序 終わりと始まり
此処は……何処だ。
何も見えない。何も聞こえない。暗いのではない。明るすぎるのだ。溢れ出した白が視界を奪う。光に絡め取られた手、足、身体、そして――心。身動ぎする事は出来ない。喘ぐ事も出来ない。自分の意志が叶う物はただ一つとして無い。この身体は何か絶対的な力に束縛された。
どれ程の時間こうしていたのだろう。全ての感覚が麻痺するのではないかと危惧される程の時間が経った頃、耳で無く頭の中で声が響いた。
――お前は、失格だ。
重厚で突き刺さる尊大な声。そしてその声と言葉に気付かされた。自分はもう要らないのだと。消されてしまう。この偉大で崇高な存在によって。
――い……やだ……。私は……っ!
思い切り叫んだ言葉も声にはならない。咽び泣きたい。叫びだしたい。しかし、身体中を縛り付けた光の縄はその呪縛を解いてくれない。光の中で生きてきて、これ程まで光に痛め付けられた事は無かった。もしかしたらそれは堕落してしまった己への罰なのかもしれなかった。
だが、どれ程の苦痛を伴っても生きたかった。否、悠久とも云える程の時を生きてきた自分に「生きる」という言葉は似あわない。適当な言葉に言い換えるなら――この世に「存在」したかった。
――お前は私の意に背いた。ならば消えるしかない。
また同じ声。頭が割れる。その声で突き刺さないでくれ。その声で私の名を呼ばないでくれ……!
消えたくないのだ。消えるという事が死という事に直結するとしたら、私はまだ死にたくない。この完全な世界には何ら未練は無い。しかし自らが守護し続けてきた世界をこれから見守っていきたかった。
それに……私の所為で傷つけ、悲しませた可愛い人が住んでいた世界を、その人の守りたかったものを守ってやりたかった。あの可愛い人を死なせたのは――私の所為なのだから。私と出会わなければ今あの人はきっと笑っていた。そう思うと悔やまれてならない。
やり直したことは沢山有る。しかし、段々と肉体の痛みが激しくなっていく。引き攣れる様な痛み。初めて痛いという感覚を知った。だが耐えられない程じゃない。あの人の感じた痛みはもっと痛いに違いないのだから……。
――消エロ。
冷たく響いた、コエ。世の中を光で満たした者の声がこれ程までに冷たくて良いのだろうか。
――やめてくれ……私はまだ……死にたくない……!
白い世界が収縮した。戒めは解けない。世界が暗くなる直前、激しい憤りが胸の中で渦巻いた。
何故、神が人を愛してはいけないのだろうか?
誰か教えてくれ。
純白は漆黒に変わった。嗚呼、全てが終わったのだ。
……もう痛みは無い。今はこんなにも安らかだ。
愛した人よ、今会いに行く。……そして願わくば、この心無い主に罰を……。
◇ ◆ ◇
光から新たな神は生まれた。造られた、と言った方が正しいのかもしれない。
時とも呼べない程少ない時間この世界は神を持たなかった。しかしその一瞬後に神はまた存在し始めた。存在する事を望まれた、と言った方が正しいのかもしれない。
新たな神――ラディエスには少々奇妙な物が備わっている。例えば空を掛ける風の匂い。例えば地に根付く木々のざわめき。海に煌めく波の色。即ち――世界の記憶。まだ生まれてから数刻と経っていないのに、だ。これは主がラディエスに与えた役割に必要な『前の神の記憶』であるらしい。
ラディエスはその事に不服を申し立てようとは思っていない。ただ、世界の記憶が頭を駆け巡っている時、不意に囁く声が気になって仕方ない。
――まだ、死にたくない。地上はあんなにも美しいのに……。
頭を振れば消える声。しかしそれはふとした時に戻ってくる。主とは違う温かみを持った、それでいて寂しそうな声。
ラディエスは自分が生まれた光の園から一歩を踏み出した。眼前に広がるのは綺麗な世界だ。澄み切った蒼穹、咲き乱れた花、黄金に光る宮殿。そしてラディエスはそれらが全て枯れず、曇らず、朽ちない事を知っていた。なんと完全な世界か。此処が私の住む場所。そして私が守護する場所はこの楽園の下の世界だ。
下界は完全ではない。世界の記憶からそれは分かっている。それでもこの記憶は下界の素晴らしさを語っている。
楽園の空気を胸いっぱいに吸って、しかと目を見開く。
「さて……始めようか」
世界の守護を。