第1話 亀と青年(中編)
一度投稿した内容ですが、操作を間違えて他の話を上書きしてしまいました。スイマセン。内容を思い出しながら慌てて書いたので、細かい部分が変更されています。大筋では変化は無いです。
シーン2 小見谷通り 喫茶店『ライト』
「だから、すぐそこででっかい亀と変な男たちに絡まれてたんだよ!」
喫茶店の一角で、健次郎は身を乗り出して熱弁した。その目の前に座っている女性――伊藤詩乃は、左手で頬杖をつき、右手でティースプーンに乗っている角砂糖を摘み上げたり落としたりしながらそれを聞いていた。そして、深く溜息を吐いた。
「あー、はいはいはい、わかったわかった。要は、でっかい亀を見た、ってことでいいのね?」
「いや、何度も言うけど、その亀は普通じゃなかったんだよ!
立ってた! 喋ってた! 動いてた!
で、捕まったんだよ、俺、そしたら、なんか変な薬を飲まされかけてさ――」
「それはそれは! びっくりしたのねぇー、健次郎ちゃん。
普通の亀は立たないし、喋らないし、動かな……、まあ、動くけど。
で、その薬ってどんなのだったのでちゅかー?」
詩乃は左手で頬杖をしたまま、冷ややかな笑みを浮かべて健次郎を茶化した。
話半分にしか聞かない詩乃に、健次郎はもどかしさを覚えながらもなお続けた。
「だーかーらー! 本当なんだってば!
薬はなんか……青かった! でも毒かなんかだよ、きっと!」
健次郎の熱弁に、詩乃は角砂糖を弄りながら「へぇ」とだけ答えた。
まるで信じていない――歯がゆさのあまり、健次郎は頭をぼりぼりと掻いた。
「そしたら、赤いのが来てさ! "何とかレッド"って言ったんだ! そしたら亀が下水道を間違えてて――」
なんとか詩乃に伝えようと同じ説明を繰り返すうちに、いつしか話が前後して支離滅裂になっていた。
自分でも収集がつかなくなり、健次郎は「あー、もう!」と天を仰いだ。
「最初から説明するから、よく聞いてね詩乃さん!
俺、近道しようとして、そこの古本屋の角を曲がったら――」
そのとき、健次郎の口に角砂糖を載せたティースプーンが飛び込んできた。健次郎は思わず口を閉じた。口腔内で角砂糖がじんわり溶け、甘味が広がった。ティースプーンから手を離しながら、詩乃が言った。もうその顔に笑みは浮かんでいなかった。
「健次郎、あんたさぁ……、三十分も遅刻した言い訳がそれ?
作り話なら、もう少しマシなの用意してきてよね……」
詩乃は気色ばんだ様子で髪をかきあげた。健次郎はティースプーンを咥えながら目を丸くした。
「……もうこんな時間じゃない! 変な話でさらに二十分も無駄にした!!」
腕時計を確認しながら、詩乃は鞄を手にして席を立った。鞄からA4ファイルに綴じられた資料を取り出し、それを、ばん!とテーブルに叩きつけた。
「次の取材、この店ね。締め切りは三日後。あ、コーヒー代は払っとくから」
それだけ言い残し、詩乃はいそいそと会計を済ませて店を出て行った。
一瞬唖然とした健次郎だったが、スプーンを口から出し、テーブルの上の資料を手にして慌てて詩乃の後を追った。店を出ると、すぐに詩乃に追いついた。詩乃は健次郎が追ってきたことに気付くと、その歩みを速めた。
「ま、待ってよ、詩乃さん。遅刻したことは悪かったよ……」
「うるさい! 待たない! あんたとの打ち合わせだけで一時間近く無駄にしたのよ!
すぐ編集部に戻らないと、また編集長に何言われるか分かったもんじゃないわよ!」
「ご、ごめん、ごめんよ詩乃さん……。でも、本当に起こったことだったんだ」
すると、詩乃は急に立ち止まり、健次郎の顔をじっと見た。
「詩乃、さん……?」
「今日ってさあ、金曜でしょ? あんた、もうバイトの時間なんじゃないの?」
「……あっ!!」
シーン3 西小木市 花野町 居酒屋『蒸気屋』 厨房
「す、すいません! 遅れましたっ!!」
健次郎は、白衣に袖を通しながら厨房へ飛び込んだ。厨房の奥では従業員が集まって開店前のミーティングが始まっていた。
「遅いぞ只野! 今から新人の紹介をするから早く来い!」
店長の声が飛んだ。健次郎は慌ててミーティングの輪に加わりながらも、制服のボタンを留めてなかったことに気付いてそれをぱちんぱちんと留めはじめた。店長の横には、背の高い男が立っていた。恐らく彼が新人なのだろう。店長に自己紹介を促され、その新人が口を開いた。
「今日からバイトでお世話になります。板井 大地です。よろしくお願いします」
まだ最後のボタンを留めていなかったが、健次郎はその声を聞いて思わず顔を上げた。そして驚いた。
その声、その顔、それは健次郎が知っているものだった。そう――あの路地裏で出会った青年、"何とかレッド"その人だった。
「あっ……!!」
思わず声が出た。その様子を店長がめざとく見つけた。
「何だ、只野、知り合いか?」
「いや……、知り合いと言うか……」
健次郎はあの路地裏で起こったことを、今ここで話すべきかためらった。喫茶店であれほど詩乃に茶化されたのだから当然の反応ではある。
健次郎が躊躇した瞬間、大地が口を開いた。
「いえ、はじめて会いますね」
店長は「なんだそうか」と返事をし、すぐさま今日の予約客の話を始めた。
さて、心中穏やかでないのは健次郎だ。
――なんだ、なんだ、なんだ、何なんだコイツっ!?
アイツだよなっ? あの"何とかレッド"に変身したヒーローだよなっ?
今は制帽と白衣を着けてるから雰囲気が違うけど、あの目、声、間違いない!
つか、コイツもあの路地裏で俺の顔を見てたはずなのに、この反応はなんだ?
覚えてないのか? それともしらを切っているのか?
いや、それはともかく、なんでコイツここにいるんだ?
ヒーローが居酒屋でバイトを? 何で? 何で?
ミーティングの締めに、店長が「今日も一日がんばりましょう!」と掛け声を上げた。その声で健次郎は、はっと我に返った。そして改めてその新人――大地の顔をじっと見た。やはりそれは路地裏で出会ったあの青年に間違いなかった。大地はそんな健次郎の思いを知ってか知らずか、その視線を感じて彼を一瞥した。
程なく開店を迎え、週末の厨房は戦場と化した。健次郎は、奇しくも新人に皿洗いを指導する役目を店長から命じられた。彼はこの幸運に感謝した。
――これはチャンスだ! 仕事しながらあの路地裏の件について何か聞き出してやる!
健次郎は次々と運ばれてくる食器を洗い、大地はその隣で洗い終わった食器を拭いていた。一通り作業の手順を教えた後、健次郎は頃合いを見計らって大地に話しかけた。
「板井くん、って言ったよね」
「……はい」
「年、いくつ?」
「……二十二っす」
「あ、じゃあ俺と同じじゃんか!」
「……はあ」
「地元出身?」
「……いえ」
「そなんだー」
「…………」
「今日さ、板井くん、小見谷通りにいなかった?」
「……いないっす」
健次郎は努めて友好的に接しようとしたが、大地からはそっけない返事しか返ってこなかった。大地は黙々と手を動かしている。
――なんだコイツ、感じ悪いな……。でも、負けるな俺! もう少しつっこんで質問するんだ!
「俺、今日小見谷通りででっかい亀を見ちゃってさー」
「……はあ」
「これがまた、臭いのなんの」
「……そうですか」
「板井くんは、亀とか好きな方?」
「……動物は、あんまり」
――乗ってこない……。やっぱりあれなのか? 簡単に正体を明かしてはいけない、とかヒーロー番組にありがちな設定なのか?
健次郎は、思い切って核心に触れてみることにした。
「つか、やっぱり小見谷通りにいたでしょ?」
「……いないっす」
「傑作だったよな、あの亀。下水道と上水道を間違えるとかさ」
「…………」
「あのさ、もし間違ってたら悪いんだけど」
「………………」
「あのとき"何とかレッド"に変身したの、板井くんでしょ?」
大地の手がぴたりと止まった。その視線はじっと手元を見つめている。
――さあ、思いっきり直球で聞いてやったぞ! どう答えるんだヒーロー!?
健次郎は期待のまなざしで見つめた。
――「……"何とかレッド"ではなく、"イタインレッド"だ」
大地が呟くように答えた。
健次郎は息を呑んだ。大地があまりに簡単に認めたことに驚いた。いや、それよりも大地の口調や纏う雰囲気が一変したことに戸惑いを隠せなかった。あの路地裏で見た時の、剥いた刃のようなするどい目。大地はその目で健次郎を睨みつけた。健次郎は思わず一歩あとずさった。
「……忠告しておく。
俺たちやエスクロンについて嗅ぎまわるのは止めた方がいい。痛い目に遭いたくないだろう」
――威圧感。そう呼ぶに相応しいものを感じた。
健次郎はもうそれ以上大地に問いを投げかけることはできなかった。
シーン4 花野町 表通り
――とはいえ、やはり簡単に諦めきれるものではない。
時計の短針は「12」の文字盤を超え、日付は一つ数字を増やしていた。そしてさらに「1」の文字盤に差し掛かる頃、居酒屋『蒸気屋』の裏口からは片づけを終えた従業員が続々と現れ、各々帰宅の途についた。その中に、大地と健次郎の姿もあった。
表通りに軒を連ねる飲食店の多くはとうにその灯りを落とし、白い街灯だけが点々とその道を示していた。そんな中を、大地は一人で歩いていた。そしてその二十歩ほど後ろから、それと同じペースで歩く黒い影があった。
健次郎である。彼は大地の跡をつけることにした。少しでも大地の素性を知ることが、あの路地裏での不可解な出来事について理解することに繋がるはず――そう考えた。とはいえ、これといった策があった訳ではなかった。ここで大地がタクシーでも拾えば跡を追う事は難しくなるだろうし、もしこのまま大地の家を見つけたところで、そこから何ができるかなどは考えていなかった。
健次郎は、大地の背中を注意深く観察しながら、足音を立てないように歩いていた。大地の吐く息が白く舞うのを見て「ああ、やっぱりヒーローでも、寒いと息は白くなるんだな」などと妙に感心した。
すると、とあるパチンコ屋の角で大地がおもむろに曲がった。
見失ってはことだと、健次郎は早歩きでその角に向かった。――そのときだった。
「おい!」
健次郎は突然背後から声を掛けられた。その声を聞いて彼は困惑した。何故、この声の主が背後にいるのだろうか……? 混乱したまま振り向くと、そこには大地が立っていた。
「お前か……。忠告はしたはずだぞ……?」
大地は腕組みし、憤然とした様子で健次郎に迫った。
健次郎は両掌を顔の横に上げ、うろたえながら答えた。
「い、いや、悪い、一つだけ聞きたいことがあったんだ……あそこじゃ聞きづらくて……」
「………………」
長い沈黙があった。
そして、大地は深い溜息を吐いて「一つだけだぞ」と答えた。
――しまった!
健次郎は後悔した。
聞きたいことはいくつもあった。だが大地が突然背後から現れたことで泡を食った健次郎は、つい「一つだけ」と言ってしまったのだ。しかし、ここで前言撤回などしようものなら何をされるか分かったものではない。この男は、明らかに憤慨した様子だし、あの路地裏で六人の男たちを瞬く間にのしたほどの強さの持ち主なのだ。さらに、厨房で聞いた「痛い目に遭いたくないだろう」という言葉が何度も頭の中をぐるぐると回った。
健次郎は必死に頭の中で、今一番知りたいことを探した。そして、ごくりと唾を飲み、問いかけた。
「あの、亀の持ってた青い薬、あれって何だったんだ?」
それを聞いた大地は一瞬眉間にしわをよせ、目を伏せた。
そして、重々しい口調で答えた
「……あれは、睡眠薬だ」
「……え?」
健次郎は耳を疑った。
「す、睡眠薬? って、寝るだけ?
な、なんだー、意外と、その、拍子抜けだなー」
健次郎は安堵の表情を隠せず、口元からは思わず笑みがこぼれた。
――なんだ、ただの睡眠薬だったのか。心配して損したなあ。あんなに怖がってた自分が情けない。
思えば、あの亀もどこか間抜けだったし、そんなに気にすることもなかったかもな。
そう思った。だが、それはすぐに間違いだったと思いしらされた。
大地はそんな健次郎の態度をよそに、さらに重い口調で続けた。
「あれを一度飲めば、二度と目覚めることは無い……」
「え……?」
健次郎はまたも耳を疑った。
「永遠に眠り続けるんだよ。死ぬまでな……」
「そんな……」
健次郎の顔がみるみる青ざめた。
――飲まされるところだった。下手をすれば、いや、目の前にいるこの青年が現れなければ、間違いなくそれを口にしていた。もしそうなれば、今自分はここに立っていなかっただろう。あの薄暗い路地で、人知れず眠り続けていたのかもしれなかった。
そう思うと、膝ががくがくと震えた。吐き気すら覚えた。あの路地裏での出来事が、何度も何度も頭の中でロールバックした。そのとき、ふと健次郎の脳裏にある疑問が浮かんだ。
「で、でも! "最上の幸福"って!」
その言葉を聞いた瞬間、大地の表情がさらに硬くなった。
「そうだ、"最上の幸福"って言ってたぞ、あの亀!
あの薬を飲めば、幸福を味わえるって!! なんでそんなのが幸福なんだよ!?」
大地は目を閉じ、暫し沈黙した。
そして、目を開いた。あの剥いた刃のような鋭い目がそこにあった。
「それが、エスクロンの幹部 シャラーフの持論だ……
"睡眠こそが人類最上の幸福である"……と!」
「そんな、でも、そんな薬を使ってまで……」
「それが秘密結社エスクロンだ。
奴らは独り善がりな"幸福"を全人類に押し付けようとしている」
「そんな、そんなことって……!」
健次郎にはまだ信じられなかった。あの亀はそのような恐ろしい薬を使いながらも、それを"幸福"を分け与える行為だと本気で考えていたのだ。彼はエスクロンという組織の得体の知れない恐ろしさを感じ、背筋に寒気を感じた。
「それで、それであの亀はどうしたんだ? やっつけたのか?」
それを聞き、大地は言いよどんだ。
「まだだ……」
「え……」
目眩がした。不安と恐怖で心がぐちゃぐちゃになり、健次郎は思わず取り乱した。
「まだって、どういうことだよ!
野放しなのかよ、亀も! 薬も!
どういうことだ板井!? 呑気にバイトなんかしてる場合かよお前!?」
息は荒くなり、目から涙がこぼれていた。
そんな健次郎をなだめるように、大地はゆっくりと静かに、だが力強く語った。
「心配するな。必ず止める! イタインジャーの名に懸けて……!!」
「イタインジャー……?」
「俺たちは、激痛戦隊イタインジャー。
ずっと昔からエスクロンを止めるために闘っている」
「激痛、戦隊……?」
ネオンの落ちたパチンコ屋の前に一陣の風が吹いた。白い街灯だけが二人を照らしていた。
時計の短針は「2」の文字盤を通り過ぎていた。
第1話は前中後編の三部構成になっています。
次回は29日午後10時投稿予定です。