後編
扉の奥は暗闇が広がっていた。転んでしまわないように、両サイドの壁に手をつきながら歩いて行くと、やがて後ろから歩いていたスピカがベルガンに声を掛けた。
「そろそろ着くから、カーテンが見えたら引いてごらん」
スピカに言われた通り、豪奢なカーテンをスッ、と両手で引っ張ると、目を開けていられないほどの光が瞬いて、ベルガンは目を閉じた。暫くして、スピカがもう開けても大丈夫と一言掛けてくれたので、ベルガンはゆっくりと部屋の全貌を見渡した。
部屋は、濃い紺色のグラデーションで覆われていた。壁にはスピカがピアスにしている形がいくつも描かれ、可愛らしくベルガンは思った。そしていくつかショーケースが並んでいて、どれも発光している。ベルガンはパッと表情を明るくして、見たことの無い全てに目を輝かせた。
「これは…なに?」
「星だよ、ベルガン」
ベルガンは思わずスピカに振り返った。そしてもう一度星だと呼ばれた物に目を向けた。
砂糖菓子のように瓶に詰まった沢山の星たちは、愛らしいリボンで留められて拘束されている。今まで夢のように思っていた星がすぐ手に届きそうなほど近くにあった。
「これが…星なの…?」
「正確にはちょっと違う。この子達は星の卵。羽化したら星空となって世界に暗い闇でも光を与えてくれるよ。」
スピカはベルガンが特に食い入るように見つめていた小瓶をショーケースから取り出した。
虹色の光を放つ星の卵たちは、輝きながらくるりくるりと回っている。
ベルガンはスピカから小瓶を受け取り、複雑そうな顔をした。
「僕…お金ない」
「君たちの世界の通貨なんて要らないよ、でも一つだけ欲しい物がある。」
「な、何?」
「その絵本を、僕に譲ってくれないか?」
ベルガンは思わず絵本をぎゅっと握り締めた。これは小さな頃にもらった大切な本。そう簡単に渡せるものではないと、頭は冷静に対処した。ベルガンは少し悩んで尋ねる。
「この本がどうして欲しいの?」
「その星たちが輝くには、その本が言っちゃあ悪いけど邪魔をしているんだ」
「邪魔…でも、何で?」
「それは教えられない、まだね。さあ、買わないも買うも君次第だ」
ベルガンはちらりと古びた絵本の皮表紙を見つめた。片時も話さず、何万回と読んでもう本はくたびれていた。ベルガンは唇を噛んで、やがて顔を上げた。
「大事に…してくれますか?」
「もちろん!」
「じゃあ、」
ベルガンがスピカに絵本を手渡す。その瞬間、小瓶とは比べ物にならなほど鮮やかな光が、二人の手の間からこぼれ出た。ベルガンが驚いて手を離すと、スピカがどこか遠くなったように感じた。
「ありがとう、これで君が心から望んだ風景に出会えるはずさ」
そして、ベルガンの意識が遠のいていった。
「…がん、ベルガン!」
ベルガンは誰かに呼ばれてハッと体を起こした。見渡すと見慣れた景色で、ベルガンは此処が自宅であるのを確認した。急に跳ね起きたベルガンに驚いたのか、ルナは大げさに仰け反ってベルガンが無事であるのに安堵していた。
「アンタ、外で倒れていたからわざわざ運んであげたのよ?感謝しなさい?」
「あ、ルナ…」
「もう!ぼーっとしちゃって、何かあったの?」
ベルガンは少し俯いてやや自嘲気味に笑った。
「変な…夢を見ていた…あ、そうだ絵本」
ベルガンはベッドから起き上がって、スプリンクラーが壊れていた場所まで戻ろうとして上着を手に取った。するとポケットにたまたま右手がぶつかって、その中に何かが入っていることに気がついた。
「あ、れ…これは…?」
そっと手を入れてみる。触ってみるとすべすべしていて手にしっくりと馴染んだ。ポケットから引き上げたそれは、つい先ほど欲しがって堪らなかったあの小瓶だった。
ベルガンは驚いて小瓶を見つめた。あれは夢じゃなかった、そう思うと少し妙な気分になった。
「わあ、綺麗。なあに、それ?」
「星、星の卵なんだって」
ベルガンは薄い生地のリボンをゆっくりと解いた。コルクで留められた蓋を、側にあったペーパーナイフでこじ開ける。ベルガンが、あ、と短く声を発した瞬間、ものすごい勢いで飛び出した星の群れは、一直線に天井を突き破って空を目指した。
ベルガンはあまりの眩しさに目が眩み、ルナは何が起こったか理解できずにいた。
小瓶から全ての卵たちが飛び出して、穴の空いた部屋に静寂が起こった後、ベルガンは我に返ったように走り出した。
「たっ、大変だ!」
「あ、ベルガン!一体これは何なのよー!」
ベルガンは急いで外を目指した。幸いマンションの最上階だった為、天井に穴程度で済んだが、あの勢いではゲートまで壊しかねない。いや、きっと壊してしまう。
青ざめたベルガンは急いで階段を駆け上がり、マンションの屋上の扉を開け放った。
「…うそ…」
ゲートはすっかり大破してしまっていた。巨大な穴が汚染されていた空を露出し、バラバラと金属音を立てて崩壊している。そして、目を奪われたのはその真ん中に鎮座した空だった。
空は、スピカの部屋よりもっと濃い紺色で包まれていた。淡い光が辺りを照らし、それはいつしか無くなったと言われていた月の姿、そして何より眼前に広がったのは数え切れないほど夜空を覆いつくす星たちだった。
まるで紺色の絵の具に白を滲ませたかのように美しい光を持った星たちはすっかり砂糖菓子から姿を変えて羽化していた。
ふと背後に人の気配を感じてベルガンは振り向いた。
「気に入った?」
「スピカ…!」
「君が絵本を手放したから、空は御伽ばなしなんかじゃなくなった。本物になったんだ」
「とても…綺麗…」
「これからは、汚染されていない空の下、健康的に一生を過ごせるだろう。」
「あ、ありがとう、スピカ」
ベルガンははにかんで俯いた。
スピカはベルガンに近づいて、優しく微笑むと、その耳元でそっと囁く。
「ねえ、もっと可愛い格好をしたら?女の子なんだからさ」
ベルガンの顔は真っ赤に膨れ上がるようだった。まさかバレていたとは思わず、恥ずかしさのあまりから、両手で顔を覆い隠した。スピカはそんなベルガンを見つめて笑っている。
「…また、会える?」
「ふふ、そうだね、僕がまた一文逃してしまったら…会えるかもしれないね、それまではさようなら、ベルガン」
ふっ、と光の束になったスピカはあっという間に姿を消した。
空っぽになった小瓶を両手で握り締めていたベルガンは、その場で立ち尽くしたまま、長年夢見ていた本当の空を見上げた。
「ちょっとベルガン!一体な…に…が…、」
ルナがようやくベルガンに追いつき、ゲートの先を見上げて口をただ開いてその後は喋らなくなってしまった。ベルガンは薄く笑みを浮かべて、ルナに振り返る。
「ほらね、夜空はあったのよ!」
ルナはあんぐりと口を開けたまま、妙に女の子らしく振舞い出したベルガンを見て更に表情を硬くした。ベルガンはそっと屋上に瓶を置いて、自分の部屋に戻っていった。
「ねえ、ルナ、私、久々にスカート履きたいな!」
そう、夜空ほど輝く笑顔で言った。