第9話:九条家の休日とデジタル大掃除
新宿、九条家のリビング。
学園の喧騒と鋼鉄の軋みが嘘のように、そこには穏やかな午後の陽光が差し込んでいた。だが、テーブルの上に置かれたマグカップからは、すでに湯気が消えて久しい。結衣はソファに深く腰掛け、自分の膝の上にある「自分のものではないような手」を、ただぼんやりと見つめていた。
「……あ、つい」
結衣が小さく呟く。お気に入りのホットココアを飲もうとして、指先がカップの熱を捉えるのに、一秒以上のラグ(遅延)がある。指が「熱い」と脳に伝えたときには、すでに皮膚の表面は赤くなっている。神経が焼き付いた代償。それは、世界との接触がデジタルのバリア越しになったような、奇妙な疎外感だった。
「結衣、無理に動かそうとしなくていい。今、リハビリ用の『感覚平滑化パッチ』をコンパイルしているところだ」
リビングの片隅に特設されたワークステーションで、父・蓮太が狂ったようにキーボードを叩いている。数日間学園を休み、実家に戻った結衣を待っていたのは、父による徹底的な「デジタル大掃除」だった。
ワークステーションのモニターには、アリエスの戦闘ログ、結衣のバイタル、そして過去数ヶ月分の全パッチコードが、巨大なデータの滝となって流れている。
「……お父さん、そんなに急がなくても大丈夫だよ。陽菜さんたちも、今はメンテナンス中だし」
「いや、ダメだ。僕が甘かった。一条との戦いで勝てたからといって、あんな劇薬を実戦投入するなんて……技術者失格だ。今回の『掃除』は、アリエスのためじゃない。僕の……僕自身の甘さを洗い流すためのものだ」
蓮太の目は赤く充血し、無精髭が伸びている。彼はアリエスのコードの中に蓄積された、ゼロ・リンクの「毒」――神経系を狂わせる過剰なフィードバックの残滓を一文字ずつ丁寧に取り除き、代わりに結衣の今の感覚に寄り添うための、繊細なフィルターを編み上げていた。
「父さん、そのへんにしておきなよ。サーバーのキャッシュが溢れてる。……あ、姉貴、そのココア、僕が温め直すよ」
部屋の反対側で、自分のノートPCを操っていた弟の颯太が立ち上がった。彼は無表情に結衣からマグカップを取り上げると、キッチンへと向かう。颯太のモニターには、源三の機体『ギア・ファング』の挙動解析データが映し出されていた。
「……颯太くん、ごめんね。お休み中なのに」
「別に。……僕も、あの三年生が言った『時間の重み』って言葉が気になってるだけだから。……父さんの最短経路ロジックを、あんな風に『物理的な癖』で読み切るなんて。……データの掃除だけじゃ、次は勝てないよ」
颯太の冷徹な言葉は、家族だからこその鋭さを持っていた。
蓮太の指が、一瞬止まる。
彼は大きく息を吐き、キーボードから手を離して結衣に向き直った。
「……颯太の言う通りだ。今回の『大掃除』で見えてきたのは、アリエスの性能限界じゃない。僕たちが、結衣の『感覚』という変数を、あまりにも粗末に扱っていたというログだ。……結衣、ちょっとこっちへおいで」
結衣はおぼつかない足取りで父の隣に座る。蓮太は、結衣の感覚が失われた指先を、壊れ物を扱うようにそっと取った。
モニターには、結衣の神経系とアリエスのOSを繋ぐための新しい接続定義が表示される。
$$H(s) = \sum_{n=1}^{\infty} \frac{Neural\_Residual(n)}{s + \lambda_{recovery}}$$
「これが、新しいリハビリ・コードの核だ。……今の結衣の指先は、強すぎる入力に耐えかねて、門を閉じてしまっている。だから、逆に『何もない』という信号を流すことで、神経の緊張を解いてやる必要があるんだ」
蓮太がエンターキーを叩くと、結衣の手首に巻かれた医療用デバイスが微かに振動した。
何も感じない。だが、その「何も感じない」という感覚さえもが、少しずつ、穏やかな「静寂」として結衣の脳に浸透していく。暴力的な情報の濁流ではない、凪のようなデータ。
「……あ。……少し、軽くなった気がする」
「よかった。……これでお掃除の第一段階は終了だ。アリエスの古いゴミ(ジャンク・パッチ)も全部捨てた。これからは、結衣の感覚に寄り添い、共に育つための新しいロジックを組もう」
その時、結衣のスマートフォンが震えた。琥珀からのビデオ通話だ。
『結衣っちー! 息してるー!? マジで新宿の空気どうよ? ウチら今、北倉庫の大掃除(物理)してんだけど、翡翠がホコリで死にかけててマジウケる!』
画面の中で、埃まみれになりながら陽菜に怒鳴られている琥珀の姿。その横で、涙目になりながらフィルターを掃除している翡翠。
結衣は、感覚の戻らない手で一生懸命スマートフォンを支え、笑った。
「琥珀くん……ありがとう。私も今、お父さんにデジタルのお掃除をしてもらってるよ」
『マジ? 掃除とかいいから早く戻ってきてよ! 結衣っちがいないと、陽菜さんの説教、全部ウチに来るんだから! マジでしんどいし!』
琥珀の底抜けに明るい声と、翡翠の「……結衣さん、待ってる」という静かな呟き。
家族の温もりと、仲間の騒がしさ。
デジタル大掃除を経て、結衣の心の中にあった「戦うことへの恐怖」というゴミも、少しずつ掃き出されていく。
「……お父さん。私、やっぱりアリエスが好きだよ。手が治ったら、もっとちゃんとお話ししたい」
結衣の言葉に、蓮太は深く、深く頷いた。
三学期はまだ始まったばかり。九十八位。最底辺からの再出発は、傷ついた神経を癒やし、自分たちだけの新しい「論理」を見つけるための、静かな休日から動き出そうとしていた。
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次回お楽しみに。




