第二話 ソフィアも突然に
その一室は、今まで使われていない部屋だった。つまりは空き部屋。しかし現在は違う。いったいどこから持ってきたのか、大きなホワイトボードが運び込まれていた。
「ご主人様、そこは先にXを代入するんです」
いつものメイド服ではなく、いかにも女教諭というようなグレーのスーツに身を包んだイザベラが咎めるように言い放つ。ご丁寧にメガネまでかけている。
前のボタンは全てあいている。糊のきいたワイシャツの胸元はこれでもかと膨らんでいる。まるで超上質のセクシー女優のよう――と言ったらさすがに軽蔑されそうなので栗栖は思うだけにしておく。
「え――あ、そうか。はいはい」
「ああ、そこ。また間違えていますよ。単純な掛け算ですよ」
「ごめん」
「ご主人様はケアレスミスが多すぎます。もっと落ち着いて問題に取り組んでください」
「分かってるよ」
と、言っているそばからまた間違えた。
イザベラがピシャリと机を小さな鞭で叩く。そして三角の伊達メガネをクイッ、とあげた。
「もう、何度言ったら分かるのですか!」
「なあ、もう数学やめないか? 頭が疲れてきたよ」
イザベラは腕時計を確認した。「もう5分です」と言う。この部屋には置き時計が一つもない。時間を知ることができるのはイザベラのつけた腕時計だけだ。これは集中力を増すためにとイザベラが考案したのだ。
「5分すれば休憩です。ほらほら、その問題だけ解いてしまってください」
栗栖はしぶしぶ問題に戻る。イザベラが買ってきた参考書は栗栖の通う高校のものよりも一段レベルの高いものだった。だからそこに書かれている問題も難しい。最初はぜんぜん解くことのできなかった栗栖だが、イザベラが根気よく教えてくれたことによりある程度はできるようになってきていた。
「またさ、今度も何位以内に入れって言うの?」
「さあ、どうしましょうか」
「プレッシャーかかるなあ」
イザベラはクスッと笑う。それくらいどうだというのですか、という笑顔だ。
6月も中盤に差し掛かってきた。来週からは夏休み前の中間テストが行われる。このテストで赤点を取ればうれし恥ずかし夏休みの補習が待っている。一応、去年の栗栖は全部の教科をパスした。今年も大丈夫だと思うが、イザベラが目指すのは当然そんなレベルではない。
「5位、はどうでしょうか?」
「さすがになあ。俺の成績知ってる? 一年の最後のテストじゃあ三桁台だったんだぜ」
「じゃあ8位で」
「刻むね。10位とかキリの良い数字にしてくれよ」
「じゃあ10番以内ですね。はい、目標ができたところで最後の問題はどうですか? あら、正解です。休憩にしましょうか」
なんだか上手いこと誘導された気がする。しかし男に二言はない。目下の目標は中間テストで学年10位だ。栗栖の学年に生徒は180人ほど。ちなみに普通科しかない。なのでテストも全員一緒。ここで10番というのは中々に大変そうだ。
「休憩が終わったら次は日本史のお勉強をしましょうか」
「イザベラさ、日本の歴史とか分かるの?」
もちろん分かるのだろうが、一応聞いてみた。
「当然です。ご主人様がフランス革命の歴史をご存知なように、私は日本の歴史を古代から現代まで全て網羅しています」
「ごめん、フランス革命ってよく知らない。世界史で少し習った気もするけど」
つまりはイザベラもほとんど知らないのだろうか?
「なんですって! フランス革命ですよ! 知らないはずがありません!」
どうやらイザベラの中で世界の中心はフランスらしい。まあ母国が歴史の中心だと思うのは当然といえば当然だが。
「ナポレオンが何それのやつだっけか?」
「そうです、それです。まあ冗談はさておいて、なにか甘いものでも食べますか? お持ちしますよ」
「そうだね、じゃあコーヒーでも」
「かしこまりました」
イザベラが部屋を出ていこうとする。その時、チャイムが鳴った。
誰だろう、と二人は顔を合わせる。時刻は夜の八時。お客さんが来るにはいささか遅い時間だった。
「出てきましょう」
「近所の人かな、なんか怪しくないか?」
父親がいれば出てもらうのだが、と栗栖は思う。
栗栖の父はいま、県外に出張に行っている。フリーカメラマンの県外遠征が出張というのかは分からないが、本人がそう言い張っているのだ。
「どうしましょうか、居留守を使うというのも一つですが」
「メイドとしての見解は?」
「そりゃあ出た方が良いですよ、お客様ですもの」
またチャイムが鳴った。どこか急かすようだ。
やれやれ、とイザベラが出ていこうとする。だが、その瞬間驚くべきことが起きた。
――ガチャリ、という音。
重い玄関の扉が開いたのだ。もちろん鍵はかかっていたはずだ。なのに、なのに開いた。
「ご主人様、どうやら侵入者のようです」
「おいおい、まじかよ。泥棒か?」
「さあ、しかし迎撃します」
「大丈夫なのかよ!」
「もちろん。私、これでも格闘技の心得もありますから」
さすが最高のメイドだ。不安がないは言えないが、イザベラなら大丈夫だろうと思う。それはつまり信頼だ。
「怪我だけはするなよ」
「怪我をさせるなの間違いでは?」
この減らず口だ。
臨戦態勢のイザベラは伊達メガネを外す。だが、玄関の方から声が聞こえた。
「す・い・ま・せ・ん!」
どこか発音のおかしい言い方だった。
「どうやら泥棒じゃないみたいだね」
栗栖は安心した。だがイザベラの顔が引きつった。
「あの声は――」
「なに、知ってるの?」
「ごめんくださ~い! 誰か、誰か居ますで~す?」
いかにもアニメ声という感じの可愛らしい声だった。しかし少し舌足らずでもある。この発音のおかしさ、まさか外国人だろうか。おそらくそのまさかだろう。
だとすれば、イザベラの知り合い?
「ご主人様、ここでお待ち下さい。すぐに追い返してきます」
「追い返すって」
「心配ご無用です」
イザベラが部屋を出ていく。
栗栖はそれを追った。いったい誰が来たのか気になったのだ。
そっと物陰から玄関を見る。イザベラが誰かと話をしている。小さな……女の子? 真っ白い肌に、ブリュネットと呼ばれる栗毛がよく映えている。その格好はメイド服だが、これは栗栖も見慣れたものだった。いかにもアニメチックなメイド服なのだ。
「ボンジュール、お姉さま! お久しぶりでーす!」
「ソフィア、なぜ来たのですか?」
「そんなの決まってマース! わたし、お姉さま好き好き! だから来ました!」
後ろ姿でも分かる。イザベラが戸惑っている。いつも冷静沈着な彼女にしては珍しいことだ。なんだ面白いのでこのまま見ていることにする。
「貴女、お仕事はどうしたのですか?」
「しばらく暇をもらってきましたでーす! B級メイドになるための試験のため、と言ったらすぐにオッケー、してもらえましたでーす」
「ソフィア、私は今、大切な時期なのですよ。貴女に構っている暇はありません」
「そうは言いましてもお姉さま、じゃあどうしてこんな極東の島国に来たのですか?」
「貴女には関係のないことです」
「そんなお姉さま! わたしとお姉さまの間柄でそんな水臭い! あのー、これ日本語あってますかー?」
「違っています」
妙な会話が展開されている。
どうやらやってきたロリメイドはイザベラの知り合いのようだ。二人共日本語で会話をしているので栗栖にも聞き取ることができた。
しかしイザベラはどうやら歓迎している、というわけではなさそうだ。
「まったく、私はいま忙しいのです。ほら、もう休憩の時間が終わりましたよ、ご主人様。お勉強に戻ってくいださい!」
イザベラは振り向かず栗栖に言った。
バレていたか、と物陰から姿を出す。
「でもさあ、気になるから」と、言い訳する。
「気にしなくてもいい事です」
「気になって勉強も手に付かない」
「でしたら気にならなくなるようにロボトミー手術をしてさしあげましょう。特典としてその他一切の感情を無くす可能性もありますが……まあ私は完璧なメイドですので大丈夫でしょう」
「ロボトミーってそれ、脳に直接メス突っ込むやつだろ! 誰がやっても失敗するよ!」
「それが嫌ならお勉強しててください。もうじき話も終わります」
しかし気になるのは本当だ。ロリメイドは捨てられた子犬のような目でイザベラと栗栖のことを交互に見ている。
「ソフィア、帰りなさい」
「でもお姉さま……」
「私は二度、同じことを言うのが嫌いです」
「だ、だって。お姉さまがどこの馬の骨とも分からない男に仕えるなんて、わたし許せないデス」
「ご主人様を馬鹿にしないで!」
「まあまあ、イザベラ」
これにはさすがの栗栖も仲裁に入った。自分のことをよく言ってくれるのは嬉しいが、それではこのロリメイドがあまりにも可哀想だ。今にも泣き出しそうな顔をしている。
「お嬢ちゃん、イザベラを頼って日本に来たのか?」
「ご主人様、ソフィアは私たちより年上です。21歳です」
「は?」
いやいやいや、と首を振る。どうみても中学生、よくて高校生だ。それが成人している大人だって? あれか、ロリババアというやつなのか……ちょっと違うが。
「お姉さま……わたし、グスッ。行くあてが無いんです。お姉さまを頼ってきたから、今夜の宿も……」
しかし泣いている。21歳の大の大人が泣いている。見た目がロリだから、どこか庇護欲を誘う姿でもある。
「なあイザベラ、こんなこと言ってるぞ」
見ればロリメイド――ソフィアというのだろう。ソフィアは大きなキャリーケースをひいてきたのだろう。どうもそのキャリーケースにくくりつけられた袋は近所にあるアニメ専門ショップのものな気もするが――たぶんそれは気のせいだろう。
「だからどうだというのですか。泊まるところがないならそこらのネットカフェにでもモーテルにでも泊まればいいのです。だいたい貴女という人は昔から計画性がないのです。人様の家に連絡もなしにいきなり来るなんて、非常識もいいところです! それでいきなり泊めて欲しい? バカも休み休みです」
栗栖にしてみればイザベラも同じようなものだ。もちろん言わぬが花。
「ごめんなさい、お姉さま……」
「イザベラ、泊めてやろうよ。6月って言っても夜だし外は寒いぞ。今から締め出したら可哀想だ」
「ご主人様はソフィアに甘いのです。この女は甘やかすとつけあがりますよ、本当ですよ」
「イザベラ、泊めてやろう。これは主人としての命令だよ」
最近知ったのだが、主人としての命令と言えばイザベラはなんでも言うことを聞く。エッチなことに関して――まだ試していないが。
「むう……そう言われると弱いです。ソフィア、慈悲深いご主人様に感謝しなさい!」
「はい、ご主人様。ありがとうでーす」
おや、一瞬にしてソフィアの目にたまっていた涙が消えてしまった。イザベラがため息をつく。まさか……嘘泣きだったのか。
確実にそうだ、ソフィアはもうケロリとして笑っている。「ありがとうでーす」と、ニコニコしている。こいつは一筋縄ではいかない。
「ちなみにソフィア、その妙な喋り方、やめてくださいます?」
「どうしてでーす?」
「普通に喋りなさい、普通に」
「ニポンの外国人、こういう喋り方するでーす」
「それはアニメの中だけです!」
どうやらこの喋り方すらもわざとらしい。いったい何なのだろう、このロリメイドは。ニコニコ笑いながら投げキッスをしてくる。ちょっと可愛かった。