ごっこ
深夜二時四十七分。
静まり返った自室のデスクで、あなたはパソコンの画面に向かっていた。
画面に並んでいるのは、あなたが執筆中のホラー小説の文章だ。老若男女、誰が読んでも凍りつくような「絶対的な恐怖」を描こうと、あなたは数時間前から推敲を重ねていた。
物語の筋書きはこうだ。
――深夜、目を覚ました主人公の前に、顔のない黒い影が現れる。影は主人公の口から体内に侵入し、意識と体を乗っ取ってしまう。そして奪った肉体を使って部屋を出ていき、残された元々の肉体は、闇の中で次の犠牲者を待つバケモノに変貌してしまう……。
「……うん、悪くない」
あなたは満足げに息を吐き、キーボードを叩く手を止めた。
ゾクッとするような描写も決まった。人間の普遍的な恐怖――「自分が自分でなくなってしまう恐怖」や「日常が侵食される絶望」を見事に言語化できた手応えがあった。
コーヒーを一口飲み、疲れた目をこする。
その時、ふと違和感を覚えた。
エアコンの送風音が途切れ、部屋の温度が急激に下がっていく。肌を刺すような、冷水に浸されたかのような冷気。息を吸うと、胸の奥がキリキリと痛んだ。
(……おかしいな)
設定温度を変えた覚えはない。胸騒ぎを覚え、立ち上がろうとした瞬間、全身の筋肉が固まった。
いわゆる金縛りではない。動こうと思えば動く。しかし、脳の深い部分にある本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。——**「絶対に動くな。後ろを振り返るな」**と。
背後の暗闇。
そこだけ、周りの闇よりも「濃い」。
ミシ……と、足元のフローリングが沈む音がした。
ただの幻覚でも、気のせいでもない。明確な質量を持った「何か」が、あなたの背後に立っている。
室内に立ち込め始める異臭。古びた井戸の底のような、湿った土と腐敗したカビが混ざり合った匂い。
冷や汗が吹き出し、心臓が早鐘のように鳴り響く。
あなたはゆっくりと首だけを動かし、目の前のパソコン画面の黒い枠(反射する液晶)を見た。
そこに映っていたのは、あなたの背後に佇む黒い影だった。
背格好はあなたと同じくらい。しかし、首から上の部分だけが、水面に映る影のようにぐにゃりと歪んでいる。そして、その頭部には顔パーツがなく、ただ巨大な**「黒い空洞」**が開いていた。
(嘘だろ……?)
あなたは息をのんだ。
それは、あなたがたった今パソコンに打ち込んでいたホラー小説の怪物そのものだったからだ。
自分が書いた物語が現実になったのか? 自作の怪異に襲われるという、皮肉な怪奇現象なのか?
怪物はゆっくりと手を伸ばしてきた。冷たく湿った指があなたの首筋に触れ、そのまま顎を持ち上げる。強引に口をこじ開けられ、顎が外れそうな激痛が走る。抵抗する間もなく、細く冷たい指が喉の奥へと滑り込んできた。
「ッ……! ぐ……ッ!」
苦しくて息ができない。喉の奥を、食道を、何かがズルズルと這い降りていく。
体の内側から器官がひとつずつ冷やされ、侵食されていくのが分かる。心臓の鼓動が、自分のものではない「別のリズム」に上書きされていく。
指先から感覚が消えていく。意識が急速に冷えていく体の奥底へと引きずり下ろされていく。
『あたたかい。ここは、とてもあたたかい』
頭骨の内側で、老若男女の無数の声が重なって響く。
ああ、自分は乗っ取られるのだ。自分が書いたストーリー通りに、肉体を奪われ、存在を消されるのだ——。
あなたは絶望の中で目を閉じた。
……だが。
数分が経過しても、決定的な終わりは訪れなかった。
体の侵食は、胸のあたりでピタリと止まっている。
喉の奥に冷たい怪物が詰まったまま、意識も途切れず、身体の感覚も完全には消えない。中途半端な痛みに耐えながら、あなたは困惑して目を開けた。
あなたの体を乗っ取ろうとしていた「それ」が、ぴくぐりと蠢き、喉の奥から戸惑ったような声を漏らした。
『……あれ?』
声は、先ほどまでの威圧感を失い、どこか不格好に震えていた。
『おかしいな……入れない。これ以上、奥に行けない……?』
怪物は必死にあなたの体内に潜り込もうと這い進もうとするが、胸の奥で目に見えない壁にぶち当たったかのように、ズズ……と押し戻されてしまう。
『な、なんだこれは……!? この肉体には、もう「先客」がいる……!?』
怪物の悲鳴のような声が、あなたの脳内に直接響いた。
あなた自身も、何が起きているのか分からなかった。先客? 自分の体に?
その時、あなたの記憶の引き出しが、カチリと音を立てて開いた。
そういえば——。
三年前の夏。旅行先の古い神社で、恐ろしい体験をしたことがあった。
夜の境内を踏み外したとき、闇の中から現れた「何か」に襲われ、喉から体内に入り込まれたのだ。あの時も全身が冷たくなり、意識が遠のきかけた。
しかし、当時のあなたには何の害も起きなかった。ただ数日間、風邪のような不快感があっただけで、いつの間にか元通りの日常に戻っていたのだ。だからすっかり忘れていた。
そう、三年前の時点で、あなたの体はすでに別の「ナニカ」に完全に乗っ取られていたのだ。
当時の「それ」はあまりにも完璧にあなたに成り代わったため、自分が化け物であることすら忘れ、人間の「あなた」として生活し、仕事を始め、趣味でホラー小説などを書きながら、今日まで穏やかに生き続けてしまっていたのだ。
本物の「あなた」の意識など、三年前の夏にとうに消滅していた。
今、自分だと思っているこの意識こそが、三年前に成功した侵略者だったのだ。
『バカな……! 追い出せない……! 理由が……自我が固すぎる……っ!』
喉の奥に挟まった新しい怪物が、苦しそうにのたうち回る。
何年間も人間として暮らし、喜怒哀楽を感じ、美味しいものを食べ、小説を書いて「人間になりきっていた」先客の存在感は、あまりにも強大すぎた。後から来た怪物の侵食など、蚊に刺された程度の影響しかなかったのだ。
あなたは、喉の奥の違和感をぐっとこらえると、ゴクンと唾を飲み込んだ。
「う……ぐっ」
力任せに喉の筋肉を動かし、侵入しかけていた怪物を、そのまま胃の奥へと押し込み、消化するように飲み干してしまった。
「……ハァ、ハァ……っ」
部屋に静寂が戻る。
冷気は去り、エアコンの送風音が再び耳に届くようになった。
あなたはデスクに手をつき、荒い息を整えた。
胸の奥で、喉から飲み込まれた新しい怪物が「出せ! ここから出せ!」と惨めな悲鳴を上げているのが微かに感じられたが、それもじきに消えていくだろう。
あなたはゆっくりと顔を上げ、パソコンの画面を見つめた。
画面には、自分が書いていたホラー小説。
「怪物が人間に成り代わり、日常に溶け込んでいく」というストーリー。
あなたは自嘲気味に、フッと鼻で笑った。
「なんだ……全部、自分の体験談だったんじゃないか」
キーボードに手を置き、あなたは「それ」を倒した人間としてではなく、**「先手を打って人間を奪い取っていた怪異」**の余裕を持って、小説の最後の行をこう書き換えた。
――『人間を恐怖させようなどと、100年早い』と。
カタカタと軽快なタイピング音が、夜の自室に虚しく響き続けていた。




