前世で婚約者に108つにバラバラに解体され、心臓を抉り取られて男の助手に捧げられた俺。回帰した二周目の人生では、あいつらを残さず地獄へ叩き落としてやる
「この心臓は、必ず悠斗の身体に入れて。角膜も無駄にしないで、売れるなら売って。腸なんて使い道ないでしょ、悠斗の好きなあの犬にでも食べさせればいい。遺体は細かく処理して、誰にも分からないようにして」
婚約披露の日、梨奈は俺に「サプライズがある」と言った。彼女から渡された酒を飲んだあと、俺の意識はすぐに途切れた。次に目を開けたとき、俺は廃業した診療所の手術台に寝かされていた。胸は裂かれ、冷たい金属の縁を、血がゆっくりと流れていた。
隣の手術台には、先天性の心臓病を抱えた梨奈の年下助手、春日悠斗が横たわっていた。悠斗は目を閉じ、青白い顔をして、胸元はすでに剃られていた。相沢梨奈は俺が贈った白いワンピースを着たまま、手術台のそばに立っていた。その声は、まるで贈り物を選ぶみたいに優しかった。
俺の遺体は、埼玉県北部の廃倉庫で三日間放置されたあと、巡回中の警官に発見された。倉庫からは百八個に切り分けられた肉片が見つかり、法医学者が一日がかりでつなぎ合わせて、ようやくそれが俺だと確認した。葬儀の日、梨奈は母よりも激しく泣き、俺の遺影を抱いたまま、立っていられないほど崩れ落ちていた。
「亮介がいないなら、私も生きていたくない」
悠斗は梨奈の肩を抱いていた。その胸の奥では、俺の心臓が動いている。けれど顔には、深い悲しみに耐えているような表情を貼りつけていた。
「梨奈さん、亮介さんは天国で見ています。ちゃんと生きてください」
誰もが二人に騙された。二人は深く愛し合い、俺はわけも分からず死んだのだと信じていた。けれど俺は、すべてを知っていた。俺は戻ってきたのだ。
婚約披露の前日の夜へ。
1
森下家の建材卸会社の前には、車がびっしりと停まっていた。婚約披露に招かれた親戚、友人、そして地元の商工会や取引先の顔ぶれが次々と宴会場へ入っていく。父はこの日のために、町で一番大きな料亭の座敷を押さえ、酒も手土産も前もって用意していた。
畳敷きの大広間には三つの長テーブルが並び、席はほとんど埋まっていた。誰もが、今日を境に森下家と相沢家の関係はさらに強くなると思っていた。俺の隣には梨奈が座っている。赤いワンピースを着て、首元には先月俺が贈った金のネックレスが光っていた。
けれど梨奈は、席についてからほとんど俺を見なかった。彼女の視線は、ずっと反対側に座る春日悠斗へ向けられていた。悠斗は白いシャツを着て、髪をきっちり整えている。三か月前、梨奈が市内のバーで知り合い、その後、相沢家具製作所に入れた年下の男だった。
向かいに座っていた母が、黙ったままの俺を見かねて小声で言った。
「亮介、何をぼんやりしているの。梨奈さんに料理を取ってあげなさい」
俺は取り箸を手に取り、焼き魚の腹身を梨奈の皿に置いた。小骨まで丁寧に取り除いたが、梨奈はそれをちらりと見ただけで、箸をつけなかった。代わりに、テーブルの中央に置かれた手ごねハンバーグを指先で示し、視線だけは悠斗から離さなかった。
「悠斗、あのハンバーグ食べたい。でも大きくて取りにくいの」
悠斗はすぐに立ち上がり、皿の中で一番大きなハンバーグを取って自分の小皿に移した。彼はそれを少しだけかじり、味見をするように口を動かしてから、梨奈に向かって笑った。その笑い方はあまりにも自然で、前世の手術台の横でも、彼が同じ顔で梨奈に笑っていたことを思い出した。
「梨奈さん、これ美味しいですよ。ソースもしっかり染みています。はい、ひと口どうぞ」
そう言って悠斗は、自分が使っていた箸で、かじりかけのハンバーグを梨奈の口元へ運んだ。梨奈はためらいもなく口を開け、それを食べた。座敷の空気が一瞬で凍りつく。叔母の箸がテーブルに落ち、乾いた音を立てた。
梨奈の母親がすぐに笑って場を取り繕った。若い子たちは冗談が過ぎる、仲がいいだけだと、何とかその場を流そうとしている。けれど父の顔はすでに険しく、近くに座っていた取引先たちも、気まずそうに視線をそらしていた。
「若い子のじゃれ合いですよ。仲がいいんです、本当に」
悠斗は何も見えていないふりをして、残ったハンバーグをまた梨奈の口元へ差し出した。梨奈はもう一口食べ、わざとらしく笑った。まるで二人の間には何も後ろめたいことがないと、俺に見せつけているようだった。
「本当に美味しい。悠斗って、こういうの選ぶの上手いよね」
俺は箸を置いた。梨奈はそこでようやく俺を見た。眉をひそめ、俺の顔に浮かんだ冷たさこそが、この場の空気を壊した原因だと言わんばかりだった。
「森下亮介、何その顔」
俺は彼女を見つめ、静かに言った。
「俺は、取り箸を使った」
梨奈の顔色が変わった。まるで俺が人前で彼女を侮辱したかのように、声が一気に鋭くなる。悠斗は慌てて箸を置き、傷ついたような顔をして、梨奈が爆発する前に口を挟んだ。
「どういう意味? ただ料理を食べただけでしょ。悠斗は弟みたいなものなのに、そんなふうに見るなんて最低」
「亮介さん、誤解しないでください。俺、美味しかったから梨奈さんにも食べてほしかっただけなんです。本当に、そんなつもりじゃありませんでした。すみません」
その顔は、まるで被害者そのものだった。座敷中の視線が俺たちに集まる。母が立ち上がり、その声にははっきりと不快感がにじんでいた。今日は俺と梨奈の婚約披露だ。梨奈がわがままを言うのはまだいい。けれど両家の親族と取引先の前で、婚約者の面子を踏みにじっていい理由にはならなかった。
「梨奈さん、今日はあなたと亮介の婚約披露なのよ。少しは立場を考えなさい」
梨奈も立ち上がった。目元はすぐに赤くなり、母を見て、次に自分の父を見た。まるで全員が自分を責めているかのような顔だった。相沢社長が娘の袖を引き、少し落ち着けと言ったが、梨奈はそれさえも自分への攻撃として受け取った。
「お義母さん、その言い方はひどいです。私が弟みたいに思ってる子と少し仲良くしただけで、何が悪いんですか? 亮介はいつも仏頂面で、気の利いたことも言えないし、私を楽しませることもできない。私が誰かと笑うことも許されないんですか?」
「お父さんまで私が悪いって言うの? 私が弟みたいな子の料理をひと口食べたくらいで、何がいけないの? 森下亮介、今日こそはっきり言って。私のどこが悪いの?」
俺は梨奈の目をじっと見ていた。その瞬間、前世の廃診療所が脳裏に浮かんだ。手術台のそばに立っていた彼女も、同じように正しい顔をして俺を見ていた。亮介、あなたは身体が丈夫なんだから、心臓は悠斗にぴったりでしょう。あなたは私を愛しているんだから、怒るはずないわ。そう言っていた。
胸の奥が、もう一度裂かれたように痛んだ。けれど今回は、怒鳴らなかった。問い詰めもしなかった。ただ立ち上がり、座敷にいる人たちへ軽く頭を下げた。
「皆さん、申し訳ありません。今日の食事代は森下家が払います。どうかこのまま、ただの会食だと思って楽しんでください」
そう言って俺は上着を手に取り、出口へ向かった。背後で梨奈が叫んでいた。戻ってこい、今日この部屋を出たら二度と相手にしない、と。きっと彼女は、俺がいつものように足を止め、振り返り、謝り、すべての非を自分で背負うと思っていたのだろう。
俺は振り返らなかった。
その夜、梨奈は家に帰らなかった。彼女が悠斗の借りているアパートに泊まったことは、あとからSNSの投稿で知った。写真の中で、梨奈は悠斗のシャツを着て、ソファの前に座り、カップ麺を食べていた。テーブルにはコンビニで買った唐揚げと缶ビールが置かれ、背景には男物のスリッパと乱れた布団が映り込んでいた。
添えられていた言葉は、たった一文だった。やっぱり弟みたいな子のほうが、ちゃんと私を分かってくれる。俺は梨奈に十数回電話をかけたが、彼女は一度も出なかった。午前二時、彼女からメッセージが届いた。料理ひと口で騒ぐなんて情けない、今回ばかりは俺が頭を下げるまで許さない、と。
そのあと、梨奈は俺をブロックした。喧嘩のたびに繰り返されてきたことだった。彼女はいつも、ブロックして、泣いて、もう話したくないと言えば、俺が自分から折れると思っていた。けれど今回、俺は暗くなっていくスマホの画面を見ていただけだった。
電話はかけ直さなかった。
言い訳もしなかった。
2
一週間後、相沢社長の六十歳の誕生日祝いが、相沢家具製作所の敷地内で開かれた。両親は俺に、顔だけでも出しておけと言った。婚約が正式に解消されたわけではないし、両家は長年の取引先でもある。面子だけは保っておいたほうがいい、ということだった。
俺は反論しなかった。高級日本酒を一本用意し、祝い金として五万円も包んだ。礼儀は礼儀だ。どれだけ心が冷めても、こちらが先に筋を曲げる必要はなかった。
相沢家具製作所の庭には、すでに十卓ほどの席が並んでいた。従業員、親戚、地元の商工会の人間が集まっている。相沢社長は主賓席に座り、その隣に梨奈がいた。悠斗も当然のようにそこにいて、新しいポロシャツの袖をわざとまくり、小さな刺青の入った腕を見せながら、梨奈のために海老の殻をむいていた。
俺は贈り物を差し出し、礼儀だけは崩さず言った。
「相沢社長、お誕生日おめでとうございます」
相沢社長は受け取ったものの、中身を見ることもなく横へ置いた。そして悠斗の肩を叩き、俺に酒を注ぐよう促した。悠斗はすぐに立ち上がり、俺の杯へ日本酒をなみなみと注いだ。その態度は丁寧で、まるで本当に反省しているように見えた。
「亮介さん、どうぞ。婚約披露のときのことは、俺が配慮できなかったせいです。まだ若くて、ちゃんとできなくて……本当にすみません」
俺は彼を見たまま、杯を取らなかった。梨奈が横からそれを奪い、一気に飲み干した。彼女は父親のほうを向き、悠斗が今日どれほど相沢家に貢献したかを誇らしげに話し始めた。
「亮介が飲まないなら、私が飲む。お父さん、今日の悠斗、本当にすごかったのよ。市内の長谷川社長との話、悠斗がつないでくれたの」
相沢社長の目が輝いた。悠斗は控えめに笑い、自分はただ知り合いが多いだけだと言った。梨奈はそのまま悠斗の腕に絡みつき、父に向かって、悠斗は実の息子より頼りになるでしょう、と笑った。
「いえ、俺なんて大したことしてません。知り合いが少し多いだけです」
「ねえお父さん、悠斗って本当の息子より気が利くと思わない?」
相沢社長は大声で笑った。俺はその場に立ったまま、まるで招かれざる客のようだった。最後に、製作所の古参の経理担当である藤井さんが俺を席に引いてくれた。彼は俺の小さい頃からを知っている人で、森下家と相沢家の関係もよく分かっている。その顔には、隠しきれない気まずさがあった。
「亮介、あまり気にするな。梨奈ちゃんは……まあ、困ったものだな」
俺は首を振るだけで、何も言わなかった。酒が回り始めたころ、悠斗が杯を持って俺のほうへ歩いてきた。足元はふらつき、酔っているように見える。彼が俺のそばへ来た瞬間、杯の中身が丸ごと俺の上着にこぼれた。
「うわっ、亮介さん、すみません。拭きます、すぐ拭きます。これ、高い服ですよね。何万円もするやつですよね。弁償します、絶対に弁償しますから」
悠斗は油のついた袖で、慌てて俺の上着を拭こうとした。梨奈が近づいてきて、その手をつかんで止めた。彼女は俺の上着を見ることもなく、悠斗の手ばかりを気にしていた。まるで酒で火傷でもしたのではないかと心配しているようだった。
「もういいよ、悠斗。拭かなくていい。亮介は服なんていくらでも持ってるんだから。あなたと違って、苦労してお金を稼いでるわけじゃないし」
そう言って、梨奈は悠斗を連れて行った。俺は上着についた染みを見下ろした。その上着は、去年の誕生日に梨奈がくれたものだった。亮介はいつも配達の人みたいな格好をしてるから、商談のときくらいちゃんとした服を着て、と彼女は笑っていた。
今、その「ちゃんとした服」には、彼女の大切な弟分の油の手形がついている。藤井さんが俺の肩を軽く叩き、洗ってくるといい、と言った。俺は席を立ち、製作所の奥にある洗面所へ向かった。
厨房の裏窓の前を通ったとき、中から梨奈の声が聞こえた。彼女は笑っていた。軽やかで、残酷な笑い方だった。俺を人前で放置したことが、よほど面白かったらしい。
「悠斗、さっきの亮介の顔、見た? 笑っちゃうよね。森下家が建材を入れてくれて、支払いサイトも延ばしてくれるから付き合ってるだけなのに。じゃなかったら、あんな木偶の坊、相手にするわけないでしょ。やっぱり悠斗のほうがいい。話も分かるし、気も利くし」
悠斗の声はやわらかかった。俺の味方をしているようで、実際には梨奈の軽蔑をさらに深くしているだけだった。彼は、俺との婚約はどうするのかと尋ねた。梨奈の答えは、まるでいつでも捨てられる契約の話をしているように軽かった。
「梨奈さん、そんなふうに言わないでください。亮介さんだって、悪い人じゃないと思います。それで……亮介さんとの結婚はどうするんですか?」
「しばらく引っ張るに決まってるでしょ。森下家は取引を切れないわ。切ったらうちの製作所も困るけど、森下家だって売上が減る。もっといい相手を見つけたら、そのときは私から捨ててやる」
俺は窓の外で、ゆっくり拳を握りしめた。裏庭を抜ける風は、春先の夜とは思えないほど冷たかった。そのとき、ようやくはっきり理解した。梨奈にとって俺は婚約者でも恋人でもない。都合よく利用でき、不要になれば切り捨てられる、ただの納品ルートだった。
3
家に戻ってから、俺はベッドの下にしまっていたブリキの箱を取り出した。中には、梨奈との思い出が詰まっていた。映画の半券、遊園地のチケット、そして彼女が初めてアルバイト代で買ってくれた偽物の金のネックレス。十九歳のころ、梨奈は駅前のスイーツ店で働き、その少ない給料でそれを買ってくれた。
あのとき彼女は、小さな箱を俺に差し出して、これは純金だよ、と得意そうに笑った。いつかお金持ちになったら、本物に替えてあげるね、と。俺はそれが偽物だと知っていた。せいぜい数千円のメッキで、仕上げも粗かった。それでも俺は、三年間ずっと身につけ、風呂に入るときでさえ外せなかった。
箱の中には一枚の写真もあった。梨奈が俺のバイクの後ろに座り、俺の腰に腕を回して、目を細めて笑っている。あの日、俺は彼女を町まで映画に連れて行った。帰り道で雨が降り、コンビニの軒下で雨宿りをしながら、彼女がスマホで撮った写真だった。
彼女はあのとき、俺のバイクの後ろはどんな高級車より楽しいと言った。けれど今の梨奈は、悠斗が借りたBMWの助手席に座り、SNSに「やっぱり四輪は楽」と投稿している。俺はブリキの箱にふたをし、もう一度ベッドの下へ押し込んだ。
そのときスマホが鳴った。梨奈からのメッセージだった。彼女は俺のブロックを解除し、ここ数日なぜ製作所に来て帳簿を見ないのか、もう取引する気がないのか、と責めてきた。俺が明日行くと返すと、すぐに次の文面が届いた。悠斗が数日うちに泊まることになったから、俺が事務所に置いていた新しい洗面用具を使わせてもいいか、という内容だった。
「うん」
俺はそれだけ返した。
翌日、俺は相沢家具製作所へ向かった。藤井さんは俺を見るなり、少し気まずそうな顔をして、梨奈は事務所にいると言った。俺はうなずき、奥の事務所へ向かった。扉は少し開いていて、中から梨奈の苛立った声が漏れていた。
「もう、薬もまともに塗れないの? もっと優しくして。そういえば、頼んでおいたあの伝票、直してくれた?」
悠斗は声を低くしていたが、それでも十分聞こえた。彼は、すでに処理したと言った。一級品の材料を二級品にすり替え、差額を二人で分ける。森下家は出荷量が多いから、一つひとつのロットまで覚えていない。長谷川社長も初めての取引だから気づかない。そう説明していた。
「大丈夫です、梨奈さん。もう直してあります。一級品を二級品に替えて、差額は二人で半分ずつ。森下家は出荷量が多いから、細かいロットなんて覚えていません。長谷川社長も初めての取引ですし、分かりませんよ」
梨奈は笑った。頭がいいね、と悠斗を褒め、十分にお金が貯まったら市内に店を出そう、こんな田舎は出て行こうと言った。俺は扉を押し開けた。事務所の空気が一瞬で止まる。
「賢い。お金が貯まったら、二人で市内に店を出そう。こんな町、いつまでもいる場所じゃないし」
梨奈は机の端に腰かけ、スカートを太ももまでめくり上げていた。悠斗はその前に立ち、薬を手に、彼女の膝に塗っているところだった。けれど梨奈の膝には、傷ひとつなかった。
俺を見た瞬間、二人の顔色が変わった。先に反応したのは悠斗だった。彼は一歩下がり、梨奈がさっき転んだから薬を塗っていただけだと言い訳した。梨奈は慌ててスカートを直し、なぜノックもしないのかと俺を責めた。
「亮介さん、来てたんですか。梨奈さんがさっき転んだので、薬を塗っていただけです」
「どうしてノックしないの?」
俺は悠斗の手にある薬を見た。それは、前に俺がここへ置いていったものだった。俺は梨奈へ視線を戻し、伝票のことを尋ねた。梨奈の顔がこわばる。何の伝票か、盗み聞きしていたのか、と彼女は逆に俺を責めた。
「伝票の件はどういうことだ」
「何の伝票? 森下亮介、あなた、盗み聞きしてたの?」
俺は梨奈の目を見た。
「一級品を二級品にすり替えて、長谷川社長に納品するつもりか。あの品には森下家の名前が入っている。問題が起きれば、潰れるのはうちの信用だ」
梨奈は一瞬黙ったあと、鼻で笑った。机から立ち上がり、こちらへ向ける声はどんどん強くなる。彼女は材料を替えたことを認めた。数十万円浮くことも、その金を分ければいいとまで言った。だがそれを悪いことだとは、まったく思っていなかった。
「何よ、説教しに来たの? そうよ、替えたわ。それが何? 長谷川社長には分からないし、数十万円も浮くのよ。あなたにも半分あげればいいんでしょ?」
「これは信用の問題だ」
「信用? お金のほうが現実でしょ。綺麗事ばかり言わないで。商売してる人間で、差額を取らない人なんているの? 森下家だけは潔白だって言うつもり?」
悠斗がすぐに前へ出た。誠実そうな表情で、全部自分の提案だったと言い始める。俺を責めるなら自分を責めてほしい、梨奈はただ将来の結婚資金を増やしたかっただけなのだ、と。
「亮介さん、この件は俺が悪いんです。俺が梨奈さんに提案しました。責めるなら俺を責めてください。梨奈さんは、あなたたちの結婚に使うお金を増やしたかっただけなんです」
俺は梨奈を見た。急にすべてが馬鹿らしくなった。
「結婚? まだ俺と結婚するつもりだったのか」
梨奈は一瞬言葉に詰まり、すぐに顎を上げた。あんたこそ結婚したくないのか、と言い返す。悠斗は慌てて二人の間に入り、たかが一ロットの話だ、梨奈は家のために少しでも節約したかっただけだ、と取りなした。
「何? あなたこそ、もう結婚したくないってこと?」
「亮介さん、梨奈さん、落ち着いてください。ただ一回の納品の話じゃないですか。梨奈さんだって、家のためにお金を残したかっただけなんです。森下家ほどの会社なら、これくらいで大事にしなくてもいいでしょう」
俺は悠斗を見据えた。
「これくらい? 品質を偽れば、森下家の看板に傷がつく。長谷川社長は市内の大口取引先だ。そこに知られたら、誰が今後うちを信用する?」
梨奈は面倒くさそうに手を振った。分かった、もう戻せばいいんでしょ、と言いながら、彼女は悠斗へ目配せをした。悠斗はすぐに、あの荷は昨日すでに出荷した、今から戻すなら運送費はこちら持ちになるし、長谷川社長にも説明しなければならない、と言った。
「はいはい、あなたが正しいです。戻せばいいんでしょ? あの荷を戻せば満足?」
「梨奈さん、あれは昨日もう出荷しました。今から戻すなら運送費はこちら持ちになりますし、長谷川社長に説明しなきゃいけません。かえって面倒になりますよ」
二人の芝居じみたやり取りを見ているうちに、俺の中に残っていた最後の温度が、ゆっくり消えていった。
4
俺は梨奈に、この件は長谷川社長へきちんと説明すべきだと言った。梨奈は一気に怒り出した。彼女は、俺がこの程度のことにこだわりすぎだと言い、もう次からやらないと言ったのに、まだ何が不満なのかと責めた。まさか土下座すれば満足なのか、とまで言った。
「相沢梨奈、この件は長谷川社長にきちんと説明しろ」
「説明って何? 森下亮介、あなた、どうしてそんなにしつこいの? もう次からやらないって言ったでしょ。それでも足りないの? 私が土下座すれば満足なわけ?」
悠斗がまた近づいてきた。声はやわらかく、甘えるようだった。彼は梨奈は気が強いだけで、本当は俺のためを思っているのだと言った。さらに、自分の取り分はいらないから、その分を長谷川社長へのお詫びにしてほしいと続けた。
「亮介さん、本当に怒らないでください。梨奈さんは口がきついだけで、本当はあなたのためを思ってるんです。こうしましょう。差額の俺の分は要りません。全部、長谷川社長へのお詫びにしてください」
俺は彼を一瞥した。
「黙れ」
悠斗は肩をすくめ、梨奈の後ろへ隠れた。それを見た梨奈はさらに怒り、彼をかばうように前へ出た。あの荷を替えたのは自分で、金を取ったのも自分だ。文句があるなら警察に通報すればいい、と彼女は言った。
「悠斗に怒鳴らないで。言いたいことがあるなら私に言いなさい。あの荷を替えたのは私よ。お金を取ったのも私。どうしたいの? 警察に通報でもすれば?」
梨奈は一歩近づき、俺の目の前に立った。
「森下亮介、よく分かった。あなたの目にあるのはお金だけ。森下家の商売だけ。私は何年もあなたと一緒にいたのに、一ロットの材料にも勝てないのね。今日ここではっきりさせるわ。この件をなかったことにして今までどおりにするか、それとも……」
悠斗が急に梨奈の腕をつかんだ。泣きそうな声で、俺に頭を下げてほしい、梨奈は意地を張っているだけで、心では俺のことを思っているのだと訴える。彼がそう言えば言うほど、梨奈の感情はさらに煽られていった。
「梨奈さん、やめてください。俺のために、そこまでしなくていいです。亮介さん、お願いします。少しだけ折れてあげてください。梨奈さんは意地を張ってるだけです。本当はあなたのことを思ってるんです」
梨奈は悠斗の手を振り払い、スマホを取り出した。指先は怒りで震えている。彼女は配信アプリを開き、勢いよく画面を押していた。俺は彼女を見て、何をするつもりかと尋ねた。
「相沢梨奈、何をする気だ」
「説明が欲しいんでしょ? なら、みんなに判断してもらう。地元のみんなに、どっちが悪いか見てもらえばいい」
ライブ配信が始まった。
画面が揺れ、俺と、怒りに顔を歪めた梨奈の姿が映り込む。彼女はカメラに向かって叫んだ。これが私の婚約者だ、数十万円の材料差額のために私を人前で責め立てている、と。相沢家と森下家は何年も取引してきたのに、俺は平気で関係を切ろうとしている、と。
「みんな見て。これが私の婚約者、森下亮介です。たった数十万円の材料差額で、私を人前で責め立てています。相沢家と森下家は何年も取引してきたのに、この人は簡単に切り捨てようとしているんです」
配信にはすぐ人が入ってきた。最初は町の知り合いや、相沢家具製作所の従業員たちだった。コメント欄はみるみる流れていく。梨奈どうしたの、亮介もいるの、婚約破棄の生配信か、という文字が次々に並んだ。
悠斗は画面の外で、家の恥を晒すのはやめようと止めていた。梨奈はそれを無視し、カメラを俺へ向ける。彼女は、俺がどれほど冷たい人間なのか、みんなに見せたいのだと言った。そして、俺に向かって、材料の件で別れるつもりなのか、この場で答えろと迫った。
「梨奈さん、やめましょう。家の恥を配信で晒すなんて……」
「何が家の恥よ。私はみんなに見てほしいの。森下亮介がどんな人間か。森下亮介、何か言いなさいよ。みんなの前ではっきり言って。あなたはあの材料の件で、私と別れるつもりなの?」
俺は何も言わなかった。
コメント欄はさらに盛り上がった。梨奈をなだめる者もいれば、俺に何か言えと煽る者もいた。悠斗がなぜ事務所にいるのかと疑問を投げるコメントもあった。梨奈はそれを見ながら、突然笑った。独り言のようでいて、配信の向こう側にいる全員へ聞かせるような声だった。
「別れる? この人にそんな度胸あるわけないでしょ。私は相沢梨奈よ。何年もこの人と一緒にいて、一番いい時期をあげたの。なのに今さら、お金のために私と揉めるっていうの? いいわ。森下亮介、説明が欲しいなら、今日ここでみんなに証人になってもらう」
梨奈は手を伸ばし、悠斗をカメラの前へ引っ張り出した。
「この配信が一万いいねを超えたら、私は森下亮介と終わりにする。そして明日、悠斗と市役所へ婚姻届を出します。私は本気です」
配信は一瞬静まり返り、次の瞬間、爆発した。視聴者数は一気に増え、コメント欄は読めないほど流れていく。スクリーンショットを撮る者、録画する者、本当にやれ、市役所へ行け、森下の顔が見たいと煽る者。梨奈は俺をまっすぐ見ていた。俺が崩れる瞬間を待っている顔だった。
「見てなさい、森下亮介。こうなったのはあなたが私を追い詰めたからよ。今ならまだ、謝れば許してあげる」
俺はその場に立ったまま、悠斗が梨奈の肩を抱く手を見ていた。梨奈がその腕に寄りかかる姿を見ていた。胸の奥でまだ熱を持っていた場所が、配信のいいね数が増えるたび、少しずつ冷えていく。俺は机の上の帳簿を手に取り、梨奈へ告げた。
「帳簿は持っていく。今日限りで、森下家は相沢家具製作所との取引を停止する。未払い分は三日以内に精算してもらう」
梨奈は悠斗を振りほどき、俺の前へ飛び出した。取引を止めるなら、森下家の建材会社をこの地域でやっていけないようにしてやると叫んだ。俺はその顔を見ながら、目の前の女が心底知らない人間に見えた。
「やってみなさいよ。森下亮介、取引を止めたら、あなたの会社をこの町でやっていけなくしてやる」
「好きにしろ」
俺は背を向けた。背後では梨奈が、俺は必ず後悔する、きっと戻ってきて自分にすがると叫んでいた。俺は足を止めなかった。彼女の声も、配信の騒ぎも、全部背中の向こうへ置いていった。
5
相沢家具製作所を出たとき、空はすでに暗くなっていた。背後にはまだ梨奈の怒鳴り声と、配信のざわめきが残っているようだった。俺は家に戻らず、駅前にある馴染みの小さな食堂へ行った。店主は中学の同級生で、俺の顔を見ると何も聞かず、テレビの音量だけを少し上げた。
店内には数組の客がいて、皆スマホを見ていた。すぐに、誰かのスマホから梨奈の配信音声が漏れてきた。彼女はカメラの前で、いいねを押して、数字が一万になったらすぐに新しい相手を選ぶ、森下亮介がいなくても自分はもっと幸せになれると叫んでいた。
「みんな、いいね押して。一万になったら、私はすぐに相手を替える。森下亮介なんかいなくても、相沢梨奈はもっと幸せになれるって見せてあげる」
客たちが目配せし、こっそり俺のほうを見た。俺は黙って料理を食べ、酒を飲んだ。スマホは震え続けている。友人、親戚、取引先から、配信リンクやスクリーンショットが次々と届いたが、俺はどれも開かなかった。
ビールを半分ほど飲んだところで、俺はスマホを手に取り、その配信アプリを入れた。アカウントを新しく作り、相沢梨奈の名前を検索する。彼女の配信を開くと、そこには濃い化粧をした梨奈と、その肩を抱く悠斗が映っていた。
梨奈の目は少し赤かったが、笑い声は大きかった。悠斗はカメラに向かって手を振り、まるで祝賀会にでも参加しているようだった。いいねの数は狂ったように増えている。コメント欄には、煽りと野次と、二人に婚姻届を出せと囃す文字が流れていた。
梨奈はいいね数を見つめていた。笑顔は少し固くなっていたが、それでもまだ強がっている。
「ありがとうございます。今夜、本当に私の味方がどれだけいるのか、見せてもらいます」
九千五百、九千七百、九千九百。いいねの伸びが急に鈍くなった。画面には、本当に一万になったら入籍するのか、森下家は本気で取引を止めるんじゃないか、もうやめたほうがいい、というコメントが混じり始めた。
梨奈の顔に焦りが浮かんだ。彼女は悠斗を小突き、何か言ってと促した。悠斗はカメラに顔を近づけ、ぎこちなく笑った。彼は視聴者たちに感謝し、自分と梨奈は本当に互いを思い合っているのだと言った。
「皆さん、本当にありがとうございます。俺と梨奈さんは、本当に支え合っているんです。大事にできない人もいるけど、俺は分かっています」
九千九百五十、九千九百八十、九千九百九十九。
数字はそこで止まった。配信にはまだ数千人が残っているのに、誰も押さない。コメント欄も少し静かになり、全員が次の一つを待っていた。梨奈の顔はすっかり青ざめ、さっきまでの威勢は消えていた。
「あと一つなの。誰か、お願い。あと一つだけ」
悠斗が自分のスマホを取り出し、小さく、自分の別アカウントで押そうかと尋ねた。梨奈は鋭く叫んだ。自分たちで押したら意味がない、他人に押してもらわなければ、認められたことにならない。そう言ってから、彼女はようやく俺を思い出したように、カメラへ向かって俺の名前を呼んだ。
「梨奈さん、俺の別アカで押します」
「だめ! 自分で押したら意味がないの。他の人に押してもらわなきゃ。認めてもらわなきゃ意味がないの」
「森下亮介、見てるんでしょ。満足? 今出てきて謝るなら、まだ許してあげる」
店内にいた全員が、俺を見た。俺は箸を置き、スマホを手に取った。そして、止まっていた「9999」の上で、静かに指を動かした。
10000。
俺は一言だけ打った。
「おめでとう」
6
コメント欄が一瞬で爆発した。誰が最後のいいねを押したのか、梨奈は約束どおり明日婚姻届を出すのか、そんな文字が怒濤のように流れていく。梨奈は画面に表示された「10000」を呆然と見つめていた。自分で退路を塞いだことに、その瞬間ようやく気づいたようだった。
彼女はスマホをつかみ直し、コメント欄を必死に遡った。声は鋭く震えていた。誰が押したのか、出てこい、森下亮介なのか、と叫ぶ。その顔は、さっきまでの勝ち誇った表情とはまるで違っていた。
「誰? 今、誰が押したの? 出てきなさいよ。森下亮介、あなたなの? あなたなんでしょ! 最低、最低よ。あなたが……あなたが私を……」
梨奈は言葉を続けられず、その場に崩れ落ちた。スマホが床に落ち、カメラは斜めになって、慌てる悠斗の横顔だけを映した。悠斗が彼女を支えようとすると、梨奈はその手を払いのけた。自分が掘った穴に落ちたことを、ようやく理解したのだ。
「出て行って! みんな出て行って!」
俺は配信を閉じ、アプリを削除した。食堂は静まり返っていた。店主が新しいビールを一本置き、何も言わず俺の肩を軽く叩いた。俺はそれを一口飲んだ。苦い酒だった。けれど前世で死ぬ前に味わった血の匂いよりは、ずっとましだった。
スマホがまた震えた。梨奈からの電話だった。俺は切った。すぐにまた鳴る。俺はまた切った。その夜、梨奈は二十七回電話をかけてきたが、俺は一度も出なかった。
最後に、彼女からメッセージが届いた。
「森下亮介、あなたを一生恨む」
俺はその文字をしばらく眺め、それから短く返した。
「そうか」
そして、彼女が泣きつき、呪い、すがるために使える最後の連絡手段もブロックした。食堂を出ると、町の街灯が点いていた。黄色い光が俺の影を長く引き伸ばし、空っぽの通りを冷たい風が抜けていく。
全部、終わった。
最後のいいねを押したのは俺だった。
そして、二十年近く続いた関係に終止符を打ったのも、俺だった。
7
一週間後、相沢家具製作所は大きな問題を起こした。森下家が取引を止めたことで、生産ラインはすぐに止まった。長谷川社長へ納めた材料のすり替えも発覚し、返品と損害賠償を求められたうえ、地元の商工会グループでも、今後相沢家とは取引しないと公言された。
さらに悪いことに、従業員の給料は三か月分も滞っていた。これまでは森下家の支払いサイトに甘えて、何とか穴を隠してきただけだったのだ。取引が切れ、返品が出て、売掛の穴が一気に表へ出た。
従業員たちは製作所の前に集まり、未払い給与を求めて騒ぎ始めた。地方銀行の担当者も相沢家へ催促に来た。相沢社長は血圧が急上昇し、町の病院へ運ばれた。梨奈が俺を訪ねてきたのは、それから数日後のことだった。
彼女は森下建材の前に立っていた。顔はやつれ、目は泣き腫らして桃のようになっていた。化粧もしていない。俺が出てくると、梨奈はすぐに駆け寄り、俺の腕をつかんだ。
「亮介、お父さんが入院したの。治療費が必要なの。五十万円だけ貸して。製作所が立て直せたら、必ず返すから」
俺は彼女を見た。
「悠斗は?」
「市内へお金を工面しに行った」
「工面できたのか」
梨奈はうつむき、何も言わなかった。俺は財布から五千円札を取り出し、彼女へ差し出した。相沢社長に栄養のあるものでも買ってやれ、と言った。梨奈はその札を見つめ、涙をこぼした。
「相沢社長に、何か食べやすいものでも買ってやれ」
「森下亮介、あなたってそんなに冷たい人だったの? 五十万円なんて、森下家にとっては大した金額じゃないでしょ」
「金の問題じゃない」
梨奈は急に興奮し、俺の胸を押した。なら何が問題なのか、自分が何をしたというのかと叫んだ。悠斗と少し親しくしただけで、実際に寝たわけでもない。それでここまで追い込む必要があるのか、と。
「じゃあ何の問題なの? 私が何をしたっていうの? 悠斗と少し近かっただけでしょ。寝たわけでもないのに、ここまでする必要がある? 配信は悪かった、謝る。土下座すればいいの? 土下座すれば許してくれるの?」
彼女は本当にその場で膝をつこうとした。俺は手を伸ばし、止めた。すべての過ちは、謝れば消えるわけではない。そう告げると、梨奈は呆然と俺を見た。俺は、家へ戻って父親の看病をしろと言った。
「相沢梨奈、謝ればすべてが戻るわけじゃない。帰れ。お父さんのそばにいてやれ」
俺が背を向けようとした瞬間、梨奈が後ろから抱きついてきた。必死に、最後の命綱をつかむような強さだった。彼女は、本当に悪かった、行かないで、捨てないで、と泣いた。俺がいなければ死んでしまう、とまで言った。
「亮介、私が悪かった。本当に悪かったの。行かないで。私を捨てないで。あなたがいないと、私、本当に死んじゃう」
通りの人たちが足を止め、こちらを見始めた。俺は彼女の指を一本ずつ外し、そのまま会社の中へ入った。背後で梨奈の泣き声が聞こえた。心が裂けるほどの大声だった。
けれど俺は、振り返らなかった。
8
相沢家との取引を切ったことで、森下家の商売にも多少の影響は出た。けれど致命傷にはほど遠かった。地元で家具や内装を扱う会社は、相沢家だけではない。ほどなく父は、いくつかの新しい納品先を見つけた。その中で最も大きかったのが、隣町にある榊原家具ギャラリーだった。
父は俺に、町の喫茶店で相手に会ってこいと言った。長期契約を相談したいらしい。約束の店に着くと、相手はすでに窓際の席に座っていた。三十代前半ほどの女性で、白いシャツに黒いパンツ、髪は低く結んでいる。余計な飾りはなく、手元の契約書に目を通していた。
彼女は足音に気づくと顔を上げ、立ち上がって手を差し出した。
「森下亮介さんですね。榊原真帆です。どうぞ座ってください。こちらが仮の契約条件です。価格、支払いサイト、納品周期はすべて書いてあります」
俺は彼女と握手を交わし、席について契約書を開いた。条件は分かりやすく、価格も妥当だった。無理な値引きもなく、口約束のような曖昧な項目もない。すべてがはっきり書かれている。
「榊原社長は、話が早いですね」
「真帆でいいです」
真帆はお茶をひと口飲み、俺を見た。森下家と相沢家のことは少し聞いている、と彼女は静かに言った。けれど私事を詮索したいわけではない。ただ、取引相手が信頼できる人間かどうかを知る必要があるだけだ、と。
「誤解しないでください。私事に興味はありません。ただ、取引を始める前に、相手が信用できるかどうかは見ておきたいんです。相沢家への対応は、少し厳しかったかもしれません。でも判断は早く、迷いがなかった。私は悪くないと思います。商売で一番怖いのは、情に流されることです。ああいうふうに乱される相手なら、私でも切ります。金の問題じゃありません。人の問題です」
彼女の言葉には遠回しな慰めも、余計な同情もなかった。だからこそ、聞いていて不快ではなかった。俺は契約書を持ち帰り、問題がなければ来週署名すると伝えた。真帆はうなずき、さらに別の話を切り出した。
「契約書は持ち帰ります。問題がなければ、来週署名します」
「分かりました。それと、あなたが一般客向けの建材販売と内装提案の会社を作りたいと聞きました。うちには使える店舗と顧客があります。あなたが建材を出し、私が店と人員を出す。利益は七対三。あなたが七、私が三でどうですか」
その条件はかなり良かった。良すぎるほどだった。俺は真帆を見た。
「なぜですか」
「森下家の品を評価しているからです。それと、あなたという人を見ているから。相沢梨奈さんにあれだけネットで騒がれても、あなたは業界内で彼女の悪口を言わなかった。相沢家が困ってから、さらに踏みつけることもしなかった。少なくとも、線を越えない人だと思いました。ただし、仕事は仕事、私事は私事です。私は離婚歴があります。子どもはいません。今は仕事をちゃんとしたい。それ以上のことは、流れに任せます」
俺はうなずいた。その食事は簡単なものだったが、話は驚くほど円滑に進んだ。帰り道、父から電話があった。どうだったかと聞かれ、悪くないと答えると、父は少し沈黙した。
父は、榊原の娘はいい人だと言った。ただ男を見る目がなかっただけで、元夫はひどい男だった。離婚のときも随分もめたらしい。それでも一人でギャラリーを立て直したのだから、力のある人間だ、と。
父はおそるおそる、真帆と少し付き合ってみてもいいのではないかと言った。俺は、婚約を解消したばかりだと返した。父は分かっているとため息をつき、ただ真帆は堅実な子だと思っただけだ、と言った。
俺はそれ以上答えなかった。けれどその夜、俺は初めて、前世の手術台の夢を見なかった。
9
俺と梨奈の婚約解消は、すぐに地元の取引先の間で広まった。噂はいくつも枝分かれし、どれも少しずつ大げさになっていた。俺がもともと相沢家を見下していて、口実を作ったのだと言う者もいた。梨奈と悠斗は以前から関係があり、婚約披露でそれが露見したのだと言う者もいた。相沢家の品質偽装を森下家がわざと表沙汰にし、取引先を奪うつもりだと噂する者までいた。
梨奈は毎日のようにSNSで長文を投稿した。ある日は俺を冷たい裏切り者だと罵り、別の日には昔の写真を載せ、あんなに幸せだったのに戻れないと嘆いた。悠斗もまた、有名人にでもなったように投稿し続けた。失ったものは戻らない、梨奈さんのそばにいる、というような文面だった。
コメント欄には、配信で婚姻届を出すと言っていたのに、いつ行くのかという書き込みもあった。悠斗は、感情は無理に進めるものではない、と返した。梨奈は、私は一人だけを愛していたのに、その人が大切にしてくれなかった、と書いた。
それを見て、俺は笑いそうになった。
母は、榊原さんとの仕事はうまくいっているのかと聞いてきた。俺が悪くないと答えると、母は真帆さんは落ち着いている、梨奈さんは惜しい子だったとため息をついた。俺は母を見て、惜しいことなどない、すべて自分で選んだ道だと言った。
一か月後、梨奈はまた俺の前に現れた。今度は、俺と真帆が共同で立ち上げる新会社のビルの前だった。内装工事はまだ途中で、看板も出たばかりだった。梨奈は薄着で、風の中に立っていた。唇は寒さで紫になり、手には保温容器を提げていた。
俺を見つけると、梨奈は無理に笑った。
「亮介、スープを作ってきたの。あなた、昔から豚骨のスープが好きだったでしょ。昨日の夜から煮込んだの。少しだけでいいから、飲んで」
俺は保温容器を押し返した。
「相沢梨奈、やめろ」
梨奈の目から涙がこぼれた。彼女は、ではどうすればいいのかと聞いた。ここまで頭を下げても、まだ戻ってきてくれないのか。製作所は潰れ、父は病気になり、悠斗は逃げた。自分には何も残っていない、俺しかいないのだと訴えた。
「じゃあ、どうすればいいの? 森下亮介、私はどうすればいいの? ここまで頭を下げてるのに、まだ足りないの? 製作所は潰れた。父は倒れた。悠斗は逃げた。私はもう何も持ってない。あなたしかいないの」
俺は用があると言い、彼女の横を通り過ぎようとした。その瞬間、梨奈は本当に膝をついた。オフィスビルの入口で、通行人や内装業者、近くの会社員たちが見ている前だった。彼女は俺の足にしがみつき、震えながら泣いた。
「亮介、お願い。許して。私に生きる道を残して。あなたが言うなら何でもする。だから、私を捨てないで」
警備員が駆け寄り、梨奈を引き離そうとした。俺は、それに触るなと言った。地面に膝をついた梨奈を見下ろしながら、胸の中にあったのは痛みではなく、ただ言いようのない虚しさだけだった。
「触らないでください」
「立て」
「許してくれないなら、立たない」
「許す。だから立て。そして、もう来るな」
梨奈は呆然と顔を上げた。その目に、かすかな光が戻る。彼女は、本当に許してくれるのか、それなら私たちは、という言葉を口にしかけた。俺はそれを遮った。
「本当に許してくれるの? じゃあ、私たち……」
「俺たちは終わった。許すことと、やり直すことは違う。相沢梨奈、過ぎたことはもう戻らない」
彼女は、俺がまだ自分を恨んでいるのかとつぶやいた。俺は彼女を見て、恨んでいないと答えた。ただ、もうどうでもいいだけだ、と。
「そんなに私を恨んでるの?」
「恨んでいない。ただ、もうどうでもいいだけだ」
「そう。森下亮介、あなたって本当に残酷ね」
梨奈は立ち上がり、笑った。そして背を向けて歩き出した。保温容器は地面に落ち、中のスープが舗道へこぼれていった。
10
真帆が会社の内装を見に来たとき、警備員から梨奈の騒ぎを聞いた。彼女は深く尋ねず、俺を見て、手伝いが必要かとだけ聞いた。俺がいらないと答えると、真帆はうなずき、それ以上その話を続けなかった。
数日後、真帆は一通の資料を持ってきた。市内で来月、住宅建材と家具の展示会があるという。彼女は二つのブースを確保したから、一緒に出ないかと提案した。俺が資料に目を通すと、規模はかなり大きく、家具、内装、建材関係の会社だけでなく、個人客や設計事務所も来る展示会だった。
真帆は少し間を置き、自分の元夫が来るかもしれないと告げた。彼も市内で家具関係の仕事をしていて、何かしら絡んでくる可能性がある。だから、当日になって驚かせないよう先に伝えておくと言った。
「手伝いが必要?」
「いらない」
「来月、市内で住宅建材と家具の展示会があります。二つブースを取れました。一緒に出ませんか」
「出よう」
「それと、元夫が来るかもしれません。彼も市内で家具の仕事をしています。面倒を起こす可能性があるので、先に言っておきます」
「俺は何をすればいい」
「何もしなくていいです。ただ、知っておいてほしかっただけです」
展示会当日、俺と真帆は市内へ向かった。俺たちのブースは隣同士だった。真帆の展示は簡素だが、非常に整理されていた。商品は見やすく並べられ、価格も明確に表示され、サンプルの横には素材説明が添えられていた。梨奈のように不満を言ったり、甘えたりするのではなく、真帆は本当に顧客と商売を理解していた。
午前中は来客が多かった。取引を相談する者、見積もりを尋ねる者、内装の相談を持ち込む個人客が途切れない。午後、四十代ほどの男が真帆のブースへ歩いてきた。スーツにネクタイを締めていたが、ネクタイは曲がり、顔には脂が浮いていた。近づく前から、その声だけが先に届いた。
「おや、榊原社長。ずいぶん繁盛してるじゃないか。見に来ちゃ悪いのか? 若い男を捕まえたって聞いたけど、こいつか?」
男は俺を指差した。俺が一歩前に出ると、真帆が俺の手を押さえ、静かに首を振った。彼女は男を見上げ、表情を変えずに名前を呼んだ。矢野貴弘。私たちはもう離婚している。私のことにあなたは関係ない、と。
「矢野貴弘、私たちはもう離婚しています。私のことに、あなたは関係ありません」
矢野は声を大きくした。真帆のギャラリーはもともと自分の金で始めたものだ、今さら若い男を連れて自分を追い出すつもりなのか、と。周囲の客たちがこちらを見始める。真帆は立ち上がり、少しも震えない声で言った。
「関係ない? そのギャラリーは、もともと俺の金で始めたものだろう。若い男を引き入れて、俺を切り捨てるつもりか?」
「第一に、私が店を始めた資金は父が残してくれたものです。あなたのお金は一円も入っていません。第二に、離婚のとき、家の現金をすべて持ち出し、あなたは私に二百万円の借金を残しました。裁判所の判断も出ていますが、まだ返済されていません。第三に、これ以上ここで騒ぐなら、すぐに警察を呼びます」
矢野の顔色が変わった。彼はまだ何か言おうとしたが、俺が一歩前に出ると口を閉じた。俺と真帆を交互に見てから、彼は舌打ちをし、榊原真帆、お前は大した女だな、覚えていろと言って去っていった。
「いいだろう、榊原真帆。お前は大した女だ。覚えていろ」
真帆は何事もなかったように席へ戻り、伝票を整理し始めた。手は少しも震えていない。俺が大丈夫かと聞くと、真帆は慣れているとだけ答えた。展示会が終わり、二人でサンプルや資料を片づけていると、彼女がふいに礼を言った。
「大丈夫か」
「大丈夫です。慣れています」
「ありがとうございます」
「何に?」
「あなたが怒らなかったことに。ああいう人間に、そこまでする価値はありません」
帰り道、真帆は助手席で窓の外の明かりを見ていた。しばらくして、彼女は人は何を求めて生きるのだろうと尋ねた。俺はすぐには答えなかった。真帆は続けて、以前は家や人を求めていたが、家は壊れ、人は変わるのだと知った。今はただ、穏やかに眠れて、翌朝目を覚ませればいいと思っている、と言った。
「亮介さん、人は何を求めて生きるんでしょうね。昔は、家だと思っていました。誰かといることだと思っていました。でも家は壊れるし、人は変わります。今は、ただ地に足がついていることが大事だと思います。夜にちゃんと眠れて、朝に目を開けられれば、それで十分です」
俺は長いあいだ黙っていた。真帆がこちらを見る。
「あなたと梨奈さんは、落ち着かなさすぎました」
その通りだった。
11
梨奈は本当に町を出ていった。市内の夜の店で働いているという話もあった。五十代の経営者の愛人になったという話もあった。悠斗を探して歩き回り、最後に見つけたのは、彼が製作所の残金を持ち逃げしたという事実だけだったという噂もあった。
悠斗の消息も断片的に流れてきた。市内でまた女性や小さな会社の経営者を騙し、誰かに殴られたらしい。その後、現場仕事に流れた。さらにその後、足場から落ちて足を痛め、ろくに治療もできず、片足を引きずって歩いているという話も聞いた。
相沢家具製作所は完全に潰れた。機械は売られ、工場は銀行に差し押さえられた。相沢社長は退院後、妻とともに田舎の古い家へ移り、わずかな年金と親戚の援助で暮らしているという。どれも人づてに聞いた話だった。俺は確かめに行かなかった。
俺と真帆の結婚が決まったとき、両親はとても喜んだ。式は大げさにしなかった。町のホテルで十卓だけ用意し、親戚と友人、取引先を招いた。派手な演出も、見栄のための飾りもなかった。
結婚式の日、天気は良かった。真帆はシンプルな白いドレスを着て、濃い化粧もせず、淡い口紅だけを引いていた。俺の隣に立つ彼女は静かで、手のひらは温かかった。司会者が祝辞を述べ、客席から拍手と笑い声が上がる。俺が真帆を見ると、彼女もこちらを見て、控えめに笑った。
指輪を交換するとき、会場の入口に誰かが立っているのが視界に入った。痩せた体、古い上着、乱れた髪。梨奈だった。彼女は中に入らず、遠くから見ているだけだった。俺と目が合うと、慌ててうつむき、逃げるように走り去った。
司会者が明るい声で言った。
「新郎は、新婦にキスをどうぞ」
俺は真帆に顔を寄せ、そっと口づけた。会場に拍手が広がる。その瞬間、俺はもう振り返らなかった。
12
一か月後、藤井さんから梨奈が結婚したと聞いた。相手は隣町の五十代の畜産農場の経営者だった。男は相沢家の借金の一部を肩代わりし、相沢社長の治療費もいくらか払ったという。式は簡単なもので、招待客は二卓だけだったらしい。
その日、梨奈はレンタルのウェディングドレスを着ていたが、最後まで笑わなかったという。酒が回った相手の男は、皆の前で彼女を怒鳴った。俺は相沢家の借金を払ったのであって、お嬢様を迎えたわけじゃない、と。梨奈は言い返さず、うつむいたまま杯の酒を飲み干した。
誰かがその様子を撮った動画を、地元の取引先グループに流した。俺は一度だけ見て、すぐに画面を閉じた。隣では真帆が毛糸を編んでいた。彼女は顔を上げず、何を見ていたのかと尋ねた。俺が何でもないと答えると、少し間を置いて、相沢梨奈さんが結婚したのかと聞いた。
「何を見ていたんですか」
「何でもない」
「相沢梨奈さん、結婚したんですか」
「ああ」
真帆は静かに言った。
「そうですか。いいんじゃないですか。みんな、自分の場所に落ち着いたんでしょう」
俺はスマホを置き、真帆のそばへ行って彼女を抱きしめた。真帆が顔を上げ、どうしたのかと聞く。俺は彼女の首元に顔を埋め、ただ抱きしめたくなっただけだと答えた。真帆は小さく笑い、俺の背中を軽く叩いた。
「どうしたんですか」
「何でもない。ただ、抱きしめたくなった」
「変な人」
窓の外には、丸く明るい月が浮かんでいた。昔、梨奈が俺のバイクの後ろに乗っていた夜の月にも似ていた。あのころの俺は、自分がもっと頑張れば、もっと彼女を大切にすれば、二人は最後まで一緒にいられると思っていた。
けれど今なら分かる。離れていったのではない。梨奈が、自分の手で道を焼き払ったのだ。
俺はもう戻れない。
戻りたいとも思わなかった。
終わり




