第6話:親友と境界
北倉庫の重い扉が、錆びついた音を立てて開いた。
差し込んだ光の中に立っていたのは、この薄暗い場所に最も似つかわしくない、輝くような少女だった。
「……結衣、ここにいたんだ」
サオリだった。Aクラスの証である金色の襟章、シワ一つない制服。
一方、結衣は油まみれのツナギ姿で、アリエスの脚部に潜り込んでいた。手にはボロ布と、トメさんから渡された得体の知れない洗浄液。
「サオリ。……どうしたの、こんなところまで」
「放課後の特別演習が早く終わったから。結衣が、まだ帰ってないって聞いたから……」
サオリは鼻先を掠める異臭に、無意識のうちに眉をひそめた。
そこは、オイルと鉄錆、そして「過去」が堆積した場所だ。最新のクリーンルームで、芳香剤の香りに包まれて最新鋭機を操るAクラスの生徒にとっては、異世界の入り口に見えるだろう。
「ねえ、結衣。やっぱり、先生にもう一度お願いしてみない? 整備の仕事も立派だけど、結衣はあんなに操縦が得意だったじゃない。マニュアル操作だって、今の機体にだって活かせるはず……」
サオリの言葉は優しかった。
だが、その「優しさ」は、今の結衣にとっては鋭いナイフとなって心に突き刺さった。
「……無理だよ、サオリ」
「どうして? やってみなきゃ分からないよ」
「同期率が0.01%なんだよ。最新の『シンクロ・ドライブ』は、私の脳波をゴミだと判断してる。そんな人間が、どうやって機体を動かすの?」
結衣はアリエスの装甲を強く拭いた。
汚れは落ちるが、自分が受けた刻印――「無能」の二文字は、どれだけ拭いても消えはしない。
「私ね、今日、自分専用の練習機を割り当てられたの」
「……」
「同期率に合わせて、OSが私の癖を学習してくれるんだって。動かした瞬間に、世界が広がるみたいで……。結衣にも、あの感覚を味わってほしい。あんなに努力してた結衣が、こんな暗いところで……っ」
サオリの瞳に、涙が浮かぶ。
それは紛れもない、親友への情愛。
けれど、その言葉が、二人の間に横たわる深い「境界線」を決定的なものにした。
最新機。学習するAI。広がる世界。
それは、Dクラスの住人には逆立ちしても手が届かない、天上の楽園の話だ。
「……帰って、サオリ」
「えっ?」
「今の私には、その話は眩しすぎるの。……ごめんね、私、忙しいから」
結衣は背中を向けた。
サオリは何かを言いかけ、だが結衣の震える肩を見て、絞り出すような声で「ごめん」と呟いた。
扉が閉まり、再び倉庫に静寂と暗闇が戻る。
「……くそ、胸糞悪いねえ」
影からトメさんが姿を現した。彼女は噛み終えたガムを紙屑に吐き捨て、結衣を見た。
「あの娘は悪くない。……だが、『持ってる奴』の正論は、いつだって『持たざる奴』の首を絞める。お前さん、あの子とまだ仲良くしてたいのかい?」
「……分かりません。でも、今のままじゃ……隣に立つのも、苦しいです」
結衣は作業台の上に置いたスマートフォンを手に取った。
画面には、先ほど一瞬だけ表示された、父からの『K-Shell』のステータスログが残っている。
* * *
その頃、九条蓮太は、退社間際のオフィスで、誰にも見られないようにコンソールを叩いていた。
「……結衣の生体ログに乱れ《スパイク》があるな。ストレス値が上昇している」
蓮太は、結衣のスマホ経由で彼女のバイタルデータをモニタリングしていた。
彼が作った『K-Shell』は、単なる制御パッチではない。
娘の精神状態や周囲の電波環境を分析し、最適なタイミングで「接続」するための、究極の監視・支援ツールだ。
「サオリ君か……。悪い子ではないんだがな。だが、今の結衣に必要なのは励ましじゃない」
蓮太は、スマートフォンの画面をスワイプした。
そこには、トメさんがアリエスに取り付けた「物理バイパス」の信号が、微弱ながらもしっかりと認識されていた。
「トメさんといったか。……あの老整備士、いい仕事をする」
最新技術を捨て、あえて「物理」に回帰する。
それは、システム開発の世界でいうところの『ハードウェア割込《割り込み》』だ。
どんなに優秀なソフトも、物理的な信号には逆らえない。
「佐竹課長、お先に失礼します」
「おい九条くん! まだ定時を五分過ぎたばかりだぞ! これじゃ残業代が……」
「仕事は全て、定時内に『最適化』しました」
蓮太は驚く上司を尻目に、鞄を掴んでオフィスを飛び出した。
向かうのは、いつもの満員電車。
だが、今日の彼は、ただ揺られるだけのサラリーマンではない。
(結衣。お前がその境界線を越えたいと言うのなら)
蓮太は、駅のホームでスマートフォンを掲げた。
暗い画面の中に、数百もの新しいコードが追加されていく。
(お父さんが、その境界線そのものを書き換えてやる)
* * *
深夜の北倉庫。
結衣はトメさんの指導のもと、アリエスのコクピットに座っていた。
「いいかい、お嬢ちゃん。今から繋ぐのは、学園のシステムじゃない。お前さんのスマホから出る『直結信号』だ」
トメさんが、太いケーブルをアリエスのメイン・バスへ突き刺した。
その瞬間、結衣のスマートフォンの画面が真っ赤に染まり、警告音が鳴り響く。
『Security Override: Active.』
『User: REN-K... Handshake Confirmed.』
「……お父さん!」
結衣が叫ぶ。
すると、真っ暗だったコンソールモニターに、一行のメッセージが表示された。
『結衣。最新のAIを信じるな。自分の指先の感覚だけを、その機体に叩き込め』
それと同時に、アリエスの全身が、まるで深い眠りから覚めたかのように震え始めた。
「な……っ!? 出力が、レッドゾーンまで跳ね上がって……!?」
トメさんの驚愕の声。
本来、旧型機が出るはずのない異常なまでの高出力。
だが、結衣には分かっていた。
これは暴走ではない。
父が、アリエスのすべての「制限」を解除し、マニュアル操作のためだけにリソースを全振りした結果なのだと。
「……動く。動けるよ、アリエス!」
結衣は操縦桿を握りしめた。
サオリとの間に引かれた、残酷なまでの境界線。
それを飛び越えるための、最初の一歩。
地下倉庫の闇を、アリエスの青いカメラアイが鋭く引き裂いた。
それは、落ちこぼれの少女が、世界に対して初めて牙を剥いた瞬間だった。
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次回お楽しみに。




