熊肉と良妻シチュー
本編・三十五話、熊 ※産地直送のあと位のお話です。
仮の夫婦生活をするリツとジークの物語となっております。
ジークとの素晴らしい夫婦ごっこは続いていた。
周囲に契約結婚がバレないようにという口実で、接する機会もぐっと増えた。
ちょっと度が過ぎていたからか、最近の彼女は少しだけ身構えるような態度を見せることもあった。
こういうことを出来るのも多分今のうちだけなのだ。契約期間が過ぎてしまえば、自分達はただの他人となる。だから、心の中で毎回謝っていた。
じっと見つめ合ってから、彼女の腰を引き寄せる。抱き締めたばかりのジークは体を固くしていた。
髪を撫でて、耳元では「嫌がることはしないよ」と囁き、身を任せてくれるのを待つ。
しばらく経てば、ジークはこちらに少しだけ体重を預けてくれるのだ。
ぎこちない様子から、自分になにもかも許してくれるような感じになる瞬間がたまらない。
人の温もりに飢えているのだろうか。ジークの体をぎゅっと抱きしめれば、ホッとしてしまう。
ふと、自分だけ幸せな状態になっているのではと不安になった。
ジークの気持ちを無視する訳にもいかないので、一応言っておく。
「ジーク、嫌だったら、突き飛ばして」
「……」
ジークは消え入りそうな声で「いや」と言ったきり、黙ってしまった。
それが拒否の意を含むものであれば、今頃壁に激突している。
彼女は『妻役』をこなすことを、健気に頑張ってくれているのだろう。それを思えば悲しくなってしまうが、今、こうやって触れ合っているという事実の方が大事だった。
ジークの努力を利用して、自分の欲求を満たしていた。
こういうことも、あとからいい思い出として記憶に残るのか。
それとも、幸せだった時を思い出して、切なくなるだけなのか。
「ジークリンデ……」
「好き」という、彼女にとって重たい言葉は心の中に留めておく。
こういった行為は回数を重ねていけば後から空しくなることは分かっていたが、どうしても止めることは出来なかった。
ジークとの仮の夫婦暮らしは、このようにして続いて行く。
◇◇◇
テオポロンから貰った熊肉を食べる時がやって来た。
熊の肉の解体、熟成などは初めてだったので、色々と手間取ってしまった。
熟成方法も他の獣肉と少し違う。
まずは、部位ごとに切り分けてから、清潔な布に包む。それを冬に取っていた氷を入れた箱の中に入れて、一週間ほど地下にある保冷庫で保存をする。その後、氷の中から出して、一カ月程保冷庫の中で熟成させるのだ。
気を付けるべき点は保冷庫の湿度だ。湿気があるとすぐさま肉は腐ってしまう。地下の保冷庫は換気が出来るように、地上に繋がる管が何本か通っている。氷は山から取って来たものなので溶けにくいが、真夏になれば結露も発生するので、こまめに拭き取りにいかなければならない。自家製の炭などを積み上げて防臭と湿気取りの対策も行っている。
テオポロンが取って来てくれた時期の熊はちょうど冬眠から目が覚めて猛烈な勢いで動き回り、餌を食べるので肉も美味しくなる。
しかも、獲って来てくれたのは雌の熊。脂が乗っていて、美味しいに決まっている。
地下の保冷庫から持って来た熟成肉はいい仕上がりであった。
「ジーク、見て、熊の肉だよ」
「……ああ」
ジークは肉の色を見て、眉間に皺を寄せていた。
無理もない。脂肪は黄ばんでいて、肉の色は黒ずんでいる。
しかしながら、これが一番いい熊肉の熟成具合なのだ。
熊肉はたまにテオポロンから獲れたてのモモ肉を何度か貰ったことがある。その間、何回熟成に失敗したか分からない。今回は腐敗させないように気を使っていたので、見事に成功を収めていた。
熊肉はとにかく獣臭がすごいので、調理にはいろいろと気をつけなければならない。
刻んだ香草を巻いて炙り焼きにしたり、灰汁をしっかり取ってから赤ワインで煮込んだり、シンプルに焼いてから柑橘系の甘酸っぱいソースを掛けて匂いを誤魔化したりもする。
今日はルルポロンがお休みなので、二人で家の裏の調理場で作業を始める。
お肉は昨日のうちに赤ワインと香草に漬けて臭み消しを行っていた。
保冷庫から取り出して、水分を拭き取ってから一口大に切って鍋の中に投下した。
その他の野菜類も食べやすい大きさに切っていく。使用する野菜はタマネギにニンジン、キノコにトマト、香草を数種類。
まずは香草と野菜の皮や切れ端と一緒に熊肉を茹でる。
灰汁がどんどん出て来るので、匙で掬って捨てた。火が通るまで煮込んでから、肉だけ取り出して後のものは捨てる。
鍋の中に赤ワインと澄ましスープを半々位に入れてから、材料を全て中に入れた。弱火でじっくり煮込む。
材料がくったりなったら、保存食として作ってあったトマト煮込みを一瓶入れてから、香辛料などで味を調えていく。
またそこから先も一時間煮込むのだ。
「すごい手間暇が掛かるんだな」
「獣臭くて硬くなりやすいから、調理も大変なんだよねえ」
でも、熊肉大好き。
ジークは長時間の調理にも文句を言わずに、手伝ってくれた。煮込んでいる時間は鍋の番を交代しながら行った。庭仕事をしながらの調理は続く。
夕方になって完成したシチューの鍋を覗きこみ、一人で満足していた。
ジークは少しだけ呆れたような顔をしている。
「付き合ってくれて、ありがとう」
「いや、リツの作るものは全部美味しいから、楽しみにしていた」
「よかった!」
ジークってば本当に優しくって、いつでも欲しい言葉を言ってくれる。
なんて素敵な奥様なのだろうと、感動してしまった。
少しだけ味見をしてみたら、熊シチューは過去最高の仕上がりであった。
パンとワインを開けて、あとチーズを切って出そうかと、頭の中で計画を練る。
鍋を持って玄関に向かっていたら、来客と鉢合わせすることになった。
「あ、領主さん」
「お、お久しぶりです」
玄関先に居たのは隣の村の村長と二番目の息子さん。
そういえば、今日やって来るということをすっかり忘れていた。
年に一度、隣の村の長とささやかな交流として、夕食を共にしてから周辺地域の情報交換などを行うのだ。
ジークとの新婚生活に浮かれ過ぎて、大切な用事を記憶の片隅に追いやっていた。
「そちらが噂の奥方ですかな?」
「あ、はい。妻のジークリンデです」
ジークは会釈をして村長と息子さんに挨拶をしていた。
二番目の息子は確か二十五歳くらいだったか。多分まだ独身だったような気がする。
うちの奥さんが気になるのか、ちらちらと横目で見ていた。
お客さんを部屋の中に招き、今から食事をするので、居間の椅子を勧めた。
熊シチューはジークが台所へ持って行く。
村長達の話し相手をしているうちにジークは手早く香草茶を出してくれた。その後も、食事の支度もしてくれる。
机の上には昨日ルルポロンが焼いてくれたパンと、厚く切り分けたチーズ、ニシンの酢漬けに鳥肝の練り物など、机の上が豪勢に見える配膳をしてくれた。
最後にやって来たのは熊肉のシチュー。夫婦二人で作った力作である。
ジークは透明なガラス瓶に入った、淀を綺麗に取り除いたワインをグラスに注いでいく。
そして、乾杯をしてから食事の時間となった。
じっくり仕上げた熊肉はとても柔らかかった。とろとろになるまで煮込んだ脂肪が舌の上で融けてなくなる。酸味の効いたトマトと熊肉は良く合う。獣っぽい独特な匂いもほとんど無かった。
隣に座ったジークの様子を窺えば、偶然にも目が合った。彼女の嬉しそうな顔を見れば、どうだったかなんて一目で分かる。この瞬間の為に頑張ったと言ってもいい。
村長も熊シチューの味を絶賛してくれた。
たくさんあるのでおかわりもどうぞと勧める。
「いやあ、こんなに美味しい熊のシチューは初めてでした」
「それは良かった」
無口な息子さんも隣で頷いていた。
「それにしても、残念ですな」
「?」
なにが残念なのかと聞き返せば、村長は思いがけないことを言ってきた。
息子さんは隣で恥ずかしそうにしていた。
「こんなに料理が上手な娘さん、うちの嫁に迎えたかったですよ」
「……」
「……」
びっくりして、二人して固まってしまう。
だが、すぐさま、ジークが訂正をした。
「あの、シチューを作ったのは夫です」
「なんと!?」
「……」
驚きの顔を見せる村長と、明らかにがっかりした顔を見せる息子。
訂正は不要だと思ったが、ジークとの契約が終わった後に「嫁に来て下さい!」と請われても困るので、誤解は解いて正解だと考えを改める。
村長にお願いをされたので、熊のシチューの作り方を書いて渡してから、お別れをすることになった。
無事に乗り越えることが出来たし、ジークとの仲を疑われることもなかったので、深く安堵をした。
以上がジークと熊肉を初めて食べた日の話である。