第1話 亀と青年(前編)
シーン1:西小木市内 小見谷通り路地裏
その青年、健次郎は我が目を疑った。
何度かまばたきをしてみたが、やはりそれは目の前にいた。
そこには数人の男たちと、一匹の大きな亀がいた。
男たちと亀は、健次郎をじっと見つめている。彼らと目が合った瞬間、健次郎は妙な違和感と共に、背中に一筋の汗がつたうのを感じた。彼らが初めて出会ったのはわずか数秒前のことであったが、健次郎はこの人気の無い路地裏と、男たちと亀が彼に浴びせる視線、そして何よりも自身の背中をつたう汗が知らせる悪い予感を読み取り、即座に判断した。
――これは、まずい状況かな……、逃げたほうがよさそうだ……
と、来た道へきびすを反そうとした刹那、男たちの一人が健次郎の左腕をぐっと掴み、叫んだ。
「待て!」
なんとなく予想はしていたものの、その行動に健次郎は動転した。なんとか男の手を振りほどいて逃げ出そうとした健次郎だったが、さらに二人目の男が加わり右腕と右肩を押さえつけた。
「やめろよ! 離せ、離せよ、俺は何も見ていない! だからっ……!」
「黙れ! 見たからにはこのまま帰さんぞ!」
「いやだ、離せ、離してくれよっ、誰かっ、誰かっっ……!」
あまりに唐突に訪れた恐怖と混乱で声がかすれた。助けを呼ぼうにも、彼の喉は乾いたボール紙が擦れたような音しか出せず、あまりに小さいその音はとても路地の向こうまで届きそうになかった。二人の男は、健次郎を乱暴に地面へ押しつけた。アスファルトに顔面を打ち付けられ、健次郎は小さく呻いた。
「痛い! 離してくれよ、何も、何も見てないんだ俺は……」
健次郎はかすれた声でそう呟き、恐る恐る目の前の亀を見上げた。そう、この亀こそが、彼が出会い頭に感じ取った全ての違和感の根源だった。
亀は二本の足で立っていた。それは亀の基準で言うなら後ろ足とでも言っておこうか。そして前足二本をまるで手のように器用に扱い、何やら小瓶のようなものを2、3本持っている。まるで人間のように、立って歩く亀。さらに、健次郎が驚いたのはその大きさだった。亀は周囲のどの男よりも背が高く、その身長は180センチ、いや190センチはあるだろうか。幅も1メートルは優に超えている。ふと巨大な着ぐるみではないかと考えた健次郎ではあったが、間近で見るとそれは明らかに巨大な「生きた亀」そのものだった。
健次郎は出会った瞬間のことを思い出していた。細長く薄暗い路地の角をまがると、それが視界に入った。その大きさゆえに彼には目の前にいるそれが一体何であるかが判らなかった。まず呆気にとられ、そして暫しの間を置いた後、それが巨大な亀であると理解してようやく周りに数人の男たちがいることに気付いたのだった。今思えばその暫しの間が彼の命運を分けたと考えることもできた。
――何故もっと早く逃げようとしなかったのか……。
健次郎は己の判断の鈍さを悔いた。
改めて見ると男たちも妙な格好をしている。今健次郎を抑えている男たちも含め、六人はいるだろうか、全員が一様に黒いタイツのようなもので全身を包み、頭には黒い目出し帽のようなものを被っていた。状況が異なれば滑稽に見えたであろう。だが、いまや健次郎にとって、得体の知れぬ彼らの風貌はえも言えぬ恐怖の対象に他ならなかった。健次郎は、冷たくざらついたアスファルトの感触を頬に感じながら、子供の頃にテレビで見たヒーロー番組に登場する悪の組織の戦闘員を思い出していた。
健次郎を押さえつけている男の一人が亀に向かって話しかけた。
「アイアンタートル様! この男、いかがいたしましょう?」
亀が口を開いた。
「グッグフフフフフ! まさか一般人が現れるとは思ってもみなかったな」
なんとこの亀、日本語を話している! 健次郎はまたも驚いた。亀が喋るとその口から緑色の湯気のようなものが放たれ、玉子が腐ったような強い悪臭が辺りに充満した。健次郎は思わず咳き込んだが、男たちは眉ひとつ動かさずに亀の言葉に耳を傾けている。アイアンタートルと呼ばれた亀はさらに続けた。
「せっかくだ。シャラーフ様より頂いたこの薬……。どれほどの威力か試してみるか」
亀はその手に持っている小瓶の一つを男の一人に渡した。小瓶に入っている液体は鮮やかな青色で、わずかに発光しているようにも見えた。小瓶を渡された男はゴム手袋を手に着け、そろりそろりと瓶の蓋を開けた。その仰々しい様子から、健次郎にもその液体が何か恐ろしいものに違いないと分かった。
男は他の男から受け取ったスポイトを瓶に差込み、液体をほんの少しその中へ吸い出した。
「アイアンタートル様、この程度でよろしいでしょうか?」
「瓶3本でこの町全ての人間に効果があるという話だったな……。1滴飲ませれば十分だろう」
――ここで逃げないと、もう……
健次郎は直感した。この液体を口にしてしまえば、きっと恐ろしいことが起こる。そして、この亀とその取り巻きの男たちは間違いなくそれを実行するだろう。健次郎は最後の力を振り絞り、なんとか拘束を解こうと手足に力を入れた。しかし、二人の男たちに抑えられた彼の上半身は微動だにせず、左足がわずかに動かせるだけだった。健次郎はもうここから逃げ出せないことに愕然とし、これから己に起こるであろう悲劇を想像すると、その目からほろほろと涙が零れ落ちた。スポイトを持った男は、ゆっくりと健次郎に近づいてくる。
「いやだ、やめて、やめてください……お願いだ……」
蚊の鳴くような声。だが必死に呼びかけた。しかし亀はそれを笑い飛ばし、こう言った。
「グフフフフ! 心配するな、死ぬことはない!
他の者より先にこの薬を飲めるということは、むしろ喜ばしいことだと思うといい。
これからお前は人類が味わうことが出来る最上の幸福を味わうことができるのだ!」
「最上の…幸福……?」
「左様! 我々、秘密結社エスクロンの願いは人類全てを幸福の世界へ導くこと!
そしてそれを実現するのが、偉大なるシャラーフ様が開発したこの薬なのだよ。
貴様は誰よりも早くその世界へたどり着けるというわけだ! 光栄に思え! グフフフフフフ!!」
亀の高笑いに呼応するように、男たちも皆大きく口を開けて笑い出した。笑い声がこだまする中、スポイトを手にした男は片笑みを浮かべながら健次郎の口にそれを近づけた。
「いやだ、そんな訳が分からないものを飲むなんて……」
健次郎の涙声は、亀と男たちの笑い声で掻き消された。
そして、いよいよスポイトが健次郎の唇に触れようとした刹那――
「そこまでだ、エスクロン!!」
健次郎の背後から怒号が響いた。
その声を聞き、男たちは喫驚した。健次郎を拘束していた男たちはすばやく飛びのき、声のした方に向かい身構えた。拘束を解かれたことを感じた健次郎は即座に体を起こし、一目散にその場から逃げようとした。だが足腰が言うことを聞かず、へなへなとその場に座り込んでしまった。自分の身体が思うように動かないことに呆然としつつも、健次郎は声がした方に目をやった。
そこには一人の青年が立っていた。
細身で長身。年のころは健次郎と同様、20代前半くらいであろうか。擦り切れたボロボロのジーンズを履き、赤いジャケットを羽織っていた。その短い黒髪と黒いシャツにジャケットの赤が映え、この薄暗い路地にまるで小さな太陽が現れたような錯覚さえ覚えさせた。その表情はまるで修羅のごとく怒りに満ちており、その目は剥いた刃のようなぎらつきを見せていた。
その青年の姿を見て、亀は明らかに狼狽した様子を見せた。青年を指差した手が震えていた。
「き、貴様っ……! まさかっ……!?」
青年はジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出し、それを素早く操作し、頭上に掲げ、そして叫んだ。
――「チェンジ!イタイン!!」
健次郎はまたも我が目を疑った。
青年が叫ぶと同時に、その体はまばゆい光に包まれた。そして次の瞬間そこに現れたのは、赤い全身スーツに身を包んだ戦士であった。赤い戦士は左手を力強く突き出し、右手を胸の前に構えて名乗りを上げた。
「イタインレッド!」
健次郎はその姿を見て唖然とした。それはまさに健次郎が子供のころにテレビで見たヒーロー番組の主人公のような風貌だった。それが今、彼の目の前で、怪しげな男たちや巨大な亀と対峙している……。
とても信じられないが、かつてテレビで見た光景が目の前にあった。
亀はその姿を見て戦慄した。しかし、すぐさま気を取り直して叫んだ。
「やはりイタインジャーか! ものども、かかれ!!」
亀の号令で、男たちは赤い戦士に飛び掛っていく。だが、戦士はそれを華麗にかわし、その力強い蹴りと突きで次々と地に伏せていった。
――なんだか、こんなシーンも昔テレビで見たような気がする…
目の前で激戦が繰り広げられる中、健次郎は妙なノスタルジーを覚えた。
そして六人目の男が地に伏し、ついに戦士と亀が一対一で対峙した。
「お、おのれー、イタインジャーめ……!」
「ここまでだな、エスクロンの怪人。こんな路地裏で何をたくらんでいる!?」
「グフフフフフ……、そんなことを素直に教えると思うのか!?」
そのとき、健次郎は思わず口を挟んだ。
「そ、そいつ、妙な薬を持ってる! それで何かするつもりだっ!!」
亀は慌てふためいた。
「なっ……! こ、この一般人め、余計なことを言うんじゃないっ!!」
「薬だと? まさか、またシャラーフの計画かっ!?」
「くそっ、ばれては仕方がない!
だが、これを水道管に流し込む計画だということまでは分かるまい! グフフフフフ!!」
「……ん?」
「……え?」
一瞬、静寂が訪れた。
――今、こいつ、計画を自分でばらしたような……?
健次郎は我が耳を疑った。
「し、しまった……! つい口が滑ってしまった!!」
「ベタすぎるぞ! エスクロンの怪人!!」
「えーい、うるさい! 貴様さえ現れなければ、ここのマンホールに薬を投入できたものを!」
「……そこのマンホールだと!? 水道管に入れるんじゃないのか!?」
「……え?」
「……うん?」
またも静寂が訪れた。そして赤い戦士が呆れた様子で口を開いた。
「……そこのマンホール、下水道だぞ」
「な、なんだとっ!? そんなことを言ってこの私を騙そうなどと……」
「いや、書いてあるだろ、"下水道"って……」
マンホールの蓋には、これでもかというくらい大きく"下水道"の文字が記されていた。
健次郎もそれを確認し、思わず声が出た。
「あ、確かに下水道だ……」
「何…だと? 下水道だったのか……」
「………………」
「………………」
三度訪れた静寂の中、亀がじりじりと後ずさった。そして亀は、こぶし大の白い球体をどこからともなく取り出し、自身の足元へ放り投げた。球体は破裂し、次の瞬間、周囲が多量の白煙で覆われた。白煙で視界が遮られる中、亀の声が辺りに響き渡った。
「……グフフフフ!
こ、今回はこの程度にしておいてやる! 覚えていろ、イタインレッド!」
「ま、待てっ! 怪人め!」
健次郎は、足音と共に白煙の中をいくつかの影が駆け抜けていったのを見た。
そして暫しの時が経った。煙が晴れ、辺りが見回せるようになったとき路地は静寂を取り戻していた。赤い戦士に変身した青年も、あの巨大な亀も倒されたはずの男たちもすでに姿を消しており、腰を抜かした一人の青年がへたりこんでいるだけだった。
スーパー戦隊シリーズを意識した異色のヒーローものとして書いてみました。
ゆっくりじっくり書き連ねていきたいと思います。