ず落ちることになるでしょう。ご主人様、私は探しに来たのです、この日本に。私の足りないものを」
イザベラは真剣な顔をしていた。
結局、日本に来た理由を教えてもらっただけで、どうして自分のところに来たのかは謎なままだった。だがこれ以上聞くのは野暮というものかと栗栖は口をつぐんだ。
味噌汁を飲む。ちょっとだけ味が濃い。イザベラは栗栖が食事をとるところを、なんの感情も沸かないような瞳で見つめ続けたのだった。