第11話:観測者の自覚とひよりのスタビライザー
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北倉庫の夜は、校舎のそれよりも遥かに深く、冷たい。
天井の隅で鳴り続ける換気扇の低い唸りだけが、この場所がまだ生きていることを証明していた。
使い込まれた作業デスクの上、山積みにされたモニターの青白い光に照らされて、ひよりは小さな身体を丸めていた。
眼鏡の奥にある瞳は、ひどく充血している。
数日前に行われた、源三との死闘。
あの日、結衣が勝利をもぎ取った瞬間、ひよりは歓喜ではなく、言いようのない無力感に打ちひしがれていた。
観測データが、間に合わなかった。
源三というベテランが積み上げた「経験」という名の巨大な壁に対し、ひよりが提示したデータはあまりにも薄っぺらく、何の役にも立たなかった。
それどころか、結衣が禁忌のプログラムを起動し、その神経を焼き切るまで追い詰められるのを、ただモニター越しに眺めていることしかできなかったのだ。
「……あぅ……まだ、ノイズが取れない……」
ひよりの指先が、キーボードを力なく叩く。
彼女が向き合っているのは、新しく設計した観測ギアのプロトタイプだった。
これまでの観測機は、戦場の情報をありのままに拾い上げ、それを結衣のコックピットに垂れ流すだけのものだった。
だが、今の結衣にはそれが必要ないことを、ひよりは痛いほど理解していた。
パパである蓮太が用意した「平滑化のコード」は、情報の角を丸め、結衣の脳を守るためのものだ。
ならば、その手前で戦場の「濁り」を完全に取り除き、純粋な戦術データだけを抽出する装置が必要になる。
戦場の狂気を、静寂へと変えるためのスタビライザー。それが、ひよりの課した自らへの宿題だった。
「ひより。まだやってんのかよ。あんた、三日くらい寝てないだろ」
背後から響いたのは、重厚な金属の足音と、陽菜のぶっきらぼうな声だった。
陽菜は手に持ったマグカップを、ひよりのデスクの隅に置いた。
中には、煮詰まりすぎて真っ黒になったコーヒーが揺れている。
「……陽菜さん。……私、どうしても、納得できなくて。……結衣さんが、あんなに苦しんだのに、私はただ、数字を見てるだけだったから……」
「馬鹿ね。数字を見てなきゃ、あの一撃のタイミングだって掴めなかったわよ」
「……でも、遅かったんです。……源三先輩の機体の予備動作を、私のアルゴリズムは『誤差』として捨ててしまった。……経験っていうのは、計算の外側にあるものなんだって、思い知らされました」
ひよりの声が、微かに震える。
彼女にとって、世界は全てデータで構成されていた。
その信じていたデータが、一人の人間の「三年間」に完敗したという事実は、彼女の存在理由を根底から揺さぶっていた。
陽菜は大きな溜息をつくと、作業着のポケットから汚れたレンチを取り出し、ひよりが弄っていたセンサーの基板をコンコンと叩いた。
「いい? ひより。私たちはエンジニアよ。失敗したら、それを修正するための新しいコードを書く。それ以外に、自分を許す方法なんてないのよ」
「……新しい、コード……」
「そう。あんたの得意な『観測』でしょ。パパさんがアリエスの内側を守るなら、あんたは外側を全部制圧しなさいよ。結衣が迷わないように、完璧な地図を描いてやるの。それが観測者の仕事でしょ?」
陽菜の言葉に、ひよりの瞳に微かな光が宿った。
そうだ。自分にしかできないことがある。
結衣の脳に流れ込む情報の奔流を、自分がダムのように受け止め、安定させる。
結衣が「平滑化のコード」という鎧を纏うなら、自分はその先を照らす「灯台」になればいい。
ひよりは再び、モニターに向き合った。
今度は、逃げるためではなく、挑むためのタイピングだった。
観測データの周波数を細分化し、結衣の脳波の変動に合わせてリアルタイムでフィルタリングを切り替える。
戦場に溢れる爆発音、電子妨害、そして敵の殺気という名の不確定要素。
それらを全て「定数」へと変換し、結衣の神経に負担をかけない情報の盾を作り上げる。
作業に没頭するひよりの背後で、倉庫の重いシャッターがゆっくりと上がった。
一月の冷たい風と共に、一人の少女が足を踏み入れる。
「……ただいま。みんな」
結衣だった。
新宿での休息を終え、その表情にはかつての脆さは消え、どこか静かな覚悟が宿っている。
その隣には、不貞腐れたような顔をしながらも、姉の荷物を持っている颯太の姿もあった。
「結衣っち! 復活早すぎっしょ!」
奥のハンモックで寝ていたはずの琥珀が、飛び起きて結衣に抱きつく。
翡翠もまた、無言のまま結衣の制服の袖をぎゅっと掴んだ。
倉庫の影からは、巨大なダンベルを置いて立ち上がる大門と、銃の整備をしていたフェイも姿を現した。
「結衣さん。……おかえりなさい」
ひよりは立ち上がり、少しだけふらつきながらも、結衣の前に立った。
その手には、まだ剥き出しの基板が握られている。
「……結衣さん。……次の戦いからは、私が、絶対に……あなたの頭を痛くさせません。……私のスタビライザーが、世界を、止めてみせますから」
ひよりの言葉に、結衣は驚いたように目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「ありがとう、ひよりちゃん。……頼りにしてるね」
北倉庫の空気が、少しだけ熱を帯びた。
結衣の復帰。ひよりの覚悟。
そして、それを見守る仲間たちの静かな闘志。
六十二位。その数字が、もはや「まぐれ」ではないことを証明するための準備は、この冷たい夜の底で着実に進んでいた。
だが、その熱を嘲笑うかのように、学園の深淵では新しい「野生」が牙を研ぎ始めていることを、この時の彼女たちはまだ知らない。
ひよりが作り上げようとしているスタビライザーさえも、一瞬で食い破るような理不尽なまでの暴力。
その影は、すぐそこまで迫っていた。
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次回お楽しみに。




