第三十三話 ジジイ、帰国
祖父の帰国は明日となっていた。なので、今日が最後の晩餐となる。
三人で楽しい夕食後の時間を過ごしていたが、祖父に「食後に二人で話がしたい」と言われていたのだ。
祖父の話は、この上なく嫌な予感しかしない。何故かと言えば帰り際に夫婦仲は良好なのかと聞かれてしまったのだ。きっと詳しく話を聞くに違いない。
仮の夫婦であることに勘付かれそうになっているのはこの二日間、ジークと自分が新婚らしい甘い雰囲気ではなかったことが原因だろう。
楽しい食後の時間だったが、そろそろ祖父の顔も眠そうなので、この辺でお話をしなければならない。
「あ、ジーク」
「なんだ」
「ちょっとね、お祖父さんが俺と二人で話をしたいみたいで」
ジークは分かったと短く返事をして、祖父に向かって先に休ませて貰うと言っていた。
このままでは仮の夫婦であることが祖父に発覚してしまう。焦った自分は普段なら絶対にしない、とんでもない行動に出てしまったのだ。
立ち上がってジークの手を握り、居間の扉まで引いて行く。
そして、就寝前の挨拶をした。
「ジーク、お休みなさい」
「!?」
そんな風に言ってから奥さんを軽く抱き締め、頬に唇を寄せる。これで本物の夫婦だと信じて貰えるだろうと一人で安心をしていた。
なんとか偽装工作を済ませ、ジークに視線で謝罪をしようと顔を見れば、あろうことか顔を真っ赤にさせていたのだ。
「――えッ!? あ、ご、ごめん!!」
「……」
彼女は祖父に再び一礼をすると、早足で居間から出て行ってしまった。
今まで頬に口付けなんかをしても無表情を貫いていたのに、今日に限って恥ずかしそうにするなんて。
「おい!」
「……」
「こっちを向かんか、馬鹿者!」
「……はい」
俯きながら祖父の居る方向を振り返る。
「いい大人が、どうして顔を赤く染めておるのだ!!」
「……いえ、ジークは、いつもあんな風じゃ」
「顔色がおかしいのはお前のことだ!!」
「!?」
なんという事だろうか。自分まで照れて顔を赤くしていたとは。いつもと違うことはするべきではないと、深く反省をした。
「話は、分かっているな」
「はい」
「こちらが問い詰めるまでも無かったわ」
「……」
ジークとは仮の夫婦であることが、あっさりとバレてしまった。
普段からおやすみのキス位しておけば良かったと後悔する。しかし、それも今となっては遅いのだ。
結局祖父には洗い浚い事情を話す事になった。
「なるほどな。この結婚は彼女にも旨味があったと言う訳か」
「……はい」
「全く、何をやっているんだか」
「お返しする言葉もありません」
だが、ジークと違って自分は本気だった。もしも、一年経って彼女が夫婦関係の解消を申し出ても、他の女性と結婚したいとは思えない状態までになっていた程に。
「伯爵家の主たるものが、血族を進んで絶やそうとしているとはな!」
「でも、彼女以外を妻に迎えることは、考えられないから」
それに、ここの村出身の夫婦の子供の出生率はきわめて低い。望んでも、生まれない可能性が高いのだ。
「お前は半分異国の血が混ざっている。諦めるのは早い」
「……」
まあ、そうは言っても仮夫婦。気楽に子作りが出来る相手でもない。
「一応、彼女は一年の仮契約の先もここに住んでくれると言っていて」
「は!?」
「え?」
「何故、気付かない!!」
「?」
「……いや、いい」
祖父は奥さんに逃げられないようにする為の助言を教えてくれた。
「まずは口説け。ひたすら言い寄るのだ」
「え?」
「え、じゃない!! 何も言わないで好意が伝わると思っているのか」
「いや、それは」
ジークを困らせたくない、というのが彼女と接する中での根底にあるのだ。
「遠慮をしているから仲も深まらないのだ」
「とは言っても、何とも思っていない相手に言い寄られても気持ち悪いだけでは?」
「だったら哀れで気の毒な男を演じろ」
「それは、どうして?」
祖父は言う。女性とは、情に脆い生き物だと。
可哀想な生き物が、その女性なしでは生きられない、というのを目の当たりにすれば、きっと傍に居て支えてくれるだろうというのだ。
「そういうことってあるのでしょうか」
「ある! 確実に!」
他にも、感謝の気持ちを忘れないことや、誕生日などの記念日は覚えていて特別な贈り物や言葉を掛けること。様々な女性の心を掴むかもしれない要点を教えてくれた。
哀れで気の毒な男を演じるだけでは駄目だというのだ。
「先ほどのような触れ合いもいいだろう。あれはなかなか良かった」
「……」
思い出しただけでも恥かしくなる。どうして人前であんなことをしてしまったのかと。
「とにかく、遠慮をしていたらするりと居なくなってしまうからな!!」
「分かりました」
「もう寝る!!」
「おやすみなさい」
こうして祖父の尋問は終了となった。
明日から、ジークとの生活に戻るが、果たして大丈夫だろうかという心配を残して。
◇◇◇
祖父は早い時間の船で帰るというので、日も昇らないうちからの別れとなった。
「お祖父さん、これ、ルルポロンが作ってくれて」
ルルポロンが船の中で食べられるようにと昼食を準備してくれていたのだ。従者さんに渡して皆で食べるように伝える。
「リツハルド、世話になったな」
「いえいえ、何もお構い出来ずに」
「ジークリンデさん、どうか不甲斐ない孫を、これから先もずっと頼みたいのだが」
……お祖父さん。また、ジークを困らせるようなお言葉を。
適当なことを言ってその場の雰囲気を濁そうと思ったが、口を開いた途端にジークが喋り始めてしまった。
「ええ、ご安心を。お義祖父様」
ジークの、未来を約束するかのような言葉に胸をぎゅっと掴まれたような感覚となってしまう。流石は『紅蓮の鷲』。人の心をがっちり鉤爪で掴んで離さないようなことは得意なのだ。
「リツハルド、また様子を見に来るからな!」
「わあ、嬉しい」
「……」
お祖父さんは、一睨み利かせてから踵を返す。
村の出入り口まで送って行きたかったのだが、素気無くお断りをされてしまった。
こうして、嵐のような来客は国へと帰って行ったのだ。
「……」
「……」
そして、またジークとの仮の夫婦暮らしが始まる。
「中に、入ろうか」
「ああ」
夏を目前にしていたとはいえ、日の出前の、特に朝は冷え込む。今日は暖炉に火を入れてもいい位の体感気温だった。
吐いた息は白く染まって漂い、ふわりと一瞬で消えていく。寒さを目で確認した後に、家の中へと引っ込むことにした。
◇◇◇
居間に行けばミルポロンが暖炉に火を入れてくれていたようで、強張っていた心までホッと解れるような気持ちとなる。
ジークは厨房へ行って湯を沸かす為の薬鑵を持って来る。それから棚の中に置いてあったククサを二人分出して、挽いたコーヒー豆の入った缶も取り出していた。
どうやらコーヒーを淹れてくれるようだ。
それから、会話も無しにじっと暖炉を見つめるだけという時間を過ごす。
パチパチと薪の燃える音と、微かに振動をする蓋の金属音だけが部屋の中にあるだけだった。
本格的に湯が滾れば、ジークは立ち上がって薬鑵を取りに行く。持ち手が熱くなるので、厚い布の手袋を嵌めてから握るのだ。
熱くて危ないからと、一度作業に手出しをしようとしたら邪魔をするなと怒られた事があったので、大人しくコーヒーを淹れてくれるのを眺めていた。
コーヒーミルでカリコリと焙煎された豆を挽き、湯を入れてから紙の上で濾過させるという作業は、ジークのささやかな趣味なのだ。
木製カップの中には、砂糖もミルクも入っている。ジークは好みを覚えてくれているのだ。
豊かな香りを楽しんでから一口啜る。世界一美味しいコーヒーだと改めて思った。
「美味しい」
「そうか」
いつも交わされる言葉をお決まりのように言い合って、それからまた、沈黙の時間となる。
カップが空になれば、ジークは二杯目が必要かと聞いてくれるのだ。
「お願いしようかな」
なんだか酷く喉が渇いていたのだ。ゆっくりと味わうことなく飲みきってしまったので、お言葉に甘えることにした。
ジークは空のカップにコーヒーを注いでくれる。
彼女がコーヒーを淹れてくれる姿を眺める事が好きだった。
だが、そんな幸せの瞬間を満喫している場合ではない。
昨日の事もきちんと説明しなくてはいけないし、祖父の助言だって実行に移さなければならないのだ。
ジークは一年間の契約が切れてもここに居てくれる。だったら嫌われないようにして、良いお友だちにでもなれたらいいなあと考えていたのだ。
それではいけない。
このままでは絶対に後悔をする。
ジークの渡してくれたコーヒーを受け取りながら、ありったけの勇気を振り絞った。




