12話:不幸な者 幸福な者
一人の男からしたら、遥か遠い昔々のその昔に感じれるほどの忘れ去っていたかった、忌まわしき過去の記憶が、なぜか…突然……走馬灯の様に蘇ってきた…
その男が今よりもまだ、幼い小学生の少年だった頃の昔々々のお話。
少年が育った家は、家の中に居るのにも関わらず、雨の日には数種類の茶碗・鍋・バケツがそれぞれ違う音色で「ピチャッ・バチャッ・ドチャッ」っと、まるで雑音を演奏するオーケストラのように雨を知らせてくれる不便な機能付きで、なに時代に建てられたのか解らないぐらいに、いつ崩れてもおかしくないぐらい悲惨な進化を遂げたボロボロの家だった。
少年の母親は、朝早くから飲食のパートに出掛け夕方、帰るや否や愛情に餓えた幼い少年を残し、夜の街へと仕事に出掛ける日々で家にほとんど居ることがなかった。
だが、幼い少年の不幸はそんな特殊な環境では、なかった……
普通と違った環境で育った少年は……
父親が思うよりも、少年は子供では無かった。
少年に取っての不幸は……
少年が思うよりも、父親が大人では無かった事だった。
少年から見れば父親は、燃えるゴミに対して失礼な程のごみ人間であった。
部屋に飾られた賞状とトロフィーを持った笑顔の父親とその隣で、嬉しそうに泣いている母親の写真から察するに父親は昔、腕の良い鮨職人だったが、不幸な交通事故に会い大事な左腕を失い残った片腕で寿司が握れる筈もなく、夢に絶望した父親は毎日、毎日、母親が稼いだお金で朝から酒に溺れ、ギャンブルに依存し、夜の蝶に高価な蜜を運び続け、酒の切れた父親は幼い少年の腹・腕・足のみに暴力を振るう日々。少年はただ、じっと無言で耐える事しか出来なかった。
何故なら、幼い少年が声を出して泣けば、泣くほど振るわれる暴力は酷くなる事を幼い少年は、繰り返し体験し嫌というほどに経験した結果、理解せざるを得なかったからである。
故に、少年は生きるために子供のままでいる事とができなかった。ただ、それだけの事だった。だが、幼い少年が思うよりも子供では無いとは言え、夢に絶望した父親の気持ちが、理解できるほどの大人でもなかった。
一年中、同じ黒色の上下の長袖、長ズボンで、どこで拾って来たのか分からないぐらいに、ボロボロの真っ赤なランドセルを背負った少年が注目を集めない筈もなく、学校でも家でも少年の居場所は何処にも無かったと言えるだろう。
ある日、少年が学校から帰宅すると家の玄関に数名の黒服を着た男達がいた。少年の家に人が訪ねて来る事など初めてで、少年は不安と恐怖で今にも張り裂けそうになる胸を押さえ付け、そーっと静かに黒服の男達の間を避けながら家に入って行った。少年が部屋で目にしたモノとは、幼い少年が見ても瞬時に理解できる程の高価な黒いスーツを着た男に対し、ギシギシと軋む床に、頭を必死に擦り付け土下座をする男の姿だった…
その土下座の男が、少年に対し「俺様より強くて偉い奴など、この世にいる筈が無い」っと、繰返し口癖の様にいつも言っている父親だと、即座に理解できるほど少年は冷静では居られなかった。少年は目の前の現実を受け入れらずにただ、呆然と立ち尽くしていた…
何故なら、少年の家には電気・ガス・水道の設備は有るが特殊な環境、故にほぼ使うことは出来なかった。その為、学校で話す相手もいない少年は、街中に住んでいるにも関わらず、テレビ・ラジオ・雑誌等で流れる情報を一切知らずに隔離された環境で生活していた為に、父親が言う情報以外の他に情報が全く無く比較する対象が無い為に、少年はそれを真実だと思い込んでいたからである…
その思い込みは、特殊な環境と父親の行動が相まって意図せずして少年に、強い暗示のように作用し、敢えて付け加えて言えば、その暗示は後に少年の運命を大きく変える、まるで呪いにも似た洗脳だった………
黒いスーツの男が手に持っていた紙には数多くの0が並べられ、とても父親が払えるとは思えない金額がそこには記されていたが、幼い少年の知識ではそれを理解できずにいた。
愚かな父親は、夜の蝶を振り向かす為だけに母親が毎日、毎日、必死の思いで稼いだお金だけでは飽き足らずに独特な雰囲気の闇色のスーツの男達からも多額のお金を借り一生懸命に、働き蜂の様に高価な蜜を夜の蝶に運び続けた結果、闇色のスーツの男達を家に招き入れる事となった。
黒いスーツの男は「1週間後に、また来るから金を用意しとけよ」っと、声を荒らげる事無く冷静に、その言葉を重く父親に告げ男達は家から立ち去って行った。
黒いスーツを着た男の冷静で重い言葉に愚かな父親とは言え、逃げると言う選択肢は本能的に除外され残る選択肢は片腕の父親でも十分に、指折り数えれる程に少なかった。 父親が選んだ選択が一人の男の未来を変え、幼い少年時代に最も忘れたかった不幸な出来事に繋がる唯一の選択肢だったと、幼き日の少年には知る余地もなかった。 そんな愚かな父親が選んだ選択肢は、少ないとは言え数ある選択肢の中でも、最も愚かで少年のみならず、多くの人達を不快にさせ周知させる結果となり少年を最も孤独にさせ、何よりも不幸にさせた…
父親の価値観は、毎日の異常な量の酒とギャンブル生活で完全に狂っていた。そんな愚で狂った父親が追い詰めら選んだ答えは、なぜか少年が死ねば保険金が入ると都合よく解釈して自分勝手に思い込んでいた為に父親は少年の上に馬乗りにまたがり、鮨職人で鍛え上げた右腕で幼く痩せこけた少年の細い首を握り締め全体重を掛けて握り潰そうとした。少年は苦しさの余り爪を立てて手足をバタつかせて必死に藻掻いて抵抗したが、少年と父親の力と体重差を考えればその必死の抵抗も虚しく少年は手足から徐々に力が抜け意識が薄れていく…のを…感じた……
だがその時、偶然にも……
少年にして見れば、幸か不幸か飲食のパートをいつもより早く終えて、賞味期限切れの少年の大好きなハンバーグの残り物をもらい少年の喜ぶ顔を思い浮かべ、口元の緩んだ母親が帰宅した。扉を開けた母親は少年の苦しそうな顔を見るや、地面に落ちたハンバーグの事など忘れ必死の思いで父親に抵抗したが父親の暴力の前では母親の抵抗も虚しく、少年の苦しみを僅かに延ばすのが精一杯だった。
母親は抵抗が通じない事を理解した為に台所からあるモノを取り出し、左腕の無い父親の左腹から心臓に向けて突き上げた「ドッスリ」っと鈍い音を響かせ辺りを大量の赤黒い血で染めていった…
そのモノとは、不幸な事故で左腕を失なった父親が鮨職人を辞めた後も毎日、毎日、それだけは今日に至るまで1日も欠かす事なく残った右手だけで器用に研ぎ澄ました、尖端が鋭く尖った刺身包丁だった。その為、偶然にも台所で一番取り出しやすい場所に常に置かれていた。
父親は鈍い痛みと共に自分の左横腹から突然、はえた突起物が長年愛用した自分の刺身包丁だと気が付くや否や、何か悪いモノから解放されたかの様に幸せな表情で満足そうに後ろに仰け反る形で倒れ動くことは亡かった。
父親が仰け反って倒れたことで偶然にも母親の手には、まだ刺身包丁が握られていた。偶然が、たまたま積み重なり少年に最も不幸な運命をもたらす…
母親は手にしていた刺身包丁を自分の腹に差し挟み横に切り開いて刺身包丁を、父親の手元に投げ「ごめんね。私が生きていれば、あなたは人殺しの息子だと言われるから、こうするしかないのよ、ホントにごめんね」と謝るばかりで完全に意識を取り戻した少年は血だらけの母親の言葉を理解するよりも心配する目で母親を見つめ続けた……
「あなたの目には、私が不幸な母親に見える?それは違うのよ、あなたの存在が私を不幸な母親にしなかったのよ、あ…りが…とう……」幸福な笑顔でその言葉を最期に、もう二度と母は笑う事は、亡かった。
幼い少年には、目の前での母親の自殺と、その言葉の意味する事が、理解できずに………ただ……ただ…父親の振るう無慈悲な暴力には一言の声も発する事がなかった少年が、眼や鼻から大粒の淋しさを垂れ流しながら、喉が裂ける程の大きな声を上げ、もう動く事のない血だらけの母親の体に甘える様にしがみつき声が枯れるまで泣き叫び続けた……
その泣き叫ぶ声を聞いた、近所の人達が異変に気が付き通報した事で、連日テレビのニースで取り上げられ真実を唯一、知る少年は声が枯れ果て言葉を喋れなかったが、少年の体に無数に刻まれた声なき叫びが殺人事件では無く、ただ一人だけ暴行の跡がなかった父親による、D.V夫の無理心中として世間を多きく賑わせた。
その後、施設に預けられた少年は誰よりも強くなる事を決意したが、残念な事に御手本になる大人は少年の小さな世界では、一人しか思い浮かばずに、それ以外の他に選択肢が無かった。その唯一の選択が少年を余計に孤立させる結果となった…
それから10年の時を数え、愛情に餓えた少年は高校生になり、女性を見るや声を掛けずにはいられなかった。
そう、あの日の朝も……
『この俺様……山田 太郎がへ、へ平凡だとぉぉ……』
そう、少年は平凡が何よりも大嫌いで、弱いものには強く、強いものには弱い、山田 太郎だった。
そんな山田 太郎は異世界に巻き込まれ好き勝手やった挙げ句、最後に樹に叩きつけられた、衝撃で意識を失うほんの僅かな時間に走馬灯のように、忘れた筈の過去を思い出し、幼い少年だった頃には理解できずにいた、もう二度と見る事がないと想っていた最愛の母親の笑顔と愛情をハッキリと思いだし、今さらながら理解し思わず笑をこぼした……
少年は最後の最期に最愛の母親の愛情に包まれその生涯に幸福のピリオドを打たれた…
少年は父親が思うほど子供では無かった…………
父親は少年が思うほど大人では無かった………
母親は父親が思うほど臆病者では無く……
少年が想うよりも母親は愛情で満ち溢れていた。