第十一話 イザベラの応援
自分がいったいどれくらいの順位か、また分からなくなった。
いつの間にか疲れを感じなくなった。そのかわりにこれ以上スピードを出すこともできなくなった。何人か抜いた気がするが、正直定かではない。途中でリタイアしている生徒がいた。自分よりも早かった生徒だ。三年生、最後のマラソン大会だったのだろう。足を抑えて泣いていた。可哀想にと思ったが、声もかけずに素通りした。
ゴールに近づくにつれて、何人か女子も追い抜いた。うわさには聞いていたのだ、男子の速い生徒は最後の方に足の遅い女子を追い抜く、と。実のところ半信半疑な話だった。だって男子と女子は二倍近く走る距離が離れているのだ。いくら足が遅くても、そんなことはないだろう、と。しかしそれは本当だった。
誰かを追い抜くたびに、もうこれでいいだろうという思いが増していく。
俺はよく頑張った、もう立ち止まっても良い。いや、立ち止まらないにしても歩き始めればいい。かなりいいタイムだ。
もう疲れただろう? ほら、どうした。止まれよ。
どうしちゃったんだよ、そんなにマジになって。山崎も引いてたじゃねえか。
ほら、歩けよ。
しかし足は走り続ける。
いったい自分はいま何位なのだろうか。分からない、だから走るのだ。
学校の敷地が見えてくる。最後の登り坂がまるで巨大な敵のように控えている。その前の住宅街は平坦で走りやすい。何人女子生徒は目に入らない。邪魔くさいが、どうでもいい。それよりも男子が1人いる。
あいつだ――あいつだけ、抜こう。
それで抜かした後に体力がつきてぶっ倒れても構わない。自分が何位だろうとそこで終わりだ。これが最後の最後だ。
そう思い足に力を入れる。
走るというよりも前に進むという感覚。
前に――前に――前に。
相手も相当に疲れているのだろう。速度はそう早くない。やがて二人は並んだ。だが最後の踏ん張りがきかない。並んだまま同じようなペースで走る。どちらかがどちらかのペースにのせられるのかもしれないが、それすら分からない。極限まで疲れているので、並んで走っているというのに相手の方を見向きもしない。
そのまましばらく並ぶ。
だが、やがて栗栖が前に出ていく。
いや、違う。隣の男が失速していったのだ。栗栖はペースを変えていない。
――やった、俺の勝ちだ。
距離はどんどん離れていく。もう相手は戦意を失ったのだろう。振り返ってみてはいないが、ずいぶんと遠い。
坂が見えていくる。
坂を登り始めている男子がいる。もう抜き去る気力はない。だからまじまじとその生徒の後ろ姿を見る。体操服に入ったラインは青。二年生だ。
同学年は誰も本気で走らないという話だったのにいったい誰だろう?
ああ、そうだ。たしか名前は花巻とか言ったか。隣のクラスの男だ。
でもどうでもいい。別にこれ以上、走らないし走れない。
だが、坂の下に見物人が。
なんだよ、こんな学校の近くにまで見物の人間もいるのかとおぼろげに思う。黒い服を着ている。こんな陽が出ているのに暑くないのだろうか。
だがその人は澄ました顔で立っている。まるで厚さなど感じていないように涼しげな表情だ。
金の髪が風で揺れている。
その翡翠のような瞳が、こちらを見た。その瞬間、その済ました顔が笑顔になった。
「ご主人様!」
イザベラだった。
「ご主人様、今、いま5位ですよ!」
「な、なんで、こんなところに」
「喋ってる余裕はありませんよ! 頑張ってください、あの人を抜けば4位ですよ!」
そういってイザベラは坂を登り始めた男を指さした。
頑張ってください、とイザベラは手を振る。
そのたびに良い匂いがした。甘い匂いだ。香水だろうか、疲れているときには鼻がつまりそうなくらいだ。けれど優しい匂いだ。
本当に美しい人だった。どうしてこんな人が俺のメイドをしてくれているのだろうかと思う。
「頑張ってください、あの人を抜かしてください!」
分かった、と頷く。
だが同時に笑ってしまう。まだやらせるのかよ、と。こっちはもう死にたいだ。息も絶え絶えに走っている。今にも止まりそうだ。
なのにイザベラのやつは、あろうことか前を抜かせば4位だとのたまう。そしてその目はまるで自分の主人を期待するように燦々と輝いている。
「ご主人様、頑張ってください! もうちょっとでゴールですよ!」
イザベラの言葉に後押しされて、坂を登り始める栗栖。
その足はどういう訳か、先程までにないほどの力を得ていた。
なにせ男というのは単純な生き物だ。つまりはそう――
好きな人の前で格好をつけたいだけなのだ。