第8話:晩餐と沈黙
九条家の夕食時は、いつも穏やかな喧騒に包まれている。
キッチンからは母・あかりが作る肉じゃがの甘い香りが漂い、テレビからは代わり映えのしないニュースが流れていた。
「……結衣、あなたその手、どうしたの?」
食卓に最後についた結衣の手元を見て、あかりが鋭く目を細めた。
結衣はビクリと肩を揺らし、慌てて箸を動かそうとした手を膝の上へ隠した。
「えっ? ああ、これ……。今日、実習でちょっと重いもの運んだりしたから」
隠した指先には、石鹸でいくら洗っても落ちなかった黒いグリスの汚れが、爪の間やシワに深く入り込んでいる。手の平には、不慣れなレンチの操作で潰れたマメの跡。
中等部まで成績優秀な「お嬢様」然としていた娘の変貌に、あかりは心配そうな表情を浮かべた。
「Dクラスは整備の基礎もやるって聞いてたけど、女の子なんだから、そんなに無理しちゃダメよ? ほら、後でお薬塗りなさい」
「……うん。ありがとう、お母さん」
あかりの優しさが、今の結衣には少しだけ痛かった。
自分が今、地下倉庫でトメさんと共に「禁じ手」に手を染めていること、そして父が作った怪しげなアプリで学園のシステムを欺こうとしていること。そんなこと、口が裂けても言えるはずがなかった。
「へぇー、姉ちゃん。それ、ただの整備じゃないだろ。どっちかっていうと、スクラップの解体現場から帰ってきたみたいな顔してるぜ」
向かい側に座る中学二年の弟・颯太が、ニヤニヤしながら唐揚げを頬張った。
彼は帰宅部でいつもだらだらしているように見えるが、その目は妙に鋭い。
「うるさいな、颯太。あんたには関係ないでしょ」
「関係大ありだよ。姉ちゃんがそうやってボロボロになってると、お母さんの機嫌が悪くなって、俺への『勉強しろ攻撃』が激しくなるんだからさ」
颯太の軽口に、あかりが「颯太、あなたもよ!」と矛先を向ける。
いつもの光景。
だが、結衣はその喧騒の横で、黙々と食事を摂る父・蓮太の姿に視線を走らせた。
蓮太は何も言わなかった。
ただ、くたびれたワイシャツの袖を捲り、無言で肉じゃがを口に運んでいる。その様子は、どこにでもいる「仕事に疲れたお父さん」そのものだった。
(……お父さん、本当は気づいてるんだよね?)
昨夜、アリエスの回路を弄り終えた瞬間に届いた、あの完璧すぎるドライバ・アップデート。
現場にいなければ絶対に分からないはずの細かな仕様変更。
それを、この人は「どこからか」見ていた。そして、何も言わずに応えてくれた。
ふと、蓮太が顔を上げた。
視線が、一瞬だけ交差する。
蓮太の目は、何も語らなかった。
「頑張れ」とも「無理をするな」とも言わない。
ただ、不具合のない完璧なコードを書き終えたエンジニアが見せるような、静かで、冷徹なまでに安定した眼差し。
蓮太は視線を落とすと、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「……あなた、食事中にスマホはダメって言ってるでしょ」
「ああ、すまない。会社から、サーバーの監視アラートが飛んできてね。……ちょっと、確認させてくれ」
蓮太はあかりに謝りながら、慣れた手つきで画面をスワイプした。
あかりには仕事のメールに見えているだろう。
だが、その画面に映っていたのは――結衣が今、家のガレージ(という名の地下倉庫)に置いてきた、アリエスのステータス画面だった。
『Hardware Status: All Green.』
『Syncing physical data with K-Shell logic... Complete.』
蓮太の指が、高速で画面を叩く。
晩餐の席という「日常」のすぐ裏側で、彼は娘の「戦場」を最適化し続けていた。
「……良し。パッチの当たり方は悪くない」
小さく、独り言のように漏れた声。
結衣にしか聞こえない、その言葉。
(やっぱり、お父さんだ……)
結衣の胸の奥に、熱いものが込み上げた。
学園の誰もが自分を見捨て、適性がないと切り捨てた。親友のサオリでさえ、自分を「可哀想な存在」としてしか見てくれなかった。
けれど、この世界でたった一人、自分の「足掻き」を肯定し、論理という名の武器を貸してくれたのが、この冴えない父親だったのだ。
「お父さん」
「……なんだ」
「肉じゃが、美味しいね」
「ああ。……そうだな」
会話はそれだけだった。
けれど、二人の間には、あかりも颯太も入り込めない、強固な「接続」が確立されていた。
* * *
深夜。
結衣が自室で、トメさんから渡されたマニュアルを読み耽っている頃。
リビングのソファでは、颯太が一人でゲーム機を動かしていた。
「……親父。もう、寝たの?」
颯太が暗がりに向かって声をかける。
すると、ベランダで夜風に当たっていた蓮太が、静かに戻ってきた。
「ああ。……颯太、お前も早く寝ろ」
「分かってるよ。……それよりさ、姉ちゃんの機体、あれで本当に動くの?」
「どうして、そんなことを聞く」
「だってさ、俺、たまに親父のPC、こっそり覗いてるから。……あんなデタラメなパッチ、普通は機体が爆発するよ。親父、姉ちゃんを殺す気?」
颯太の言葉に、蓮太は足を止めた。
暗闇の中で、蓮太の瞳がわずかに光る。
「デタラメじゃない。あれは、現存するあらゆる機体制御を越えた『最適解』だ」
「……へぇ。自信満々だね。でもさ、それを受け止める姉ちゃんの同期率、知ってるでしょ? 0.01%だよ。計算上は、動くどころかログインすらできないはずだ」
颯太はゲーム機の画面を消し、父を真っ直ぐに見据えた。
その目には、中学二年生とは思えない、底知れない「解析力」が宿っている。
「同期率なんてのは、ただの『占い』だ。……結衣には、あんな数字には現れない『指先の対話』がある。お前だって、気づいてるんだろ?」
「……まあね。姉ちゃんのあの執念だけは、どんな高スペックなAIでもシミュレートできないだろうし」
颯太はフンと鼻を鳴らし、立ち上がった。
「いいよ。俺はまだ、出番じゃなさそうだしね。……でもさ、親父。もし姉ちゃんが本当に詰んだ時は……俺、やるからさ」
「……いざという時の保険、か。お前にしては殊勝な心がけだな」
「違うよ。単に、お母さんの怒鳴り声を聞きたくないだけさ」
颯太は欠伸をしながら、自分の部屋へと去っていった。
一人残された蓮太は、再びスマートフォンを取り出し、深夜の電波の海へと潜っていく。
沈黙の晩餐は終わり、明日からは再び、牙を隠した日常が始まる。
だが、九条家の「地下」では、着実に革命の準備が進んでいた。
「……さあて、明日の通勤時間で、もう一つ『一行』を書き換えておくか」
父の呟きは、夜風に溶けて消えた。
Dad is Online。
その接続が、結衣の運命を劇的に加速させようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【☆☆☆☆☆】をいただけますと幸いです。
次回お楽しみに。




