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風呂上がりの火照りを鎮める手段は、扇風機やコーヒー牛乳だけではない。「極楽の湯」の休憩所へと続く通路の真ん中には、もう一つの誘惑が鎮座している。
アイスクリームの自動販売機だ。
自販機の放つ蛍光灯の光を浴びながら、赤い芋ジャージの女が腕を組んで唸っていた。
「むむむむ……」
陽菜だ。目を細め、ガラス越しのディスプレイを親の仇のように睨みつけている。
俺は自販機の隣に立ち、陽菜の視線の先を追った。
「……陽菜?」
「あ、景! 聞いてよぉ! 究極の選択なんだよ!」
陽菜は自販機のパネルをバンバンと叩いた。
「何してるんだ?」
「定番のチョコミントか、期間限定の新作ストロベリーチーズケーキか。それが問題だ、ってところなんだ」
「平和な悩みだな。そんなに迷うなら両方買えばいいだろ」
「私の胃袋のキャパシティと、今日消費したカロリーを計算すると、選べるのは一つだけなんだよ!」
「そもそも深夜にアイスを食おうとしている時点でアウトだぞ……」
「そこは目を瞑るのが優しさだよ。いい? ストロベリーチーズケーキは期間限定だよ。今逃したら、次の巡り合わせは来年かもしれない。いや、一生会えない可能性だってある。これは一期一会だよ」
「ストロベリーだけに一期一会ってか?」
俺がオヤジギャグを放り込むと冷たい目で陽菜が睨んできた。
「まぁ……来週も売ってるだろ。順番に食えよ、順番に」
「甘いよ、景! アイス業界の入れ替わりは激しいんだよ! アイドルに負けず劣らずの戦国時代! でもね、定番のチョコミントも捨てがたい。風呂上がりの火照った体に、あのミントの爽快感は必須アミノ酸と同じくらい重要なんだよ。接種せずに一週間を過ごせるかどうか……」
「アイスにアミノ酸は入ってないだろ」
「精神的なアミノ酸だよ! チョコのパリパリ感と、ミントの清涼感。これを発明した人はノーベルアイスクリーム賞をもらうべきだよ……でも、ストロベリーの甘酸っぱさも捨てがたいんだよなぁ……景はどう思う?」
「俺に聞くなよ……」
「客観的な意見が欲しいんだよ。景ならどっちを選ぶ?」
「チョコミントだな」
面倒なので適当に答える。
「即答じゃん。なんで?」
「さっぱりしてるからだ」
「それだけ!? もっとこう、ストロベリーの果肉感とか、チーズケーキの濃厚さへの未練とかないの!?」
「ないぞ。俺はチョコミントが食いたいからな」
「うわぁ、迷いのない人だね。でも、景がチョコミントを選ぶなら、私はバランスを取ってストロベリーチーズケーキにするべきかな……。いや、でもチョコミントの誘惑が……」
「なんで俺も食べる話になってるんだよ!?」
陽菜は俺のツッコみをスルーして再びディスプレイに向き直り、「うーん」と唸り声を上げた。
自販機の前を占拠されては、他の客の迷惑になる。俺はポケットから百円玉を数枚取り出し、投入口に放り込んだ。
「あ、ずるい! 私より先に買う気!?」
「いいから退け」
俺は『定番のチョコミント』と『新作のストロベリーチーズケーキ』のボタンを立て続けに押した。
ガコン、ガコン、と二つのアイスが取り出し口に落ちる。
俺は箱を取り出し、ストロベリーチーズケーキの方を陽菜の顔の前に突き出した。
「ほら」
「……えっ。景、これ……」
「お前は新作の方を食え。で、一口チョコミントも食べろ。そうしたら約1本分のカロリーで2種類の味を楽しめるだろ」
「でも、二つも……私、お金払うよ!」
「いいよ。俺がチョコミントを食いたかっただけだからな」
「景……ツンデレ?」
「ばっ……そんなんじゃねぇよ!? 要らないなら――」
「いる! 神様! 仏様! チョコミント大明神! 一生ついていくよ!」
「大げさだぞ……たかがアイスで一生を売るなよ……」
「たかがアイス、されどアイスだよ」
俺たちは通路の端にある長椅子に腰を下ろし、パッケージを剥く。棒状のアイスクリームを口に入れると爽やかなミントの香りと冷たさが食道を通っていく。
隣を見る。陽菜もストロベリーチーズケーキ味のアイスを口に運び、頬を緩ませていた。
「ん〜! チーズケーキのコクがすごい! ストロベリーの酸味が絶妙なアクセントになってるよ! 景、これ大正解!」
「そうか。よかったな」
「ね、景」
「なんだ?」
「や、なんかこういうの懐かしいから。昔、よくお母さんに買ってもらったなぁって思って」
「へぇ……」
「ま、それだけ」
陽菜はしみじみと語りながら、自分のアイスを食べ進める。
だが、その視線は徐々に俺の手元のチョコミントへと移動していった。
「……なんだ?」
「や、チョコミントもおいしそうだなって。隣の芝生は青く見えるっていうか、隣のアイスはミント色に見えるっていうか」
「意味がわからないぞ……」
「やーん。焦らさないでよぉ。一口くれる約束じゃんかぁ」
「そうだったか?」
「そうだよぉ!」
陽菜がじりっと距離を詰めてくる。俺の右肩に、陽菜の左肩が触れた。
「物欲しそうな犬みたいな顔してる」
「犬じゃないよ! アイド――どぅんどぅるどぅるどぅる!」
失言を無理やり誤魔化した!?
「ドゥンドゥルマってあるよな」
「何それ?」
「トルコアイスだよ。あの、何回受け取ろうとしても渡してくれないパフォーマンスが有名だろ」
「あー……あるね」
陽菜が俺のアイスに手を伸ばしてくる。俺はひょいっと手を下げると陽菜は「あうっ」と声を出した。
「ドゥンドゥルマしてる?」
「あのパフォーマンスはドゥンドゥルマじゃないぞ!?」
「や、けど景は今ドゥンドゥルマしてるよ。私が欲しいものをくれそうでくれない。けどそこがいいんだ。ほら、頂戴!」
陽菜が手を伸ばしてくる。俺はからかうのが楽しくなり、またアイスをひょいっと上に避ける。
ひょいっ、ひょいっ、と何度か空振りを繰り返した陽菜は可愛らしく頬を膨らませた。
「むぅ……景、ドゥンドゥルマってる」
「何語だよ……」
「ま、そこがいいんだけどね。私をこんな風に雑に扱ってくれるのって景くらいだし」
陽菜はふと寂し気な目をしてそう言う。そうか。トップアイドルともなると周りも機嫌を伺うようになってこんな風に遊べる相手も少なくなってくるんだろう。
妙に納得して、同情してしまった次の瞬間。陽菜はにやりと笑うと、俺の手首を軽く掴んだ。
そのままグイッと引き寄せ、躊躇いもなくパクッと咥え込んだ。
俺の動きが停止した。
陽菜の唇が、俺がたった数秒前に口に入れたばかりのアイスを包み込んでいる。陽菜は大口でアイスを頬張り、口の中でアイスを転がした。
「ん〜! おいし!」
完璧な笑顔だった。
だが、間接キスだ。
相手は、国民的アイドルグループの絶対的センターだ。ファンにばれたら殺される事案だ。
「ミントの爽快感がたまらないね! チョコの甘さも絶妙だよ! 景、ありがとう!」
陽菜は全く気にした様子もなく、自分のストロベリーチーズケーキを掬い始めている。まったくの無自覚だ。
「……お前、自分が今何をしたか分かってるのか」
「え? チョコミントの味見だよ。どうかしたの?」
「俺がさっきまでぺろぺろしてたアイスだぞ」
「うん、知ってるよ。それが何か?」
「……間接キスだぞ」
俺が言うと、陽菜はきょとんと首を傾げた。
「景、そういうの気にするタイプ? 中学生みたいだね。家族で鍋をつつくのとかも駄目な人?」
「鍋とこれは違うぞ。というか、お前が気にしなさすぎだ。そんなに無防備でどうする。これを競売にかけたらあっという間に10万円超えだぞ」
「大丈夫だよ。景は安全な人だから」
陽菜はあっけらかんと言った。
「あ、じゃあ景も私のストロベリー、一口食べる? ほら」
陽菜が、自分の食べかけのストロベリーチーズケーキを俺の口元に突き出してきた。
ほんのりとピンク色のアイスが乗っている。そして、そのアイスは間違いなく、今しがた陽菜の唇に触れていたものだ。
「……いらないぞ」
「えー、遠慮しなくていいのに。おいしいよ?」
「えっ、遠慮じゃない。俺はチョコミントで十分だ」
「もしかしてぇ……本当に間接キスを気にしてるの? かーわいー」
陽菜がニヤニヤと笑いながら、さらに距離を詰めてくる。
突き出されたアイスが、俺の唇の数センチ手前で止まる。甘いイチゴの香りが鼻腔をくすぐった。
「ほら、あーん」
「やめろ。子供じゃないんだぞ」
俺は顔を背け、陽菜の手首を軽く押しのけた。
「むぅ、つまんないの。じゃあ、私が全部食べちゃうからね」
陽菜は引っ込めたアイスを自分で口に運んだ。俺は小さく息を吐き出し、周囲を素早く見渡した。
自販機コーナーには、数人の客がいる。誰もこちらのやり取りには注目していない。
俺は陽菜の斜め前に立ち、通路からの視線を遮るように立ち塞がった。
「ちょっと、景。見えないよ」
「……お前、ガードが緩すぎるぞ」
「え? 何が?」
陽菜はアイスを口に含んだまま、俺を見上げた。その唇の端に、ピンク色のアイスのクリームが微かに付着している。
「口だ。クリームが付いてるぞ」
「え? ほんとだ」
陽菜はジャージの袖で口元を拭おうとした。それを俺は言葉で制する。
「待て。袖が汚れるだろ」
俺は無言でポケットからティッシュを取り出し、陽菜の口元に押し当てた。
「んぐっ」
「後、黙って食え。本当に、いつか週刊誌に撮られるぞ」
「むぐぐ……景、扱いが雑だよ! もっと優しく拭いてよ!」
「優しく扱われたがったり雑に扱われたがったり面倒だな……」
陽菜は文句を言いながらも、俺の後ろで大人しくアイスを食べ続ける。
「ほーんと、景ってドゥンドゥルマしてるよね」
「アイスはあげたろ?」
「や、アイス以外もだよ。くれそうでくれない。ドゥンドゥルマってる」
「何がだよ……」
俺が呆れて溜息をつくも、陽菜はけらけらと笑いながらアイスを大口で頬張っていたのだった。




