第19話:敗北の淵と陽菜のハンマー
三雲嵐に敗北してから、結衣は自室のベッドから一歩も動けずにいた。
カーテンを閉め切った暗い部屋の中、ただ天井を見つめるだけの時間が過ぎていく。
指先の感覚は完全に戻っている。
けれど、その指で何を掴めばいいのかが分からなかった。
目を閉じれば、真っ赤な獣がアリエスの心臓を掴み出す光景が、網膜に焼き付いたまま離れない。
父の論理が通じない世界。
自分の命が、誰かの気まぐれな殺意一つでどうにでもなってしまう恐怖。
それ以上に、信じていた「正解」が音を立てて崩れ去った喪失感が、結衣の心を暗い淵へと引きずり込んでいた。
「……もう、無理だよ」
独り言が、冷たい空気の中に溶けて消える。
自分が頑張れば頑張るほど、周囲に迷惑をかける。
アリエスをボロボロにし、仲間たちの期待を裏切り、お父さんに悲しい思いをさせた。
このまま消えてしまいたい。そんな卑屈な思考が、泥のように足元にまとわりついていた。
その時だった。
部屋のドアが、ノックもなしに爆発したような音を立てて開いた。
「いつまで湿気た面して寝てんのよ、この馬鹿娘!」
怒声と共に部屋に踏み込んできたのは、作業着姿の陽菜だった。
彼女は結衣の返事も待たず、ベッドに近づくと、掛布団を一気に剥ぎ取った。
「陽菜さん……。何、するんですか……」
「何する、じゃないわよ! あんたが引きこもってる間に、倉庫がどんなことになってるか分かってんの? ほら、立つ! ぐずぐずしない!」
陽菜は結衣の細い腕を掴むと、驚くべき力で引きずり起こした。
結衣は抵抗する気力もなく、フラフラとした足取りで陽菜に連れ出される。
学園の廊下ですれ違う生徒たちが、異様な光景に足を止めて囁き合うが、陽菜はそれを睨み一つで黙らせ、真っ直ぐに北倉庫へと結衣を運んでいった。
倉庫の重いシャッターが開く。
一月の冷たい風と共に結衣の鼻を突いたのは、使い古された油の匂いと、激しく飛び散る火花の熱だった。
「……あ」
結衣は、その場で息を呑んだ。
倉庫の中央、無惨に大破したはずのアリエスの周囲には、北倉庫の仲間たちが集まっていた。
巨躯を誇る大門は、上半身を裸にして、アリエスの歪んだ脚部フレームを巨大なプレス機で矯正している。
飛び散る汗が、彼の無骨な背中で光っていた。
その隣では、リン・フェイが精密なセンサー類を一つ一つ分解し、三雲の攻撃で焼き付いた回路をピンセットで丁寧に取り除いている。
琥珀と翡翠は、予備の動力パイプを運び出しながら、ひよりの指示に従ってアリエスの新しい配線図を引き直していた。
ひより自身も、充血した目で複数のモニターと向き合い、三雲の戦闘データを何度も読み返している。
誰も、結衣が来たことに気づかないほど、その作業は鬼気迫るものだった。
「見てなさいよ。あんたがロジックだの敗北だので悩んでる間も、こいつらはあんたの『足』を直してんのよ」
陽菜は結衣をアリエスの足元まで連れて行くと、作業台の上に置かれた巨大なハンマーを指差した。
「私たちは整備士よ。機体が壊れたら直す。それだけ。……でもね、今のあんたは機体以上にボロボロよ。……そのままじゃ、どんなにアリエスを直したって、また同じように壊されるわ」
「……ごめんなさい。私、みんなの顔が見れなくて……。私が、弱かったから……」
「当たり前でしょ! あんたは一年生なのよ。五位の怪物に勝てるわけないじゃない。……でもね、負けっぱなしでいいなんて、誰一人思ってないわ」
陽菜はハンマーを手に取ると、近くにあった廃材の鉄板を、渾身の力で叩きつけた。
ガキンッ!!
倉庫内に、鼓膜を震わせるような激しい打撃音が響き渡る。
大門も、フェイも、双子も、ひよりも。
全員が手を止め、結衣と陽菜の方を向いた。
「鉄はね、叩かれなきゃ強くならないのよ。あんたは今、三雲っていう巨大な槌に叩かれた。……その衝撃で折れるのか、それとももっと鋭い刃に変わるのか。決めるのは、パパのコードじゃない。あんた自身よ」
陽菜はハンマーを結衣の足元に放り投げた。
「あんたがもう戦わないって言うなら、アリエスはここで解体する。……でも、まだ泥を啜ってでも這い上がるつもりがあるなら、あんたも手伝いなさい。自分の機体でしょ!」
結衣は、足元の重厚なハンマーを見つめた。
大門の荒い息。フェイの静かな視線。ひよりの、震えながらも真っ直ぐな瞳。
みんな、負けた結衣を責めてはいなかった。
ただ、彼女が再び立ち上がることを信じて、泥塗れの残骸を磨き続けていた。
「……陽菜さん。私、手が……また少し、震えてる」
「いいじゃない。生きてる証拠よ」
結衣は、ゆっくりと腰を落とし、重いハンマーの柄を握りしめた。
ひんやりとした金属の感触が、感覚を取り戻した手のひらに伝わる。
それは、パパがくれた平滑化のコードよりもずっと生々しく、今の結衣を現実に繋ぎ止めてくれる重みだった。
「……やりたい。私、アリエスを直したい。……もう一度、あの赤い獣と戦いたい」
結衣の声はまだ小さかった。
けれど、その瞳には、敗北の淵で消えかけていた黄金色の火花が、再び微かに灯っていた。
「上等よ。……さあ、野郎ども! 休憩は終わり! 明日までに、このボロギアを地獄から引きずり戻すわよ!」
陽菜の掛け声と共に、再び倉庫内に金属の打撃音が響き始める。
結衣は、自分の弱さと向き合うように、力いっぱいハンマーを振り下ろした。
飛び散る火花。油の匂い。仲間の怒号。
論理だけでは届かない場所がある。
けれど、ここにある熱い泥と、鋼鉄の意志があれば、きっと。
九条結衣の再起は、父のパッチコードではなく、仲間の差し伸べた無骨な手と、一振りのハンマーから始まった。
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次回お楽しみに。




