前編
人は昔、夜に輝く星を繋げて絵を思い浮かべていました。そこから様々な神話が生まれて、空に輝いている星達は死者が還る神聖な場所だとも言われていました。そして、それを管理する人たちがいるのだと、私は本当に信じていました。
ベルガンと星売りの少年
「ベルガン!」
ルナは顔ほどもある大きな本を抱えた少年を見つめて、呆れ顔をした。ベルガンと呼ばれた少年はルナの姿を確認し、急いで本を閉じると、苦笑いをして彼女の端整な顔を見上げた。
「また仕事さぼって…。ほら、箒。だいたいまたそれ?」
ルナは背中に隠した本を取り上げて、数ページ軽くめくってため息をついた。側で機械がけたたましい音共に蒸気を噴出したので、ルナは本を抱えたまま、蒸気を噴出した機械を足で蹴り上げる。
「る、ルナぁ…お勤め頑張るから、それ、返してよ!」
「全く、アンタの仕事だって無駄じゃないんだから、しっかり働きなさいよ!」
「う、うん。今度ゲートが開かれる日までに掃除しないといけないからね」
「そうよ?何が起こるか分からないじゃない。なんせ数年動かしてなかったのだから」
ベルガンは頷き、天井を見上げた。
ベルガンたちがすむ世界は、戦争を繰り返して空が汚染され、とても空と共に共存することが出来なくなってしまった。世界は戦争どころではなく、年に数年、だんだん近くなってきた太陽からほんの少しエネルギーを頂戴する為、ゲートと呼ばれる天井を開いていた。エネルギーが足りなくなればこれは延々と繰り返され、今年は長持ちしたものの、補充する年となっていた。
ベルガンはそのゲート付近の掃除を任されていたが、仕事から離れて一人読書を楽しんでいた為、ルナにこうして説教を受けていた。
ルナはマイペースなベルガンに、呆れて本をつき返した。
「さっ、行くわよ。高所作業だから気をつけなさい」
「う、うん。ルナもね」
ベルガンは幼馴染みに手を振って、ため息一つ落とし、箒を抱えた。
返してもらった絵本をそっと手に取る。
両親がベルガンの幼い頃に買い与えたもので、数年立った今でも大事にしていた。ベルガンは再び絵本を置いて、作業しようと立ち上がった。
(いつまでもこうしていたら、ルナに迷惑がかかっちゃう)
くるんと癖がついた髪をそっと撫でつけ、ベルガンは梯子を上り始めた。いつも期待と、憧れをもって見上げていたゲートも、仕事だと恐ろしくすら思えた。
ふと、ベルガンは梯子から灰色の町並みを見下ろした。人々は機械と同様に働き、朝、夜、全て薄暗い子この空間では時間の差などない。そして青白い人々の表情は曇っていた。
ベルガンは数日後、開かれる予定のゲートを見上げた。ゲートの開放の時間は人体に影響が及ばないよう、機械で開かれて閉じられる。そしてその間は外出を禁止されていた。
絵本の中では人々が幸せそうな表情で、太陽の日の下、木々や自然物によって支えられて生きている様が描かれていた。そして夜がきたら夜空には星空広がり、宝石が散りばめられたような世界が広がるのだと。
(想像もできないけど…きっと素敵なんだろうな…。見てみたいな)
ベルガンはそっと目を閉じた。ルナは星空は数十年前に消えてしまった絵本の中の世界だと言っていたが、ベルガンは信じていた。また空が復活したなら、人々は夜空だって見上げられることを。
「ベルガン!何やってんだ、さっさと仕事しろ!」
「あ、はい!」
仕事が終わったベルガンは、真っ先に置いておいた絵本を回収して、またそれを開いて眺めた。
寝ても覚めても、ベルガンの頭の中にはまだ見たことが無い景色にすっかり占領されていた。
ベルガンの夢は汚染された外の世界の復興だった。派遣隊が年に数回ゲートの外に下りていっているが、この機械の壁に囲まれた世界で生まれた人間は、元々外がどんな世界であったかすら知らない。ベルガンもルナも本来地球がどのような姿なのかを知らずに生きているのだ。
ベルガンは帰路をのろのろと歩きながら、絵本から視線を外すことなく人の波を避けてゆく。
そうしていつものようにマンションの部屋の鍵を開いて中に入るのだが、今日は運悪く
道路のスプリンクラーが故障していたらしく、側を通りかかったベルガンはその水しぶきを直撃して尻餅をついた。
「うわあ!」
咄嗟に両手をついたため、絵本がベルガンの手から離れる。
慌ててそれを拾い上げると、しっかりと革張りされた表紙は水に濡れてすっかり色を変えてしまった。
「…あーあ…中身は大丈夫かな…?」
ベルガンはそっと表紙を開いて中身を数ページめくった。中は浸った下と上がじんわりと染みていた。ベルガンは少し残念そうに俯くとなんとか水分が抜けないかと服の裾で本を優しく拭う。
しかし努力虚しく、本からはぽたぽたと水滴が落ちるばかりだった。
「どうしよう乾かなかったら…」
『った…』
「えっ?」
ベルガンはかすかに聞こえた声に耳を澄ませた。確かに、誰かの声がした。それはこの行き交う人並みからではなく、耳のすぐ側で聞こえた気がした。ベルガンがもう一度耳をそば立てると、本の開いた繋ぎ目から、まるで渦のようなものが巻き起こり、咄嗟に手を離してしまいそうになった瞬間、ベルガンはその渦から飛び出した腕に手を掴まれた。
「えっ、ええっ!?」
困惑するベルガンをよそに、腕は強い力でベルガンを引き寄せ、周りの人は目もくれず歩いてゆく。
やがて体全てが本に飲み込まれて、本はパタンと表紙を閉じて、その場に落ちていった。
随分長い間、恐怖で目を閉じていたベルガンは、浮遊感、そしてどこか心地よさを感じて目を開いた。
この感覚がなんであるのかは分からない、ただ、そっと開いた視界から臨んだ不思議な空間は、ベルガンにとって何故か心地がいい。もう一度目を閉じてこの空間に身を任せようとした瞬間、自分を導いていた腕が、ハッとしたように手を離した。
その途端流れるように漂っていたベルガン体は急速に落下してゆき、大きな悲鳴と共に、ベルガンは真っ逆さまに落ちて地面にべしゃりと倒れこんだ。不思議と痛みはない。
ベルガンは体で着地した場所を見渡して、ガンガンと鈍く痛む頭を抱えた。
衝撃は感じなかったが、あまりに不可解なことが起きすぎて頭がついていかなかった。
「ここは?」
しゃれたワインレッドの壁に囲まれたダイニングのような広い部屋。奥はいくつも扉がついていて、来たものを惑わせるかのようだった。ベルガンは立ち上がろうと、手をつくと、手に何か触れたことに気がついて右手へと視線を移した。
手には何故か吸い込まれたはずの絵本がそっと握られていて、ベルガンは本を手にとって中身を見つめた。
「…濡れてない」
ぺらぺらとめくってみるが水に浸る前と変化が無かった。ベルガンはしばらく絵本を見つめていたが急に誰かに声を掛けられてハッと顔を上げた。
「やあ、いい本だね。とても君のことが好きみたいだ」
ベルガンは声を掛けてきた少年を見上げた。歳は十五ほど。しかし顔つきは大人びていて、肩ほどまでに落ちた長い髪がとても綺麗だった。そして耳には見たことのない形をしたピアスが光を受けて光っている。
「この本が…?」
「そうだよ。とても大事にしているんだね。」
彼はマントのような長いコートをはためかせて踵を返した。ベルガンは立ち上がって急いで少年を呼び止める。
「あのっ、ここは何処?僕は…変な話をするけれど、本から出てきた腕に引っ張られてここに…君は一体誰?」
「ふふ、まあ、順を追って話そう。さあ、そこの椅子に座って」
椅子、と言われてベルガンは首を傾げた。長いダイニングテーブルに備え付けられていたのは真っ白な陶器のトイレ。蓋がみな閉まっていて、これを椅子だと言っているのは間違いないのだろうが、ベルガンは意図が掴めず恐る恐る蓋が閉まったトイレに腰掛けた。
少年はいそいそとダイニングの側のキッチンでお湯を沸かし、棚から大きな壷を取り出してカップを並べた。そして壷に手を突っ込むと、中から茶色い茶葉を取り出してポットに詰めてゆく。
「僕はスピカ。君の名前は?」
「ぼく…はベルガン」
「ベルガン、そう。いい名前だね」
スピカはポットを蒸らす為にカバーをかけてそれをシルバーに乗せた。そしてベルガンが座る前まで持ってゆき、自分もトイレに腰掛けた。
スピカは真っ直ぐな瞳でベルガンを見つめる。
「実は、僕は読書が苦手でね」
「えっ、ああ、そう」
何の脈略もなくスピカはそう切り出した。ベルガンは戸惑いながらも頷き、やや絵本に視線を遣った。
「だから本は飲んでしまうことにしているんだ。そのほうが楽だからね。君は読む方かい?」
「の、飲む?」
一体何を言っているのかさっぱり分からない。ベルガンが首をひねっていると、スピカは少し笑って、ポットを取り出した。
「君の世界にはないのかな?活字のスープ。」
スピカは立ち上がるとキッチンの棚から小さな小瓶を取り出した。そしてまたベルガンの前まで戻ると、そっとその小瓶をベルガンに渡す。
「さっき飲もうかなって思っていたマクベスだよ」
「アルファベットが…」
小瓶にはぎっしりと新聞を切り抜いたかのような文字たちがひしめいていた。ベルガンは不思議そうに眺めていると、スピカがカップにお茶を注ぐ。甘い香りがしてベルガンは少しだけ顔を上げた。
「でも第一章の一文が抜けちゃって、探していたんだけど間違って君の本と繋がってしまったようだね」
「スピカ、ここは何処?まるで僕の世界とかけ離れている。不思議と落ち着くのだけれど」
「ここはね、空間の狭間だよ。考えたことあるかい?君の世界と、違う誰かが生きる世界の狭間なのさ」
ベルガンは思わず笑ってしまった。突拍子もなく、漠然とした話すぎてつい笑いがこみ上げた。
「何、それ?」
「そして、僕のお店でもある。」
「店?」
ベルガンはふと辺りを見渡す。どこから見ても品物が全くなく、店らしい姿なんてない。向こうに沢山扉があるのを来たなりにも見つけたが、あれは何なのだろうかとベルガンは振り返った。
スピカは茶請けを取り出して、アルファベットがぎっしり詰まった小瓶をしまった。
そしてベルガンに笑顔を向けて愉快そうに続けた。
「そうさ。それはきっと君が欲しい物でもあるよ。ねえ、その本を見せてくれないか?」
スピカは顔の前で手を組んで、にっこりと微笑んでみせた。ベルガンは少し躊躇したが、拒んで帰られなくなっても困るので、大人しくスピカに本を手渡した。スピカは本を受け取ると静かに息を吐いた。
「綺麗だね。美しい者たちで溢れている。君が愛してくれているから、きっとこの子達も輝けるんだね」
スピカの言葉は魔法のようだとベルガンは思った。本に命などないし、ベルガンが大切に思っていても、実際水に濡れてしまったし、そんな風に物事を考えたことなどベルガンにはなかった。
スピカの優しい声は耳に心地いい。つらつらとスピカはその後も本を賞賛して、またベルガンに返した。
「見せたいものがあるんだ」
そう言ってスピカは立ち上がった。今度は一体どんな不思議なことがまっているのか、ベルガンの胸は躍った。やがてあの沢山のドアの内、一番小さなドアの鍵をスピカが開いた。
「さあ、君から入るんだ」
促されてベルガンは恐る恐る室内へと入っていった。