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仲が良いスーパー銭湯常連客の美少女がトップアイドルだった  作者: 剃り残し


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 金曜日の夜22時。スーパー銭湯「極楽の湯」の自販機コーナーは、静謐かつ冷酷な戦場と化す。


 サウナで極限まで脱水された中年たちの渇き。


 一週間の労働で磨り減った神経を癒やすための糖分への執着。


 それらが交錯するこの場所で、慈悲や譲り合いの精神など、排水溝に詰まった髪の毛ほどの価値もない。


 俺、城崎きのさきけいは、腰に手を当ててその光景を睨みつけていた。


 ターゲットは瓶入りコーヒー牛乳。


 ボタンの下には、まだ無情な売切の赤ランプは点灯していない。


 つまり、在庫あり。


 だが、透明なケースの中を見ると、内部ストックが残り一本であることが判明。


 俺はロッカーキーを握りしめ、濡れた髪をタオルで拭いながら、忍び足で自販機へと滲み寄った。


 距離、約3メートル。


 障害物なし。


 勝利を確信し、右手を伸ばしたその時だった。


 視界の端、休憩所の柱の陰から、赤い影が飛び出してきた。


「……あ」


 俺の指先と、その影の指先が、空中で交差する。


 コーヒー牛乳のボタンの前で、二つの指が完全に静止した。


 俺は視線をスライドさせる。


 そこにいたのは首元がダルダルに伸びきった、高校の指定ジャージのような赤い芋ジャージを着た女だった。


 下はグレーのスウェット。


 頭頂部には、適当にまとめすぎて崩壊寸前の団子ヘアが乗っかっている。前髪は邪魔だったのか、ファンシーなひよこのヘアクリップで全開にされていた。


 ただ、化粧水を塗った肌は陶器のように輝いていて、目もくっきりとした二重で妙に可愛らしい人だった。


「……あの。ラストみたいです」


 女が俺を睨み上げてくる。身長差は約20センチくらいだろうか。


 だが、そのプレッシャーは巨大怪獣のそれだ。


 お互いに無言で見つめ合う。


「……コーヒー牛乳……ではないですよね?」


 念のための確認。だが、彼女は首を横に振った。二重否定。つまり、彼女はコーヒー牛乳を欲しているということだ。


 改めて機械を見る。中にあるのは1本だけ。


「俺もなんです」


「あー……ど、どうしましょうね」


 お互いに気まずくなり、視線を泳がせる。


 見ず知らずの人とコーヒー牛乳を奪い合うわけにもいかない。


 ここは譲って別のところで買うか、と思った矢先、彼女が「あの……」と伏し目がちに声をかけてきた。


「少し……変な提案をしてもいいですか?」


「変な提案?」


「はい。このコーヒー牛乳は別格です。周りの店では売っていない。つまり手に入れるにはここしかない……だから、プレゼンしませんか? お互いに。どれだけこのコーヒー牛乳が好きなのか」


「……え?」


「あ……その……嬉しくて。このコーヒー牛乳が好きな人がいて」


「な、なるほど……」


 ちょっと変な人に絡まれてしまったらしい。まぁ、折角だし付き合ってみるか。


「じゃ、俺から。ここにあるのはただの乳飲料じゃない。月曜から金曜まで、無茶振りをするクライアントと話の通じない上司の間で反復横跳びを続けた俺への、唯一の報酬なんです」


「……私もです。何なら土曜からずっと休みなしで働いてましたから」


 女は一歩も引かない。


 むしろ、ジリ、と距離を詰めてくる。


 物理的な距離がおかしい。俺のTシャツの袖に、彼女のジャージの毛玉が触れた。


「私は今週、笑顔という筋肉を酷使しました。顔面の筋肉が痙攣するほど笑って、手を振って、あちこち飛び回って……この糖分がないと、家まで帰るカロリーが足りません。ここで倒れたら、私の死体処理をするのはあなたですよ?」


「笑顔の筋肉? 接客業ですか?」


「……似たようなものです。いや、私の職業はどうでもよくて。とにかく、そのコーヒー牛乳は私の命綱です」


「ちなみに、横のフルーツ牛乳で代用するというのは?」


 俺は顎で隣のボタンをしゃくった。


「フルーツ牛乳……!?」


 女は汚いものを見るような目で、フルーツ牛乳のボタンを見た。


「あれは別物です。コーヒー牛乳が『深みとコクのハーモニー』なら、フルーツ牛乳は『甘酸っぱい青春の押し売り』です。今の私の荒んだ心には、青春の輝きは眩しすぎて毒なんです」


「ハーモニーと青春じゃ対比が取れてませんよ?」


 女が、ぐぬぬ、と唸り声を上げた。


 そして、突然言った。


「……じゃんけん」


「は?」


「平和的解決です。暴力はいけません。文明人らしく、確率に身を委ねましょう」


 女が俺の方へ向き直る。瞳が獲物を狙うスナイパーのように据わっていた。


「勝った方がボタンを押す。負けた方は、潔く『甘酸っぱい青春の押し売り』で妥協する。どうですか?」


 俺はため息をつき、首のタオルを掛け直す。


 風呂上がりの大人が二人、深夜にじゃんけんで運命を決めようとしている。


 客観的に見れば地獄絵図だが、この女の頑固さは尋常ではない。ここで引けば、俺の週末は敗北感と共に始まることになる。


「いいでしょう。一発勝負で」


「望むところです。……あ、待って」


 女がジャージの袖をまくり上げた。細い手首が見える。


「心理戦はなしですよ。最初はグー、とか言ってパーを出すような大人の汚いやり方は禁止です」


「えぇ、正々堂々と」


「信じますよ。……最初は、グー」


 二人の声が重なる。

 自販機のモーター音が、ドラムロールのように低く唸る。


「「じゃん、けん、ぽい!」」


 俺が出したのは、チョキ。そして、女が出したのは。


 握り締められた、小さな拳。グー。


「……っっっ勝ったあぁぁ!!!」


 女がその場で跳ねた。


 ジャンプの勢いで、ひよこのヘアクリップが揺れる。


「ふはは! 私の勝利! 私のコーヒー牛乳!」


 彼女はガッツポーズをしたまま、俺を見上げてニカッと笑った。


 勝利の快感に酔いしれる、子供のような笑顔。


 その瞬間。


 俺の心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。


 長く美しい睫毛。風呂上がりの熱でほんのりと桜色に染まった、陶器のように滑らかな肌。


 そして何より、その完璧な口角の上がり方。


 右目の下にある、小さな泣きぼくろ。


 見覚えがある。


 というより、見ない日がない。


 コンビニの雑誌コーナーの表紙、駅の巨大広告、テレビをつければ必ず流れるシャンプーのCM。


 国民的アイドルグループ『ティアラ』の絶対的センター。『一億人の妹』こと、有馬ありま陽菜ひな、またの名をRIMAにそっくりだった。


「……あ」


 俺は反射的に視線を逸らし、咳払いをした。


(……マジかよ)


 思考がフリーズする。


 なぜ、国民的アイドルが、場末のスーパー銭湯で、芋ジャージ姿でコーヒー牛乳の権利を争っているんだ。


 セキュリティはどうなっている。事務所のガードは。スキャンダル対策は。


「ふふーん。私の勝ちー。恨みっこなしですよ、お兄さん」


 彼女は俺の動揺になど気づく様子もなく、鼻歌交じりに小銭を投入した。


 軽快な電子音とともに、ガコン、と重たい音が響く。


 取り出し口から現れた茶色の瓶を、彼女はまるで聖杯のように両手で持ち上げた。


「あぁ……これよ、これぇ。愛しのコーヒー牛乳ちゃん……会いたかった……」


 彼女は頬ずりしそうな勢いで瓶を見つめ、腰に手を当ててキャップを開けた。


「んぐ、んぐ、んぐ……ぷはぁ!!」


 豪快な飲みっぷりだった。


 喉が鳴る音が聞こえるほどだ。


 CMで見せる天使の微笑みとは程遠い、完全に風呂上がりのおっさんの顔をしている。


「……生き返るぅ……五臓六腑に染み渡るぅ……」


 彼女は空になった瓶を光にかざし、うっとりと呟いた。


 俺は頭を抱えたくなった。


 見なかったことにしたい。


 今すぐ回れ右をして、記憶を消去して帰宅したい。


 だが、俺の喉も限界まで乾いている。


 俺は無言でフルーツ牛乳のボタンを押し、出てきた瓶を掴んだ。


「……よかったですね」


 絞り出した声は、予想以上に低くなった。


 彼女は驚いたように俺を振り返る。


 距離が近い。


 シャンプーの甘い匂いが、ふわりと鼻を掠めた。


「お兄さん、ありがとう。フルーツ牛乳も……その、おいしいですよ? 青春の味だし」


 彼女は少し申し訳なさそうに、眉尻を下げた。


 無防備すぎる。


 俺がもし週刊誌の記者なら、あるいは悪意あるゴシップ好きなら、この一枚で彼女のアイドル人生を終わらせることができる。


『国民的アイドル有馬陽菜、深夜の銭湯で男と密会』の見出しが脳裏をよぎる。


 俺はフルーツ牛乳のキャップを開け、一気に半分ほど流し込んだ。


 甘ったるいフルーツの香りが口いっぱいに広がる。


 やはり、コーヒー牛乳のコクには勝てない。


「……別にいい。負けは負けです」


 俺は彼女に背を向け、休憩所のソファへと向かった。


 関わってはいけない。


 これは地雷だ。踏めば爆発して、俺の平穏な生活を木っ端微塵にする特大の地雷だ。


 しかし、地雷の方から、走って追いかけてきた。


「あ、待ってよお兄さん。隣、いい?」


 俺がソファに座ると、彼女は当たり前のように隣に座った。


 長椅子とはいえ、空席は他にもある。なぜわざわざここに来るんだ。


「……他にも席はありますよ」


「ここが一番テレビが見やすいんです。それに、戦友じゃないですか」


「戦友? コーヒー牛乳を奪い合った敵同士ですよ」


「ふふ、昨日の敵は今日の友、って言うでしょ」


 彼女はリラックスしきった様子で、ソファの背もたれに体を預けた。


 ジャージの裾が少しめくれ、白い足首が見えている。


「お兄さん、ここよく来るの?」


「……えぇ。週末はよく。お姉さんも?」


「私はたまにかな。ここはいいよね、お湯が熱くて。あと、コーヒー牛乳が冷えてて」


「そうですね」


 俺は短く答え、テレビのニュース画面に視線を固定した。


 彼女と目を合わせてはいけない。


 気づいていることを悟られてはいけない。


 もし「有馬ヒナですよね?」なんて言おうものなら、彼女はパニックになり、俺の平穏も終了する。


 俺にできるのは、彼女を「ただの近所のちょっと変なジャージ女」として扱うことだけだ。


「あの」


 俺は視線をテレビに向けたまま、指先で自分の口元をトントンと叩いた。


「え?」


「口。牛乳ついてますよ」


「……へ?」


 彼女はきょとんとして、自分の口元を触った。


「うわっ、ほんとだ!」


 慌ててジャージの袖で口元を拭う。


 その仕草の雑さが、またしてもアイドルの幻想を打ち砕いていく。


 彼女は空になった瓶を両手で包み込み、ふにゃりと笑った。


 その笑顔は、作られたアイドルのそれではなく、どこにでもいる等身大の女の子のものだった。


 俺はフルーツ牛乳の残りを飲み干し、瓶をテーブルに置いた。


「じゃあ、俺は行きます」


 長居は無用だ。

 俺は立ち上がり、タオルを肩にかけた。


「あ、うん。お疲れ様、お兄さん」


 彼女はソファに座ったまま、小さく手を振った。


「また来週、戦おうね」


「……勘弁してくれ」


 俺は背中で答え、更衣室へと足を向けた。背後で「あはは」と笑う声が聞こえる。


 更衣室に戻り、自分のロッカーを開ける。スマホを取り出し、震える指で検索窓に『有馬ヒナ』と打ち込んだ。


 画面に表示されたのは、煌びやかな衣装を纏い、完璧な笑顔を振りまく「天使」の画像。そして、最新のニュース記事。


『国民的アイドル有馬ヒナ、多忙による体調不良説を一蹴。「私は元気です!」と笑顔』


 画面の中の彼女と、さっきまで隣で「んぐんぐ」と牛乳を飲んでいたジャージ女と同一人物に見える。


 俺はスマホの画面を消し、深くため息をついた。


「……嘘だろ」


 俺が求めていたのは、静かな週末と、適度な湿度のサウナと、一本のコーヒー牛乳だけだった。それなのに、手に入れたのはフルーツ牛乳と、世間を揺るがすスキャンダルという名の爆弾だ。


『また来週』


 俺の鼓膜には、彼女の言葉が呪いのように耳に残っていた。




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