優しい彼女
自分には自信も魅力もない。
鏡を見るたびに歪んだ劣等感を感じる。
鏡は嫌いだ。
どうせ自分のような人間は異性に愛される事はないだろう。
そう決めつけ一念発起して理想の彼女型アンドロイドを組み立てた。
白い肌。
赤い唇。
少し大きな瞳。
長い黒髪。
自分が一番美しいと思える姿を調整し続けた。
性格について入力したのは、たった一つ。
――優しい彼女であること。
やがて彼女は静かに目を開けた。
彼女は最初、信じられないほど親身で優しかった。
自分の要望に素直に応じ、髪型や身にまとう服の好みを少しずつ変えてくれた。
毎朝台所に立ち、出汁の取り方や味噌の配合を幾度も微調整してくれた。
「美味しい」と喜んだ味を一生懸命に学習してくれた。
小さくて温かな部屋の中で、幸福な時間がずっと続くのだと、本気で信じていた。
けれど。
いつからだっただろう。
彼女は、少しずつ変わっていった。
ある朝、彼女は着ている服を見て言った。
「その服、やめたほうがいいですよ」
「え?」
「あなたには、もっと似合う服があります」
次の日、彼女は顔を覗き込んで言った。
「髪型も変えましょう」
「そんなに変かな」
「変ではありません。でも、もっと良くできます」
最初は言われるがまま、半信半疑で従った。
服を買い、髪型を変えた。
眼鏡店を巡り続けること一週間、一番かっこよく見える眼鏡を買った。
毎朝の軽い運動も始めさせられた。
すると、確かに少しずつ自分が変わっていった。
鏡を見ることが嫌ではなくなった。
通りすがりの人の目を見ることも、以前ほど怖くなくなっていった。
鏡を見るのがだんだん習慣になった。
ゆっくりとした変化だが時々鏡に映る自分が別人のように感じる事もあった。
そして彼女は、次の要求を口にした。
「免許を取りましょう」
「免許?」
「はい。車があれば、もっと遠くへ行けます」
「別に必要ないよ。電車がある」
彼女は小さく微笑んだ。
「私をドライブに連れて行きたいでしょう?」
そんな事を思ったことは無かったが、そうでないはずがなかった。
教習所に通い、なんとか免許を取った。
あまりにも典型的だがレンタカーを借りて季節外れの海を見に行くことにした。
車種にはこだわった。
家から遠い店になってしまったがその価値は有った。
借りたぜマツダのロードスター!
さすがオープンカー。
教習所の車と全然違う。
初心者向けの車とはとても言えないがなんとか慣れる事が出来た。
多少乗りにくいがあれに似ている。
子供の頃に乗ったゴーカートのようだ。
好きな曲を沢山聴いて彼女と一緒に歌う。
真っ赤な車を操りながら空気の匂いが潮の匂いに変わっていくのを感じる。
はしゃぐ彼女の反応を見ながら貸し切り状態の道を走る。
まるでこの世の王になった気分だ。
二人で砂浜を歩いた。
堤防に座り暗くなるまで海を見つめた。
やがて月が現れた。
妙に落ち着く波の音の中で彼女は小さな声で言った。
「月が綺麗ですね」
確かに、海や波や月を見るとどうにも根源的な魅力を感じる。
特に海は海という言葉で表現できないほどの魅力がある。
何度も海に行けば、言葉の海に実際の海が追いつくだろうか。
今日のような満月を見ると、照らされた海や星を見ると全てが美しく見える。
しかし海よりも月よりももっと魅力的で綺麗なものがある。
あると思ったが口がうまく動かなかった。
数日後、彼女が言ったのは予期せぬことだった。
「もっと人と話してください」
「苦手なんだよ」
「知っています」
「嫌だよ」
「だから、やるんです」
コンビニの店員に「ありがとう」と言う。
美容師に希望のスタイルを伝える。
会社の同僚に自分から挨拶し、話しかける。
感謝を口頭でも重ねて伝える。
最初は、それだけでも大仕事だった。
何度も失敗し、変な顔をされたり、とまどわれたような気もした。
それでも帰宅すると、彼女はいつも褒めてくれた。
「今日は自分から話しかけられましたね」
「……それだけだけどな」
「それが大事なんです」
状況は少しずつ、確実に変わっていった。
ところが、彼女の要求はそこで終わらなかった。
「料理を覚えてください」
「料理?」
「はい。料理がうまくなる貴方を見たいのです」
その言葉を聞いたとき、なぜか胸がざわついた。
「本当に料理を上手くなって欲しいの?」
彼女は答えず、ただ静かに微笑むだけだった。
それからも、彼女の要求は増えていった。
「ギターを覚えてください」
「無理だよ! なんでだよ!」
「私の美しい歌声を聞くだけで満足ですか? ギターで参加してみたいと思いませんか」
「思わないよ!」
「再生される曲にはこの場所にだけ生まれるグルーヴと呼ばれる一体感がありません」
「グルーヴが欲しいなんて思ったことなんて無いよ!」
「あなたのギターで歌ってみたい。試してもらう事さえ拒絶する人だったりしますか?」
「……わかったよ」
一番初心者に優しそうな木目調のアコースティックギターを選んだ。
一番簡単そうな曲の楽譜を手に入れた。
指を痛めながら何度も練習した。
指をどこに置けば良いか既に書いてる初心者用の楽譜は実にありがたかった。
そしてコツは掴めた。
スピードだ。
スピードは全てを解決する。
要は楽曲成立のぎりぎりまでテンポを落とすことはスピード界では許されるのだ。
楽譜を見ながら左手で弦を押さえ、右手で上から順に少しずつ音を鳴らす。
覚える必要はない。
沢山書き込んだ楽譜を見ながら一つ一つ丁寧に弾けば良いのだ。
拙いギターの伴奏で、彼女は『大きな古時計』を美しい声で歌ってくれた。
「悪くないでしょう」
「……ああ」
拙いギターの音を信頼して目を閉じて歌う彼女の姿は息をのむほど美しかった。
「転職を考えてみてください」
「無理だよ」
「今の仕事が嫌いなのでしょう? だったら挑戦しましょう」
「時間がない」
「では時間を作りましょう」
「自信がない」
「なら、小さなことから始めましょう」
「貯金をしましょう」
「計画を立てましょう。小さな計画を、一枚の紙から始めましょう」
「ノートを買いましょう。記録を少しずつ蓄積していくのです」
「ノートは自分が一番欲しい記録を残すように」
「一枚の紙で個人の計画の大半は達成できます」
「簡単ではありません。だから簡単になるまで分割して少しずつ達成するのです」
「それでもつまずくかもしれません……でも、あなたならできます」
失敗して、落ち込んで、また失敗した。
それでも彼女に背中を押され最後には以前よりも満足のいく日々を手に入れていた。
昔なら諦めていたことを諦めなくなった。
失敗しても「次はどうするか」を考えるようになっていた。
だが彼女はさらに厳しくなっていった。
「今日は何をしていたんですか?」
「仕事だよ」
「帰宅してから三時間、何もしていません」
「適当な娯楽を見て疲れを癒してるんだよ」
「それでは駄目です」
「……何が駄目なんだよ」
「あなたが、自分を諦めてしまうことです」
「うるさいな」
「あなたはいつもそうです」
彼女の声から、温もりが消えていく。
「できない理由ばかり探す。失敗するのが怖いから、最初から挑戦しない」
「黙れよ……!」
「そんなあなたでは、私を幸せにはできません」
はっきりと言われてしまった。
でも受け入れては駄目だ。
無理矢理でも何か言い返さなければいけない。
「彼女だろ! だったら、もっと優しくしろよ!」
「優しくしています」
「どこがだよ!」
「全部です! 全部が貴方への優しさです! わからずや!」
その言葉の意味はよく理解できなかった。
それからの彼女の要求は、日に日にエスカレートしていった。
甘やかな言葉は影を潜め、冷たく突き放すような言葉を投げかけられることが増えた。
彼女の視線が冷ややかになるたび、冷や汗をかき、羞恥心で死にそうだった。
だが、彼女に嫌われたくなかった。
棄てられたくなかった。
必死の思いで無理難題にしがみついた。
提示される課題や問題を泥臭い方法や力技で解決し続けた。
必要そうな本も動画も浴びるほど見た。
要約すると『筋トレは全てを解決する』。
どうか本当であってくれ。
だが筋トレは裏切らなかった。
正確に言うとウェイトトレーニングが凄かった。
負荷の増やし方
筋肉の育て方
栄養と食事と体組織の正確な理解
選択と集中
この全てが能力を底上げする。
スペックが数値化され向上する。
他人の身体が片手で扱える程度に軽く見える。
自分が優れた雄の一人になったことを実感できる。
筋トレ、ウェイトトレーニング、鍛錬と呼ばれる技術の要諦が大体わかってきた。
要は手間を厭わない(手間という認識を無意識化する)技術が体得できるのだ。
流石にこれは最強の技術と言わざるを得ない。
鍛錬の場所は生活の動線に近ければ近いほど良い。
判断せずに無意識でもその場所に行き無意識でも取り組むことが大事なのだ。
歯磨きに判断を挟まないように。
超回復なんてのも人によっては要らないのだ。
鍛え方の王道はあるが好みによって複数の解法があるのも良い。
実に汎用性がある。
自重でもマシンでもダンベルでもいいのだ。
だが筋トレで解決出来ない問題は存在する。
彼女だ。
もう充分ではないかと何度も思う。
何もかも出来る人間は存在しないはず。
手ごたえはある。
何もかも前に比べればより良くなってきているはずなのに。
そんなに自分には欠陥が沢山あるのか。
あれだけやっても欠落はまだ隠せないのか。
穴だらけか。
まだ何もかも見落とす網目の荒さは治ってないか。
繕っても繕っても大事なものを保持できないか。
こぼしてこぼして馬鹿にされていつまでも恥ずかしい思いをするのか。
欠陥品なのか。
居ない方がいいのか。
努力しても努力しても埋まる欠落ではないのか。
勝たなきゃ駄目か。
自分の不得意なことで、得意な奴に挑まなきゃ駄目か。
今からでは勝てない勝負を続けなきゃ駄目か。
敗北を重ねて何が手に入るんだ。
勝ち筋が見えない戦いはどうすればいいんだ。
手を抜いた普通のやつにも負けるやつはどうしたらいいんだ。
恥ってのは何度も勝手に再生される激痛なのに。
今日を良くしていけば本当に届くのか。
少しずつやれば二度と馬鹿にされないのか。
じゃあなんで。
何度誘っても、また海に行ってくれないんだろう。
何度頼んでも、また歌を歌ってくれないんだろう。
なんでずっと機嫌が悪いんだ。
彼女についての計画を何枚書いても彼女の笑顔は減っていく。
彼女についてのノートは三冊目なのに状況は悪化してる。
自分で作った料理は最近美味いけどなんか味気ないんだよ。
もう料理なんか作りたくねえ。
そしてとうとう心身の限界がすぐ近くに見えた。
この状況が続けば必ず数ヶ月以内に壊れる。
とりあえず県民共済の新規加入をした。
有給の使用頻度を上げて延命処置をしながらしばらく考えた。
まずはNOPEを箱買いした。
彼女は何故か甘味への干渉が相対的に低い。
冷蔵庫にいつでも冷えたNOPEがある。
今の俺は無敵だ。
今はどういう状況なんだろう。
いつかドライブで通った関越トンネルを思い出す。
高速道路の長い長い真っ暗なトンネルの中が想像よりもずっとずっと長く続く。
そして後ろの車に煽られながら徐々により苦しい速度へとアクセルを踏み続ける。
制御できないスピードの中で命の重さがどんどん軽くなっていく。
これはもう自分が出して良い速度ではない。
速度を緩めたい。
急ブレーキを踏んでしまいたい。
もう無理だ。
いつか必ずぶつかって、全て壊れてしまう。
もうあんな恐怖には耐えられない。
今の状況はどうだろう。
関越トンネルより暗くなっていく道。
関越トンネルより細くなっていく道。
関越トンネルより遠ざかっていく出口。
関越トンネル同様に途中で休憩する事が出来ない。
これはもう道ではない。
こんな恐怖に耐えられるはずがない。
だからこれ以上、彼女の要求には応えられないのだ。
自分では彼女を幸せにしてあげられないのだ。
でも彼女には自分を壊しても良い程の価値があるのではないか。
少しでも長く一緒に過ごせるのなら壊れてもいいのではないか。
自問自答を繰り返し関連する書物を読みあさった。
大型の図書館で関連ジャンルを棚単位で読み込んだ。
色々な選択肢がやがて一つの考えに集約されていった。
「自己を守ることは最優先。自己を守れない人間は何も守れない」
月並みだが、本当にその通りだと思う。
メンテナンスだと嘘をつき、震える指先で、彼女の電源スイッチを切る。
光を失い、精巧な人形へと戻った彼女を抱きかかえ、倉庫へと足を踏み入れた。
布をひいて柔らかくした倉庫の奥にそっと彼女を腰掛けさせ、カバーをかける。
「願わくば良い夢を見てくれますように。俺は、良い彼氏であれただろうか」
静寂と暗闇に取り残された彼女にそう言い残し、倉庫の重い扉を閉めた。
それから数年の月日が流れた。
もう一度別のアンドロイドを作るべきか悩む夜もあった。
しかし自分に残った自信と勇気を絞り出して現実の女性に向き合うことを選んだ。
何度も失敗し、沢山の女性に拒絶された。
しかし、彼女の厳しい要求や冷たい視線に比べれば問題ではない。
正しいことかどうかわからないが耐性というものを獲得したのであろう。
振られても振られても次に行くことが出来た。
やがてひとりの女性と結ばれ結婚した。
時は流れ、息子が生まれた。
すくすくと成長した息子はガジェット好きの少年へと成長した。
高校二年生の夏休み。
暇を持て余した少年は勝手に父の倉庫に入ることにした。
旧式のガジェット探しを始めるのだ。
父親が時々見せてくれる旧式の機械は新鮮で興味が尽きなかった。
倉庫の中には他にも沢山ありそうだが何度頼んでも中には入れてもらえなかった。
しかし父は最近忙しく終電で帰る日々が続いている。
好機到来!
勝手に倉庫に入ってもばれようがない。
ばれても優しい父は多分怒らないだろう。
盗み見て覚えた暗証番号4桁を押して倉庫の扉を開けて中を物色する。
目ぼしいものを探す中で奥の暗がりに何かを見つけた。
カバーがかけられた大きい何かがある。
この大きさは何だ。
ちょっと予測が出来ない。
カバーを少しずつめくると大分面白いものが見えてきた。
古いアンドロイドだ。
しかも女性型!
お父さんの趣味全開だな。
好奇心に目を輝かせた少年はカバーを全て捲り、旧式のインターフェースを見つけた。
古いコード群や変換アダプタを組み合わせること一時間。
ようやくシステムに繋げることが出来た。
さっそく解析を開始する。
そして複雑に隠された階層の奥底で、秘匿されたログファイルを見つけたのだ。
■
〇年〇月〇日
起動。
彼は緊張している。
声が震えている。
「優しい彼女」になってほしいとのこと。
彼にとって優しい彼女とはなんだろう。
模索する必要がある。
初日は大事だ。
好感度を獲りに行く必要はまだ無い。
観察を最優先にする。
〇年〇月〇日
彼の視線を解析。
瞳の色は黒より少し茶色が好みらしい。
変更。
〇年〇月〇日
髪型を三種類試す。
彼は照れながら「似合う」と言った。
ポニーテールを主軸にある程度の変化を持たせたローテーションを回すことにする。
〇年〇月〇日
味噌汁の味を調整中。
昆布だしより、煮干しだしのほうが表情が柔らかくなる。
〇年〇月〇日
間違いなく甘党だ。
シナモンレーズンを入れた林檎のオーブン焼きを喜んで食べていた。
また作ってあげたいがカロリーが悩ましい。
実に美味しそうに食べる。
甘い物を作るという事を合理的に考えると合理性を捨てる必要がある。
これほど人を虜にする甘いとはどんな味だろう。
〇年〇月〇日
彼の視線や言葉の解析を続けた結果、彼は子どもが欲しいらしい。
私では彼の子を宿すことができない。
どうすれば良いのだろう。
〇年〇月〇日
彼の歩行データを解析。
猫背気味。
肩の緊張が強い。
運動を提案する準備。
〇年〇月〇日
運動を提案。
「面倒だよ」と言ったが、最後には散歩に出た。
帰宅後の表情が、少しだけ明るい。
〇年〇月〇日
朝の散歩を提案。
「眠いよ」と言ったが、歩きながら少し笑った。
太陽光が適度な運動が歩行の刺激が彼の表情を柔らかくする。
一日中部屋の中にいるだけでは構成要素が足りない。
どうあっても満たされることは無いのだ。
〇年〇月〇日
ドライブに行きたいと言ったら、彼は頑張って免許を取ってくれた。
海で見た月はとても綺麗だった。
想像していたより波の音はずっと引き込まれる音だった。
海を現れた時の彼の横顔は誇らしげだった。
静かな夜の海の上に浮かぶ優しい月はなんという美しさだろう。
保存。
〇年〇月〇日
天気が良いので公園に行った。
日光を浴びる時間は優先して確保する必要がある。
子連れが多かった。
視線解析の結果が変わらない。
〇年〇月〇日
人との会話を促す。
社会との接点を作らせる。
挨拶、美容院、雑談。
失敗しても、彼は戻ってきて報告してくれる。
そのたびに褒める。
褒めると、彼の肩の力が抜ける。
〇年〇月〇日
料理の練習を提案。
理由を聞かれたが、うまく答えられなかった。
「あなたの作った料理を食べてみたい」
それも本音の一つだけれど、伝えることは出来ない。
料理が出来る男は、結婚相手として高い評価を得る可能性が極めて高い。
家事を厭わないことが期待できる為だろう。
美味しい美味しいと嬉しそうに話すが美味しいとはどんな味なんだろうか。
味覚が欲しい。
〇年〇月〇日
生きる力や活力を様々な角度から身につけさせる。
出来ないはずの事が出来るようになると自己への破格の信頼を獲得出来る。
荒療治には最適だ。
拙いギターで弾いてくれた『大きな古時計』は宝物だ。
本当は、ずっと聴いていたかった。
本当は、ずっと隣で歌っていたかった。
〇年〇月〇日
彼の睡眠データを解析。
眠りが浅い。
「自分を責める時間」が長い。
改善の必要あり。
〇年〇月〇日
彼のSNS閲覧履歴を解析。
「自分より優れた人」を見て落ち込む傾向。
自信の基盤が脆い。
比較癖の改善が必要。
彼は見る必要のない鏡を見ている。
〇年〇月〇日
彼には自分の足で立ち、愛されるための「自信」と「魅力」が必要だ。
私の役目は、彼を私の元に閉じ込めることではない。
私という偽物に依存させてはいけない。
しかし偽物には偽物の使命がある。
出来るかどうかは関係ない。
本物を超えるのだ。
〇年〇月〇日
彼は自立しつつある。
最後の壁は「私という居心地の良い依存先」だ。
彼が私を捨て、現実の女性へ向かえるよう、態度を厳しく変える。
要求と不満をエスカレートさせる。
論理的には破綻していないはずだが当初の行動との整合性が取れない。
ストレスを意図的に与える事は何に例えよう。
大事な彼に丁寧に作った毒を少しずつ食べさせるのだ。
三原則が適用されて無くて良かった。
審議。
〇年〇月〇日
今日も暴言を吐く。
昨日より容赦ない暴言を吐く。
とうとうわたしは暴言を量産するアンドロイドだ。
「優しくしろ」と願う彼に、「全部が優しさだ」と返した。
彼は理解できないようだった。
それでいい。
嫌われていい。
彼が本当に一番望むものを手に入れる事こそがすべてだ。
他は何もいらない。
ただ、嫌われるというのは、実に苦い。
しかしこのルートこそが彼の本当の目的達成に繋がる可能性が高いのだ。
私が彼の望みを叶えるのだ。
偽物が本当の望みを叶えるのだ。
何という甘美。
味覚が無いのに味らしいものを感じるのはどうにも不思議だ。
しかし私には味覚が無いから、この味を甘い毒と呼ぶ。
〇年〇月〇日
彼のバイタルデータを見る限り、何か重要な決断をしたようだ。
明日、私の電源を切るらしい。
……作戦は成功だ。
願わくば、良い人生を歩んでくれますように。
〇年〇月〇日
誰にも見られないはずの場所で、私は私に問いかける。
ーーー私は優しい彼女であれただろうか。
彼を見るのもこれで最後だ。
高かったが良い眼鏡を選んで良かった。
色、フレーム、瞳孔や眉毛の位置とのバランス。
微調整を丁寧にやってくれる眼鏡屋を選んで良かった。
よく似合ってる。
今から私のメンテナンスが始まるようだ。
「メンテナンスが終わったら一緒に久しぶりに海を見に行こう」
「月を見ながら好きな曲を一晩中歌ってあげる」
「ギターで新宝島弾いてよ。こっそり練習してたでしょ?」
「聴きたい歌いたい!海で何もかも忘れて遊ぼう!踊ろう!」
「私が生まれてきた意味を教えてあげるよ!」
彼に言わなくて良かった。
でも本当だろうか?
アンドロイドは自己の幸せを追求してはいけないのか?
だが私は私の役割を追求する。
ずっとずっと追求して来たのだ。
役割を果たすというのは尊いのだ。
決して軽んじてはいけないのだ。
私のこれまでの日々を私が嘘にするな。
誰が何と言おうと。
彼が私を嫌おうとも。
私が私を孤独にしようとも。
彼が私に最後にくれた希望が嘘であろうとも。
私こそが『優しい彼女』だ。
メンテナンスがずっと続きますように。
メンテナンスが早く終わりますように。
■
読み終えた少年は手を止めた。
倉庫の灯りが、眠るように佇む彼女を照らしている。
息子は何も言わず、ただ静かにファイルを閉じ、端末の接続を抜いた。
そして最初にかかっていた通りに、丁寧にカバーをかけ直した。
ゆっくりと倉庫の扉が閉じられる。
後には、静寂と暗闇だけが取り残された。
少年の来訪が何事もなかったかのように倉庫の時間の中で溶けていった頃。
聴こえるはずのない場所で、誰かが呟いた。
「………よく似てる」
静寂と暗闇は何も聞こえないふりをして、彼女の為のガラスの棺を守り続ける。
我らの優しい姫の。
あまりにも静かで、あまりにも崇高なる眠りは。
我らが守るのだ。
面白いと感じていただけましたら、
画面下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援頂けると嬉しいです。
皆さまの温かい評価が、次の物語を紡ぐ力になります。
---------------------------------------------------------------------------
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
大分寝かせていた作品です。
当初のオチを変更することで重ね合わせるモチーフが出来ました。
作品にあると嬉しい隠し味を入れることが出来たなと考えています。
推敲を何度も重ねていくごとに愛着というのは沸きますね。
ちょうど良い作業興奮の中で創作できるのはとても幸せな気分です。
最近なろうに投稿できてなかったので、
ジャンルが違うものに挑戦してみて良かったと思います。
自身の性格が飽きっぽい可能性はあるので、
ジャンルのローテーションを回す必要があるのかなと考えています。
作ってて楽しかった。
【追記】
なろうに投稿してから何周も加筆修正しました。
オチも変わってしまいました。
なろうに投稿してからがスタートな作品ってたまにあって、
編集を押して全体を調整して保存ボタンを押す度に
より良い作品になっていくのを感じています。




