第二話 いままでとは違う朝
翌日、いつもより速く目が覚めた。
窓の外から光が差し込んできている。もうすぐ夏が来る、陽が出るのも日に日に早くなっている。ゆっくりと体を起こし、血の回っていない頭で壁のポスターに目をやる。数年前に流行っていたアニメのポスター。テレビ放送が終わってしまえば話題にもならない。
低血圧気味の栗栖は、朝が弱い。起き上がってもしばらくは寝ているようなものだ。
やっとまともに動き出して布団のそばに置いてあったスマホを手にとる。お気に入りのソーシャルゲームのアプリを起動し見慣れたタイトル画面をタップ。ログインボーナスをもらい、寝ている間に回復したエナジーを機械的に消費する。
今日はメンテの日で、夕方からイベントが始まるのだ。それが楽しみだった。
ぐるぐると回る日常。いつもと変わらない朝。季節の変化は外の景色よりもゲームのイベントで理解する。世はすべてこともなし。天下泰平が栗栖の日々だった。
だから昨日の特異な出来事は夢だったのだ。まだ寝ぼけている。本気でそう思った。
バカバカしい、いきなり家にフランス人のメイドがやってくるなんて、そんなわけないじゃないか。一度思うと、むしろそれが本当のことであるという確証が強くなっていく。
いい夢を見た。奇麗な人だった。あんな人が家にいたら毎日楽しいだろうなぁ。
そう思いながら、部屋を出る。
と、廊下にイザベラがいた。
「Bonjour、ご主人様。おはようございます」
ボンジュールはかろうじてリスニングできた。
「ボンジュール」
片手を上げて挨拶する。
メイドは本当にいたのだ。夢ではなかった。
イザベラの表情はどこかマネキンじみている。だが口角が少しだけ上がったのを見るに喜んでくれているようだ。
「ご主人様、朝ごはんの用意ができました」
「う、うん」
本当にメイドさんなんだなぁと思う。
着ているものものメイド服だが、いわゆるところのアキバ系とは違う。フリルなんかがふんだんについているわけではなく、随所にアクセントとして存在する程度にとどまっている。
派手すぎず、しかし地味すぎず。現代的なメイド服だ。
とはいえ、メイド服をアニメやゲームで見慣れた栗栖には味気なく感じてしまうのもまた事実だ。
「――なにか?」
イザベラは首を傾げた。
「いえ、なんでもないです」
思わず敬語だ。
イザベラはつかつかと前を歩いていく。
むう、と栗栖は唇を尖らせる。
イザベラの身長は高い。モデル体型ですらりと足が長く、腰回りが引き締まっている。もしくはコルセットでも使って引き締めているのだろうか。なんにせよスタイルが良い。女性に対して免疫のない栗栖からすれば見ているだけで緊張してしまう。
「本日はいい天気ですよ」
と、イザベラ。
しかしこちらを振り返ろうとはしない。
「それは良いね」と、当たり障りのない返事。
バカか、と自分でも思った。もっと気の利いたことを言えないもんか。例も思い浮かばないが、とにかくイザベラが笑顔になるような言葉を。
栗栖の部屋は二階にあった。階段を降りていくイザベラ。それに追随する栗栖。
まさか朝からまたフルコースかと思ったが、さすがに違った。というよりも、昨晩の食事と比べてあまりにも質素だった。
用意されていたのは食パンとコーヒー。
「日本人は朝からコーヒーを飲むのが好きと聞いております」
まあ、確かに。
「どうぞ、こちら砂糖とミルクです。どうしましょうか、私が入れましょうか?」
「お願い」
とにかく朝は動きたくないのが栗栖トウヤという男だ。正直なところ朝食を食べる気もないのだが、わざわざ作ってくれたもの。残さず食べるべきだ。
それにしてもイザベラはこの食パンをどこで買ってきたのだろうか。買い置きなんてなかったはずだ。
父子家庭の野郎だけの暮らし。家事などほとんどできない。朝ごはんなんて食べないで済ますことばかり。母親が生きていた時分はそうではなかったのだが、毎日朝を抜いていたら食べなくても問題ないようになった。こういうのを適応という。
イザベラが砂糖とミルクを入れてくれたコーヒーは、まるでカフェオレのように甘かった。飲み干すと底には砂糖が沈殿していた。食パンにはマーガリンがたっぷり塗られており、その上にはメープルシロップがこれでもかとかかっていた。
そういえばフランス人には甘党が多くて、朝食から甘い物を食べると聞いたことがある。
「ご主人様、今日は時間がなくてありあわせで済ませましたが、明日からはどうしましょうか? 日本人は朝にご飯を食べる派閥と、パン食の派閥がいると聞き及んでおりますが」
「どちらかと言えばパン派かな」
「素晴らしい。フランスではそれが普通ですよ」
そりゃあそうだろう、と心の中で突っ込む。フランス人が朝から白米を食べていたらおかしい。
「つきましてはご主人様、近くに美味しいパン屋はありませんか?」
栗栖は迷った。
いやなに、パン屋がないというわけではない。だがそのパン屋は友人の家なのだ。そのため、美味しいという噂は聞いているのだが足を運んだことは一度もない。なんというか、友人の両親が作ったパン、というのは妙な照れくささがある。
「ないのでしょうか……?」
イザベラが悲しそうな顔をした。
その瞬間、栗栖は思った。もしも自分が異国の地に住むことになって、食事に食べ慣れた米がないとしたら。それは悲しいことのように思える。ホームシックは食事で発症するというのを聞いたことがある。誰に? たぶんだが、栗栖の父親が言ったのだ。
「あるよ、パン屋」と、栗栖はそう言った。
「ほんとうですか」
目を輝かせるイザベラ。
「それもとびきり美味しいぜ」
知らないが、まあ評判が良いのは確かなのだ。
「それは楽しみです」
「そうだなあ、後で案内するよ。学校から帰ってきてから」
「分かりました、ご主人様」
それにしても、この美しいメイドはいつまで家にいるのだろうか。昨日、栗栖の父親はとうぶんという曖昧なことを言っていた。
とうぶん――。
まだ高校生の栗栖にとって、大人のいうとうぶんというのがどれくらいの期間なのか分からない。
そういえばイザベラはいくつなのだろうか、と栗栖は疑問に思った。
「コーヒーのおかわりはどうなさいますか?」
「もらう。次は砂糖の量を少し減らして」
「かしこまりました」
母親が昔使っていたコーヒーサイフォンだ。まだあったのか、と栗栖は感慨深い。
イザベラは自分と同い年くらいにも見える。肌がみずみずしくて、目は活力に満ちている。その体のどこにもシワひとつ無いのでは、とすら思える。
けれど二十くらいだと言われれば、なるほど信じてしまいそうだ。少なくとも三十ということはないだろう。外国人の年齢は分からないが。
栗栖はイザベラの歳を二十前後と推定した。
大人? 子供? 分からないけど単身日本にやってきたのだ。しっかりしていることだけは確かだった。少なくとも栗栖家の二人よりは。
どたどたと慌ただしい音が聞こえた。階段を降りる音だ。
家で唯一の大人――栗栖の父親が降りてきた。その顔は蒼白だ。
「寝坊した!」
開口一番、それだ。こっちは大人のくせにしっかりしていない。
「おはようございます、旦那様」
イザベラはペコリと頭を下げる。
「寝坊した寝坊した、まずいまずい!」
父親は慌てた様子でテーブルの上にあった自分のトーストを口に詰め込む。そしてイザベラが栗栖のために入れたコーヒーを口の中に流し込んだ。
「熱っ、ってか甘っ!」
「おい、親父。それ俺のだぞ」
「甘かったですか、もうしわけありません」
「ごめんねトウヤくん。あとイザベラさん、僕のコーヒーは今度からブラックで」
「かしこまりました」
「つうか親父、なにそんなに慌ててんだよ」
朝から騒々しいんだよ、とため息をつく。けど、そのおかげでイザベラと二人っきりの時に感じていた緊張が吹き飛んだ。
「今日から出張なの! あー、まずいなあ。八時発のバスに乗らなくちゃいけないんだけど。走れば間に合うかな、タクシー呼ぶかな。いっそのこと駅まで車で行くか?」
「おい、ちょっと待て。出張なんて聞いてないぞ」
「昨日言わなかった?」
「聞いてない」
栗栖の抗議に、父親はしょうがないねという顔をしてみせた。
「イザベラさんが来たから、伝え忘れてたんだよ」
「そんな大事なことをか」
とはいえ、そういうことはこれまで幾度となくあったのだ。学校から帰ると置き手紙があり、しばらく帰りません、なんて家出みたいなことが書いてあるのだ。それで一月も戻らなかったことがある。それに比べれば朝に伝えてくれただけましというもの。
「旦那さま、準備でしたら昨晩のうちに私がやっておきました」
「え、本当にやってくれたの? 冗談で言ったつもりなのに、ありがとうね!」
「まったく、メイドだからってこき使うなよ」
「いえ、ご主人様。私はそれで良いのですよ。私はメイドですから、お二人の身の回りのことを全てお任せください」
「全て――」
「おい、トウヤくん。すけべな顔をしているぞ」
「うるせえ、生まれつきだ。まったく誰に似たんだか」
「親の顔が見てみたいね」
「お前だ!」
イザベラはくすりとも笑わない。代わりに隣の部屋から旅行かばんを持ってきた。
「どうぞ、旦那様」
父親はそれを受け取ると、服を脱ぎ始める。
「おい、親父!」
「あ、そうだった。今はイザベラさんがいるからね。失敬」
隣の部屋でスーツに着替えてきた。渋めの色合いのスーツだ。洒落た帽子までつけて、そのくせネクタイは今から結婚式にでも出るつもりか純白だ。性格はちゃらんぽらんな父だが、意外とこういう格好は似合う。
「じゃ、行ってくるから」
「いつ帰ってくるんだよ」
「とりあえず一週間かな。松本で二泊、そのあと山奥の温泉で一泊。それから上高地に登るんだ。あの俳優がいるだろ、いま人気の。なんて名前だったかな。お、お、緒方? あの人の写真を撮るんだよ」
「そうかい」
栗栖はその緒方とかいう俳優のことは知らない。アニメに関係する声優の名前ならばよく覚えているが、テレビスターの名前はそうとう有名でないと知らないのだ。
父親は家を出ていった。
後には若造と、モデルのようなメイドが残された。
「さて、俺もそろそろ行こうかな」
なんて白々しい、と自分でも思う。いつも学校に出る時間よりも三十分は早い。
「そうですか。ご主人様、よろしければお送りいたしましょうか?」
「送る?」
「はい、旦那様から車のキーを預かっておりますので」
「いや、それは遠慮しておく」
いきなり車で学校なんかに行けば、目立つに決まっている。そして運転しているのが外国人のメイドとなれば――そりゃあもう、大騒ぎになるだろう。
「そうですか、残念です」
と、イザベラはちっとも残念そうではない言い方をした。
まるで逃げるようにして家を出た。少し行って振り返るとイザベラが手を振っていた。やめてくれ、と栗栖は思う。あんなことをされたら近所で話題になってしまうじゃないか。
しかしイザベラはそんなことお構いなしなのだろう。
無表情でただフリフリと手を振り続けていたのだった。