記憶を失ったリツハルド
ジークリンデ視点
今日は村の女性陣と共に亜麻の加工をする日だ。
一日中家を空けることになる。
一歳八カ月となった息子は義父に任せた。夫に似て、人見知りをしない性格なので、問題はないだろう。
子ども好きの義父は嬉しそうに息子と何をして遊ぼうかと話し合いを始めている。
義母はベリージャムを作ると朝から張り切っている。パイも焼くようで、楽しみにしているようにと言っていた。
夫、リツハルドは小屋の修繕をすると言っていた。
怪我をしないようにと言っておく。
「では、行ってくる」
「ジークも気をつけてね!」
でかける際にこのようなことを言ってくれるのも、夫くらいだろう。
実家の家族などには「暴漢に出会っても手加減してやれよ」と言われたことがある。失礼にもほどがあると思った。
「じゃあ、ジーク、お別れのキスを」
「は?」
「ほっぺたでいいから」
夫は身を屈め、私に頬を向けてくる。
ここは外だし、先ほどから義母が行ったり来たりしていた。
もしも、見られたりしたら恥ずかしい。そう思って、夫の体を押し戻してしまった。
ちらりと顔を見れば、口元に手を当て、ショックを受けた表情を浮かべている。
「ジークリンデ、そんな……」
「外は人目がある」
「俺は気にならないけど」
「私は気になる」
「そっか」
表情は落胆していたけれど、一応納得をしてくれたらしい。
「ジークの、そういうお堅いところも、好きだし」
なんかよくわからないことをいっているが、スルーした。
家のことを頼むと肩を叩き、でかける。
空を見上げれば、澄んだ青空が広がっていた。
その色は、夫の美しい瞳の色を映し出したかのようであった。
◇◇◇
夕方、作業を終えて帰宅をする。
アイナからひよこ豆をもらったので、明日のスープにでも使おうかと考えながら家までの道を歩いていたが――
「リンデちゃ~~ん」
義母が、こちらに向かって走って来ていた。
いったいどうしたのか。私も駆け足で近づく。
「お義母様、どうなさいましたか?」
「う、うん、あ、あのね~、えっと、大変なの~~」
まったく大変そうに聞こえない義母の話に、根気強く耳を傾ける。
「リッちゃんが、リッちゃんが、梯子から落ちてしまって!」
「それは!」
「かすり傷くらいで、大きな怪我はしていないんだけど」
怪我はないと聞いてホッとする。
けれど、次なる義母の一言に驚愕することになった。
「どうやら、頭を打った衝撃で、リッちゃんの記憶がなくなっているみたいなの~~」
「!?」
手にしていたひよこ豆を落としそうになった。
そんな、まさか、夫が記憶喪失になってしまうなんて……。
一応、騒ぎにしないほうが良いと義父が判断したらしい。村人へは黙っておくようにと釘を刺された。
こちらの情報についても、必要以上に与えないほうがいいとのこと。
義父は医師だと名乗り、義母は近所の親切なおばさんという設定だと言っていた。
息子は記憶のない父親と接すれば互いに混乱するだろうからと、アイナとエメリヒが預かっているらしい。
なんという事態になってしまったのかと、思わず天を仰ぐ。
そんな私の背を、義母は優しく撫でてくれた。
「リンデちゃん、大丈夫。リッちゃんは、きっと思い出すから」
「……ええ、そう、ですね」
そこまで話して気づく。
私も家に帰らないほうがいいのかと。
「リンデちゃんは、リッちゃんの傍にいてあげて」
「私は、なんと言えば……」
「リンデちゃんはリンデちゃんのままでいいと思うの」
それは……ちょっと困る。
いったいどのようにして接すればいいのか。
でも、夫も記憶がなくて不安だろう。だから、励ますくらいはできるかもしれない。
意を決し、帰宅をすることになった。
緊張の面持ちで帰ったのに、居間ではいつも通り寛ぐ義父の姿があった。
「ジークリンデさん、おかえりなさ~い」
「……ただいま、帰りました」
「今日はちょっと暑かったねえ~」
「……ええ、そうですね」
あまりにも変わらない義父の姿に脱力してしまう。
一人息子が記憶喪失になったというのに、呑気な人だと思った。
けれど、義父のおかげで張り詰めていた気は治まったように思える。
深呼吸をして、いつも通りに振る舞えるよう、気分を入れ替えた。
義母から渡されたベリージュースを持って、夫の寝所に向かうことになる。
◇◇◇
戸を叩けば、すぐに返事が聞こえた。
「は~い、どうぞ!」
思いの外明るい声。本当に記憶喪失なのかと疑ってしまう。
扉を開けば、寝台の背に寄りかかった夫の姿が。手元には本がある。
「あれ、君は――?」
「私は……」
私も何か設定を考えておくべきだったと思う。言葉を失ってしまった。
不思議そうにこちらを見る夫を前にすれば、本当に記憶喪失なのだと実感することになった。
「もしかして、リツェルおばさんの知り合いのお嬢さんかな?」
「……まあ、そんな、ところだ」
思いの外、夫が私を覚えていないという事実に衝撃を受けてしまう。
らしくもなく、指先が震えてしまった。
ふと、朝の落胆した夫の表情を思い出す。
どうして軽い口付けを拒んでしまったのか。
それくらい、挨拶程度で誰とでも交わすのに。あの時は照れてしまってできなかったのだ。
キスをして、笑顔で見送ってもらえばよかったと、後悔が押し寄せる。
「どうかした?」
「あ、いや……」
ベリージュースを持ったまま、扉の前で立ちつくしていたことに気づく。
慌てて近寄り、カップを手渡した。
「ありがとう――。わあ、君!」
突然、夫が顔を覗き込んできたので驚く。
「な、何か?」
「力強くて、綺麗な瞳だと思って」
「……」
出会った当初、目が合って一目惚れをしたという夫の話を思い出してしまった。
記憶を失ってからも同じことを言うものだから、思わず笑ってしまった。
「あ、あれ? 俺、変なこと言った?」
「いや、そんなことはない」
話をして、ホッとした。
記憶を失っても夫は夫のままだった。
「あの、名前を聞いても?」
上目遣いで聞かれる。
ズキリと、心が痛んだ。
「ジークリンデ」
そう答えれば、なんと呼べばいいかと聞いてくる。
「好きに、呼べばいい」
「だったら、ジークリンデさん、で」
今の状況は、出会った時とは違う。
あの時は結婚を前提として話をしていたのだ。なので、今回はいきなり、愛称で呼ぶわけがない。
「俺、どうやら記憶がないみたいで……」
「みたいだな」
「迷惑をかけるかもしれないけれど」
「ああ」
大丈夫、心配はいらない。
そう思ったけれど、どうしてか目頭が熱くなってしまった。
◇◇◇
怪我もないので、翌日から夫……リツハルドは働きだす。
記憶はないのに、雪国の暮らしは体に染みついているようだった。
早起きをしてトナカイや犬の世話をして、朝食の時間までに薪を割る。
ランゴ家にも、爽やかな様子で挨拶をしていた。
驚くほど、いつも通りのリツハルドだった。
私は、そんな彼を支えていく。
息子、アルノーと会わせても問題なさそうなので、迎えに行った。
まだ息子が父と呼べないのが幸いした。
アルノーは私のことを母と呼ぶので、息子としてリツハルドに紹介しておく。
「あ、ジークリンデさん、結婚していたんだ」
そんなことを言われ、なんとも切ない気持ちとなる。
今は自分の気持ちは隅に追いやるしかないと、言い聞かせていた。
リツハルドはアルノーをいつも通り可愛がってくれる。
その姿に、ホッとしていた。
リツハルドが記憶を失ったあとも、驚くほどいつもの暮らしと変わらなかった。
異なる点と言えば、私とリツハルドが夫婦でないということだけ。
私は未亡人で、息子を一人で育てているということになっていた。
なんとも哀しい嘘である。
偽医者と近所のご夫人と未亡人とその息子。それから、戦闘民族一家と。
なんとも奇妙な者達との共同生活を、リツハルドは不思議に思っていないようだった。
彼は普段と変わらず、明るく振る舞っている。
けれど、私は調子が狂っていた。
すぐ傍にいるのに、今までのように接することができないというのは、なかなかもどかしい。
無邪気な笑顔を向けられ、何度伸ばした手を引っ込めたかわからない。
いつも、リツハルドから触れてきていたので、私は愛情の飢えを感じたことはなかったのだと気づく。
私の気など知る由もないリツハルドは、残酷なことを言ってくれるのだ。
「ジークリンデさんは働き者だし、綺麗だし、旦那さんだった人は、世界一幸せな人だったんだね」
そんな言葉を聞かされ、胸がぎゅっと締め付けられる。
ずっとこのままなのかと思えば、さらに辛くなった。
屈託のない笑顔を浮かべるリツハルドから、背をそむける。
どんな言葉を返せばいいか、わからなかったのだ。
◇◇◇
リツハルドが記憶を失ってから早一ヶ月が経った。
なんとか村人にもバレずに、ひっそりと生活をしている。
私は亜麻の加工作業に向かった。
皆、各々世間話で盛り上がりながら、亜麻の糸を紡いでいく。
今日ばかりは、家族の話を聞くのが辛かった。
唯一事情を知るアイナにも、心配をかけてしまった。
帰宅をすれば、家の中は静まり返っていた。
玄関先には、アルノーと散歩に行ってくるという義両親からのメモが貼ってあった。
リツハルドは、家にいるのだろうか?
居間を覗く。すると、長椅子に腰かけ、眠るリツハルドの姿が――
私が部屋に入っても、目を覚ます気配はない。
そんな彼の隣に腰かける。
すうすうと眠る横顔を見て、改めて思う。
私はリツハルドのことが好きだと。
そっと、白銀の髪に手を伸ばした。
サラサラとしていて、手触りが良い。
久々に触れた気がして、嬉しくなる。
心ゆくまで堪能したいと思っていたが、目が覚めるといけないのですぐに手を離した。
今まで、リツハルドの愛情表現は過剰で、照れてしまい、拒絶することもあった。
なぜ、そんなことをしていたのかと、後悔が押し寄せる。
今も、アルノーがいて、リツハルドがいて、義両親は健康で――なんの不足もない生活を送っている。
なのに、私は飢えているのだ。
なんて浅ましく、女々しいことを考えているのかと、自らを恥ずかしく思った。
夢ならば、早く覚めて欲しいと願う。
ふと、馬鹿げたことを思いつく。
童話の世界では、口付けと共に魔法が解けるというのが定番だ。
リツハルドの頬にキスをして、目が覚めたら記憶が戻るのではないか。そんなことを考え、そっと近づく。
ゆっくりと動いたのに、長椅子がギシリと鳴った。
けれど、リツハルドが目覚める気配はない。
覆いかぶさるように接近し、頬に唇を寄せる。
触れようとした刹那――
「ダメだよ、ジークリンデさん」
目を閉じたままのリツハルドに声をかけられ、ぎょっとする。
そのままの姿勢で、リツハルドは瞼を開いた。
気まずい沈黙に包まれる。
そんな空気に耐えきれず、話しかけた。
「いつから起きていた?」
「ジークリンデさんが部屋に入ってきた時から」
「最初からじゃないか」
寝るふりが上手かったとは、知らなかった。新しい発見に喜べばいいのか。複雑だ。
この体勢からどんな言い訳をしようかと悩む私に、リツハルドは話しかけてくる。
「それにしても、ジークリンデさんは酷いな」
「勝手に触れたことは謝る。その、キスをしようとしたことも」
「そうじゃないよ」
接近していた状態から、腰を寄せられ、体重をすべて預けてしまう形となる。身動きが取れなくなってしまった。
それにしても、「そうじゃない」とはいったい……?
「わからない? なんで、怒られているか」
「……ああ」
「正解しないと離してあげない」
「……」
なぜ、リツハルドはこんなに私を責めるのか。
普段穏やかで、このような態度にでることはない。なので、戸惑ってしまう。
「どうしようかな。わからないんだったら、おしおきをしようかな?」
「……」
彼は、どんなお仕置きをするのだろうか。想像もできない。
けれど、甘んじて受けようと思った。
悪いのは、私だから。
「すまなかった」
「本当に、酷い」
「許してくれとは言わない」
「当たり前だよね。だって、ジークリンデさんは旦那さんと俺を重ねて接してくるから」
「え?」
「あなたの目に、俺は映っていない。別の人を見ているんだ」
「リツハルド、何を言っているんだ……?」
「どうせ、まだ前の旦那さんが好きなんでしょう? 寂しさから、こうして触れようとしてきたんだ」
この時になって、彼の怒りの理由を察する。
リツハルドは嫉妬をしていたのだ。記憶があった頃の自分に。
なんだかホッとしてしまって、脱力してしまう。
気付けば、涙がポロポロと零れていた。
それに気づいたリツハルドは、狼狽する様子を見せていた。
「あ、うわ、ジークリンデさん、ご、ごめん! 俺、泣かせる気はなくて――」
抱擁が緩んだので、元の位置に腰を下ろす。
私の隣に座るリツハルドはおろおろとするばかりであった。
落ち着いてから、ゆっくりとリツハルドに話しかけた。
「……あなたは、私のことが、好きなんだね」
そんな風に訊けば、コクリと頷いてくれる。
よかった。本当に。
私達は今まで通り暮らせる。
ホッと安堵すれば、義両親達が帰ってきたようで、賑やかな様子で居間へと入ってくる。
「おかえりなさい」
リツハルドは義両親を迎え、アルノーへと手を伸ばす。
「アルノー、おかえり!」
「たらいま、おとう……さん」
「え?」
アルノーを抱き上げ、驚きの声をあげるリツハルド。
それから、私を振り返って言った。
「うっわ、ジーク、聞いた、今、俺のことおとうさんって! ヤッタ~~! ……あ」
アルノーを高い高いしながら、気まずげな表情を浮かべるリツハルド。
「どうした?」
「え~っと、その、なんだ。思い出しました、すべて」
その言葉を聞いた途端、頬につうと温かなものが流れる。
よかったと、無意識のうちに呟いていた。
「ジーク、ごめん……。父さんと、母さんも」
照れたように謝るリツハルド。どうやら、記憶を取り戻したようだった。
◇◇◇
「俺、本当に辛くて――」
長椅子に隣り合って座っていれば、リツハルドは記憶を失っていた頃の話をする。
「ジークってばすごく優しくって、可愛くって、親切にしてくれて、もう一瞬で惚れてしまったんだけど、未亡人って言うし、俺のことぜんぜん見ていなくて!」
リツハルドは記憶喪失になっても、すぐに私を好きになってくれていたようだ。まったく気づかなかった。
「ずっと俺のこと好きになって~~って視線送っていたのに、困ったように微笑むからさ、うわ~~ってなって」
「そうだったんだな」
その辺、鈍かったのか、まったく察していなかった。
互いに、片想いをしていたということになる。
「寝ている時も、まさか触れてくるとは思わなかったから。嬉しかったけれど、こうしたいのは俺じゃないって気付いてしまって……。それでもいいかなって思ったけれど、やっぱり嫌で――」
そんな話をするリツハルドに手を伸ばす。
髪に触れ、梳くように撫でれば、心地よさそうに目を細めてくれる。
こうした触れ合いが当たり前のようにできることを、幸せに思った。
傍に寄って、頬に唇を寄せる。
リツハルドは「むふふ」と妙な笑い声をあげていた。
「どうした?」
「いや、ジークが甘えてくれるの、すっごく萌える」
「……今、なんと?」
「世界一可愛いってこと!」
そう言って抱き寄せられる。
ずっと耳元で愛を囁くので、照れてしまってどうにもならなくなってしまった。
やっぱり、彼の愛情表現は過剰で、恥ずかしくなるけれど、こうしていられる時間はかけがえのないもので、これからも、大切にしていきたいと思った。
―おわり―