第15話:論理の崩壊とアリエスの悲鳴
視界が、揺れている。
アリエスのメインモニターに映し出される光景は、パパが用意した『平滑化のコード』によって、常に穏やかで、整理された情報として結衣の脳に届けられていた。
本来なら戦場に溢れているはずの火花や、地面を削る不快な振動、敵機から放たれる暴力的なノイズ。
それらはすべて、娘の心と身体を案じる蓮太の優しさによって、無害な数値へと変換されている。
だが、その優しさが、今この瞬間、結衣の首を絞める絞首刑の縄へと変わっていた。
「……っ、また、消えた……!?」
結衣の叫びが、虚しくコックピット内に響く。
最短経路。
父の論理が導き出す「勝利への最適解」を示す青いラインが、モニターの上で激しく点滅し、そしてブツリと途切れた。
赤い獣、ヴォルガが加速したのではない。
三雲嵐の機動が、学園のシステムが、そして蓮太のロジックが定義する「予測可能な運動」の範疇を、完全に逸脱したのだ。
ヴォルガの両腕が、あり得ない角度で地面を叩き、その反動で機体が不規則な螺旋を描いて宙を舞う。
それは、物理演算を無視したような、野生の獣が獲物の喉笛を狙う際に見せる「殺意の跳躍」だった。
「ひよりちゃん! 予測ラインが出ないの! どこに来るか教えて!」
「……あぅ……ダメです、結衣さん! データの相関性が、ゼロです! 敵機の各ユニットが、全部バラバラの意志で動いているみたいで……観測スタビライザーが、計算を拒絶していますっ!」
ひよりの悲鳴に近い通信が届くのと同時に、アリエスの左側に衝撃が走った。
衝撃波を和らげるはずの平滑化コードが、あえて結衣に衝撃を「伝えなかった」せいで、逆にダメージの把握が遅れる。
気づいた時には、アリエスの左側部装甲は無残に拉げ、そこから火花が噴き出していた。
「あはははは! どうした九条! お前の『正解』はどこに行ったんだよぉ!」
三雲の哄笑が、外部スピーカーを通じてコックピットを震わせる。
ヴォルガの猛攻は、もはや戦闘というよりは一方的な「蹂躙」だった。
四足歩行から二足歩行、さらには低空を滑るような奇形的な機動。
三雲は、アリエスの最短経路が「最も効率的で正しい場所」に逃げることを知っているかのように、その先を、不規則な暴力で潰し回っていた。
「……嫌だ。来ないで……!」
結衣の指先が、冷たくなっていく。
平滑化された視界。情報の角が取れた、優しくて静かな世界。
その温いゆりかごの中で、結衣は、三雲が放つ「本物の殺意」から目を逸らされていた。
父の書いたコードは、結衣を傷つけないために、敵の鋭すぎる牙を、ぼやけた影としてしか認識させない。
見えない。
本当の敵の動きが、この穏やかな情報の中では、どこにも見えない。
「……パパ。助けて……お父さん!」
『結衣! 落ち着け! リンク深度を下げろ! 予測ロジックを再起動する!』
新宿からの蓮太の声。だが、その声もまた、激しいノイズに呑まれつつあった。
蓮太の指先は、キーボードを叩き壊さんばかりに動いている。
だが、彼がどれだけ完璧な数式を編み上げようとも、現場でアリエスの装甲を物理的に引き剥がしていく三雲の「野性」を、数値化することはできなかった。
「……父さん、もう無理だ。……最短経路アルゴリズムが、三雲嵐という『ノイズ』に汚染されて、完全に壊れた」
颯太の冷徹な宣告が、トドメだった。
画面上の最短経路を示す青いラインが、赤く、禍々しいノイズへと変色し、最後には砂嵐となって消滅した。
結衣を支えていた唯一の道標が、音を立てて崩壊したのだ。
「ぎゃははは! 檻が壊れたな、九条! さあ、本物の地獄を楽しもうぜ!」
ヴォルガの巨大な爪が、アリエスの右腕を掴み、そのまま強引に捻じ上げた。
駆動モーターが悲鳴を上げ、金属同士が擦れ合う、耳を突き刺すような不快な音が響く。
――ギギィィィィィィィィィ……!!
それはアリエスの叫びだった。
平滑化コードがどれだけ情報を遮断しようとしても、機体が発する死の振動までは消し去ることはできない。
結衣は、自分の腕が引きちぎられるような幻痛に襲われ、絶叫した。
「結衣っち!!」
北倉庫でモニターを凝視していた琥珀が、立ち上がって叫ぶ。
隣では翡翠が、真っ青な顔で自分の口を両手で塞いでいた。
陽菜は、何もできない自分の手を血が出るほど握りしめ、ただ、画面の中で無惨に蹂躙されていくアリエスを見つめることしかできない。
「……あ、あぁ……アリエス……」
結衣の視界が、涙で滲む。
平滑化された世界が、三雲の暴力によって、真っ赤に染まっていく。
父の論理が、娘を救うためのコードが、皮肉にも彼女の「戦う意志」を奪い去っていた。
アリエスの駆動音が、弱々しく途絶えかける。
最短経路を失い、武器を奪われ、逃げ場のない雪原に、赤い獣の影が重なった。
蹂躙の牙が、結衣の喉元に届こうとしていた。
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次回お楽しみに。




