表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

記憶の淵

彼女はゆっくりと目をあけた。

頭がぼんやりとしている。

近くで鳥が鳴いている。

そう、あれは鳥だ。

それはわかる。


次に彼女の心に浮かぶ言葉はこうだ。


では自分は何であったか。



自然と口が開き、音を放った。

何も覚えていないくせに耳になじむ音の並びに彼女はそれが自身の名前なのだと判断する。


だんだんと意識が鮮明になるにつれ、彼女の体は痛みだした。

怪我でもしているのかと腕をみて彼女は悲鳴を上げた。


両腕は真っ赤に染まっていた。

しかし、それが自身の赤でないと気づくと彼女はそっと腕に触れる。

乾いた赤が小さなかけらとなって剥がれ落ちる。


彼女にはこの血の主がわからなかった。

当たり前だ。彼女は今自身の名以外は何も持っていなかった。


少女はゆっくりとあたりを見渡した。

ここがどこなのかも、なぜこんなところにいるのかも、やはりわからない。

しかしまずは腕を洗うことにしようと、彼女は立ち上がる。


近くで水の流れる音がする。

川が流れているのかと浮かぶ次には、ああ、川はわかるのかと

少女はまるで会話のように思考をめぐらせた。


腕についた血を流すことに一瞬ためらった自分に疑問が浮かんだが、

彼女はそんな思いも赤とともに水に落とした。


大きな怪我はないが、体中にかすり傷やあざがある。

水に映る自身の姿を見て少女は首をかしげる。


闇夜のような髪と瞳は誰のものだったか。

記憶を探るが答えにつながる糸は切れてしまっていた。


しばらくして少女は歩き始めた。

もちろんどこに行けばよいかなどわからなかった。

しかし彼女は歩き続ける。

不思議と歩き続けることは彼女の体が覚えていたのだ。





少し前のことだ。

真っ白い部屋に少女はいた。

もうずっと前から彼女はそこに留まっていたように思う。


低い天井が赤く染まる。

少女はそれが明るくなることと暗くなることの狭間であることを

知っていた。

明るくなるとたくさんの音が聞こえる。

暗くなると静かになり、しかし音は消えることなどなかった。


この時、彼女は何も持っていなかった。

友も、家族も、自身の名前さえ。



ある日、一人の男が彼女の部屋にやってきた。

男はにっこりと笑って少女のもとに近寄った。

「こんにちは」


「こんにちは」

少女の口からも自然と言葉がでた。

それを聞いて男はうなずく。少女は不思議な気分だった。

前にもこんなことがあったような、この男を知っているような気がした。


しかしいくら記憶を覗いても、ただ真っ暗な闇のようだった。


「私と外に出よう。」

男は少女にそう告げた。

しかし少女は知らぬ音の羅列に反応を返せない。

少女にそっと触れようとした男の腕に彼女は本能から恐怖を示した。


「ああ、すまない。明日もくるよ。」

男はさっと腕をひっこめるとやさしく微笑んで少女の部屋を後にした。



次の日、また男は彼女の元にやってきた。

男は少女にたくさんの話をした。


彼女のいる小さな部屋の外のこと、男の生まれた国のこと。

どうして男が少女のことを知ったのか。


彼女はそれをただ黙って聞いた。

前にもこんなことがあったような気がする。


記憶の真っ暗な歪みに彼女はじっと目を凝らした。

何かが暗闇で小さく光る。それが見つかれば後は簡単だ。木の根のように、

太陽を浴びようと広がる枝葉のように。あとは辿るだけなのだ。


少女の視線が小さく揺れる。



それはもう、ずいぶんと昔のことだ。

小さな街に空から天使が落ちてきた。

まるでおとぎ話のようだが、確かに彼女は落ちてきたのだ。


人々は自分たちと同じ形でありながら、

まるでつくりもののような彼女のうつくしさに目を奪われる。


天使の魂が一日で生まれ変わることを知った人々は

彼女を崇拝し、天にも届くような塔を立てた。


画家や彫刻家は彼女の姿を作品にし、

詩人は彼女の美しさを歌った。


彼女は限りある体を持つ人々にとって再生の象徴であった。

彼女のように同じ体に生まれ変わることはできなくとも、

魂は生まれ変わり、再び命となるのだと信じた。


いつしか街は塔を中心として大きく広がっていた。


しかし時代は変わる。


祈りの先に信じていたものがないとわかった人々は

彼女を異質のものとしてさげすみはじめた。

信仰は歪み、彼女は忌み嫌われた。


過去は消され、街は塔から離れるように、また小さくなっていった。

彼女の姿を映した絵や彫刻は空想の世界を描いたものとして

世界に散っていき、事実は歌とともにおとぎ話となった。


ただ、彼女だけは変わらず塔の小さな一室にありつづけた。

生まれ変わり続ける清らかな魂は名も持たず、過去も持たない。



そんな彼女のもとに男は現れたのだ。


「絵を見たと、」

少女の美しい声が男の話を途切れさせた。


男は一瞬言葉を失ったが、しかしすぐに言葉を返す。

「そうだよ、絵を見て君を知ったんだ。この前私が話した事を覚えていてくれたんだね。」


それから男の話は少しずつ少女との会話になっていった。



ある日男は少女をまっすぐに見つめて言った。

「私と外にでよう」

そういうとしかし男は顔を伏せる。

もう何度目になるだろうか。

言葉を知らずに反応を示さなかったこともある。

拒絶を示したこともある。

それでもこんなことを続けるにはわけがあった。


「そとにでる?」

そんな男の耳に美しい声が届いたのだ。

不思議と男の心に初めて少女に出会った頃の記憶が浮かぶ。


男の国に辿り着いた絵と変わらぬ姿の少女。

初めて男が少女に出会った日、少女は男など見えていないかのように

反応を示さなかった。

しかし男は少女の美しさに息をするのも忘れてしまうほどであったのだ。


男は毎日少女を描いた。男はまだ若い絵師だった。

ふと、鳥の鳴き声が窓から入り込む。

男は筆をとめ、窓を見る。


「あの鳥は昨日も鳴いていたよ。」

独り言のようで、しかし彼女にかけた言葉。


その言葉を聞いた時、初めて少女は男を認識した。


少女の耳に男の言葉が聞こえ始める。

最初は意味のない音の並びだったが、それは少しずつ

意味のある言葉になり始めた。



「こんにちは」

次の日男が部屋に来た時、少女は男に顔を向けた。


「こんにちは」

ぎこちない音の並び。しかし天使にふさわしい美しい声だった。

それから男が少女の転生に疑問を持つのに時間は掛からなかった。


彼女の心は大きな湖のようだった。

感じたこと、見たこと、聞いたことはその瞬間にも

水の底に沈んでいく。

その記憶の命が一日であったのをかつての人々は彼女の魂の輪廻であると

考えたのだろう。


しかし彼女の記憶はなくなってしまうわけではない。何度も聞く言葉は

水面にあり続けたし、ある程度姿が見えるものは手を伸ばせばひろう事が

できた。

男はそれをひとつひとつ調べた。


そして男はある可能性を導き出す。

沈んでしまった記憶をつなげることができれば、彼女の記憶はよみがえるのではないかと。

しかしこの小さな部屋で彼女の記憶を埋めることはできない。

だから男は少女を外へ連れて行くことに決めた。


「私はアキだ。」

男は彼女に自身の名前を教えた。

名前を教えたのは何度目かわからないが、彼女と扉を開くのはこれが最初になる。



「アキ、鳥がないてる」

少女の声に男は優しく頷いた。

筆を動かす手を止めて男はあたりを見渡す。

「ほら、あの青い鳥だよ。」

そして男は指をさして少女に教えるのだ。


二人はあの塔を出て男も知らない土地をめぐった。

少女にとっては初めて見るもの、初めて聞くものばかりだったが

彼女の心の淵はすべてを飲み込んだ。

まだ足りぬ、まだ足りぬという淵の声が

男には聞こえるようだった。


「私は音が描けないんだ。あの鳥の声を絵にできたらいいのにね。」

男はときどきそんなことをつぶやいた。

少女の記憶を埋める言葉でなく、男の心が吐き出す小さな音ですら

貪欲に淵は飲み込み、言葉は水の底へと沈んでいく。


「そろそろ行こうか。いつの間にか雨が降りそうな天気になったね。」

男は画材をさっとしまうと立ち上がった。


「あめ。」

「そう、雨。空からしずく、水の粒が落ちてくるんだ。雨は山の土に蓄えられて川になる。」

男は少女が淵に沈めてしまった言葉や物事をなんども水面に浮かべた。

できる限りたくさんの枝葉を付けて。

それらがその瞬間にも沈んでいく事をわかっていても、

いつかこの枝葉がすべてつながるときがくると男は信じていた。



ずいぶんと旅をした。


いつしか男の声はしわがれ、闇夜のようだった髪は色褪せていた。

荷物の紙の束は無数の風景画で埋まっている。


しかし少女は古い絵画と同じ姿で、あの美しい声のままだった。

少女の記憶の淵もまた、底を見せないままだ。


「ああ、雨が降ってきてしまったね。」

「あめ。」

「そう、雨。空からしずく、水の粒が落ちてくるんだ。」

男の姿と声だけが時の流れを感じさせた。


「あめは山の土に、」

少女の言葉に男はうれしそうにうなずく。

いつからか、そんなとき、少女の心に不思議と波が起きるのだ。

少女は波につられて優しく微笑んだ。


二人は雨宿りができる場所を探して山の中を急いだ。

ここしばらくの天候はひどく不安定だ。


そう、雨は山の土に蓄えられる。

しかしそれには限りがあるのだ。許容を超えたらあふれるほかない。


不意に訪れる音、衝撃。

少女の背に当たる男の手はいつもからは考えられないほど熱く、

そして強く少女を突き飛ばす。


気づけば少女は地に倒れていた。

顔にあめが当たっている。


ああ、雨はわかる。

少女はそう思案した。


体中が痛かった。

しかし心の波に駆られて少女は体を起こした。


「アキ。」

自然と音が口からこぼれる。記憶は後からついてきた。


少女の目の前で雨を喰らい過ぎた山が形を崩している。

そしてそれに巻き込まれた男が一人。

男の荷にあったのであろう、無数の風景画があたりに散っていた。


「無事だったかい。」

ひどくかすれた声だった。


少女は自然と男に寄り、その体に触れた。

少女の腕が赤く染まる。


「君をこんな状態で一人にしないといけないのか。」

「君の名前を知りたかったのに。」

男の心が吐き出す小さな音が少女の記憶に落ちていく。

同時に彼女は赤と死を覚える。


気づけば雨はやんでいた。

水面の記憶は少しずつやみに消えてく。


少女の頬をつたった雨もいつしか消えていた。



どれほどの時が流れたのであろうか。

彼女のそばにそれを計れるものはもう何もなかった。

幾度目かもわからぬ朝、鳥の鳴き声に少女は目を覚ました。

「鳥がないてる」

何かを確かめるように彼女はつぶやいた。

「ほら、あの青い鳥だよ。」

少女の心の中で誰かの声がする。

彼女は記憶の淵をのぞいた。

なにかが小さく光る。

一人の男の姿が浮かぶ。

耳になじむ音の並びは男の名前。

たくさん風景と言葉があふれる。


地上では意味を成さない音。

それはもうずいぶん昔に忘れていた少女の名前。


「君の名前を知りたかったのに。」

記憶の男がそう話す。

つながる糸の先には雨と赤くそまった彼女の腕。


何度も言葉を繰り返す男の声。

あの数え切れない風景画のように彼女の心を覆いつくす。

許容を超えた記憶が彼女の心を突き破るように溢れ出した。


いやでも思い出される記憶に耐えかねて少女は天に両手を伸ばした。

彼女が持つのは永遠の器と命。

再生などないと彼女自身がよく知っているというのに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ