第一話 メイドさんは突然に
今日はさ、家にゲストが来るから。
朝、学校に行く前、栗栖の父親は息子にそう言った。
ゲストってなんだろうな、直訳するとお客さんだが。父親の仕事関係で人が来るのかな。
栗栖の父親はフリーのカメラマンをやっている。昔は外国なんかも飛び回る売れっ子カメラマンだったらしいが、今ではすっかりロートルだ。けれどその父親の目は今でもレンズのようにキラキラと子供っぽく光っている。
今朝もそうだった。まるでいたずらを仕掛けた子供のような顔をしていたのだ。
「だから速く帰ってくるんだぞ」
「言われなくてもさっさと帰ってくるよ。こっちは帰宅部のエースだし」
「よっ! さすが僕の子! 次の大会も期待してるぞ、帰宅部のエース!」
バカバカしくなって家を出た。
それが今からだいたい10時間前。
そして夕方4時30分頃、栗栖は帰宅した。さすがはエース、誰にも褒めてはもらないが。
いつもの通り家のドアを開ける。
「ただいま」
いつもの通りのただいま。これの返事はあったりなかったりだ。3日に1度くらいは父親も家にいる。野太い声でおかえりがあるのだ。
だがこの日は、違った。
――「お帰りなさいませ、ご主人様」
いつもならば絶対に聞かない丁寧な言葉で返事があった。
そりゃあもう驚いた。心臓が口から飛び出るかもしれないと思い慌てて口を抑えたほどだ。
玄関先には三つ指ついて頭を下げた金髪メイドさんがいたのだ。
「Je suis honoré de vous rencontrer」
流れるようなまったく意味の分からない言葉でなにかを言われた。たぶん挨拶だろう。
英語ではない。しかし何語かまでは分からない。
栗栖は戸惑ってその場に彫刻のように固まった。メイドはそんな栗栖の顔をしっかりと見据える。これには栗栖も照れしてしまう。なぜならそのメイドはあまりにも美しかったからだ。
透き通る白い肌、プラチナブロンドの髪、意志の強そうな大きな瞳。まるで翡翠のような色をしている。涼しげにまとまった美貌の中で、唇だけは燃えるように赤かった。
「お会いできて光栄です、ご主人様」
氷のような無表情でメイドは言う。
「え、あ。はい」
まったく意味不明だ。いや、言葉自体は完璧な日本語だ。なまりの一つもない、まるでアナウンサーのような発音。栗栖にとって意味不明なのはこの状況だ。
奥からヘラヘラと顔を歪めた父親が出てきた。
「おおう、トウヤくん。いつもどおり速いねえ。おかえり」
「おい親父、これどういうことだよ?」
どうもこうも、と栗栖の父親は肩をすくめてみせた。
いかにも外国人的な仕草に苛立ちを覚えなかったといえば嘘になる。
「朝に言ったろう? ゲストが来るって」
「それは聞いたけど。え? なんでメイドさん?」
「それは私からお答えします。私、イザベラは栗栖トウヤ様、貴方の専属メイドとしてこの家に雇われたからです」
「雇った? 誰が」
「僕が」と、父親は答える。
「は? なんだよメイドって。そんなお金うちにあるのかよ」
「大丈夫だよ、イザベラさんは住み込みでお給金も少しで済むから」
「住み込み!」
という事はつまりなにか、この家に住むのか。このメイドさんは。栗栖の頭の中には一瞬にして卑猥な想像が浮かび上がった。それはまるで楽園を覗き見ているような、それはそれは卑猥な妄想だった。
「ご主人様、そこにお座りください。お履物を――」
「いやいいよ。自分で脱ぐから」
「でしたらお荷物をお持ちします」
あんまり固辞しても失礼かと思い、軽いカバンをメイド――イザベラに渡す。イザベラはそれを受け取ると胸の前で抱えた。
むっ――でかい。
栗栖の視線は思わずイザベラの胸部に向かう。見れば父親も鼻の下を伸ばしている。親子なのだ、おのずと趣味も似てくる。
「ご主人様、もうしわけありませんが私、現在料理の途中でして。あちらで少々お待ちになってくださいませ」
居間に通される。自分の家ではないような感覚があり栗栖は戸惑う。父親もどこか居心地が悪そうだ。二人してソファに座る。
別段、仲の悪い親子というわけではない。父一人、子一人でここ4年ほどやってきたのだ。だが、通常でればことさら会話をすることもない。栗栖はよくも悪くも思春期真っ只中の高校二年生なのだ。できることなら親と会話などしたくはない。同じ部屋にだっていたくない。
だが、今日は仕方がなかった。
「あの人、なに?」
隣に座る父親に問いかける。
「メイドさん」
「見りゃ分かるよ。つうかメイドって本当にいるんだな」
イザベラの服装はどう見てもそこらの量販店で売っているような安っぽいコスプレ衣装ではなかった。きちんとした生地で作られた、いうなれば仕事着だったのだ。
「そりゃいるさ、当たり前だろ!」
「なんで自慢気なんだよ」
「なんにせよさ、しばらく家にいるからね。仲良くしろよ」
「つうか親父、あの人とどこで知り合ったんだよ。まさかエロい仕事か? あれもしかしてセクシー女優かなんかか? やめてくれよ、そんなの家に連れ込むなんてさ」
「失礼なやつだね。言っとくけど父さん、グラビアは撮らないからね」
「そうかよ。それにしても夜ご飯ってなに作ってるんだろうな」
「さあ、知らないよ。覗かないでくださいねって言われたけど……」
「まるで鶴の恩返しだな」
「トウヤくん、彼女になにか恩を売ったの?」
まさか、と栗栖は答える。まったく身に覚えがないから、むしろ怖いくらいだ。
「親父の知り合いじゃないのかよ」
「雇いはしたけど知らない人だよ」
「一体なんなんだよ、あの人」
「そりゃあ……メイドでしょう」
まったく答えになっていない。
結局その日の夜ご飯は、それから一時間後に出てきた。
メニューはまさかのフランス料理のフルコースだった。栗栖はまたしても度肝を抜かれたわけだ。
「どうぞ、お召し上がりください」
と言われても、そもそもナイフとフォークの使い方すらままならない。
しかも気まずいことにイザベラは同じ食卓に座ろうともせず、自分の作った料理にはまったく手を付けることもない。
栗栖とその父どうにもこうにも微妙な思いをしながら順々に出てくるフランス料理を食べた。
料理自体は素晴らしいのだが、皿がいつも家で使っているものなのでどうにもみすぼらしい。それはなんだか、小さな一軒家にやってきたメイドを暗示させるようなものだった。
まったく訳が分からないまま、その日は終わった。とにかく思ったことは一つだ。
――メイドさんって凄いんだな。
たぶんその瞬間、栗栖はこのイザベラというメイドが好きになったのだ。