第8話:勝利の代償と麻痺した指先
喧騒が、遠い世界の出来事のように感じられた。
演習場の巨大モニターに躍る『WINNER: YUI KUJO』の文字。それを目にした観客席の三年生たちは、言葉を失い、ただ呆然と砂塵の中に立ち尽くす深紅のアリエスを見下ろしていた。学園の秩序が、絶対の経験則が、たった一人の一年生によって――それも「ゴミ捨て場」の住人によって、物理的に粉砕されたのだ。
だが、その勝利の主役である結衣の視界は、暗転したコックピットの中で、ただ静かな絶望に満たされていた。
『ゼロ・リンク』。
強制的に遮断された同期の残滓が、神経の奥底で鋭い耳鳴りとなって響いている。結衣は大きく深呼吸をし、強張った体を解こうとした。しかし、異変はそこにあった。
「……あれ……?」
操縦桿から手を離そうとしても、指が動かない。
意識は「指を開け」と命令を出している。脳内には、確かに自分の右腕と左腕がそこにあるという地図が存在している。だが、そこから先の末端神経が、まるで冷たいコンクリートで固められたかのように、一切の信号を拒絶していた。
痛みはない。熱くもない。ただ、自分の体の一部が、自分の意志を無視して「無」へと還ってしまったような、得体の知れない恐怖が這い上がってくる。
『結衣! 結衣、聞こえるか! 応答しろ!』
新宿の通信ウィンドウから、パパの声が響く。先ほどまでの、技術者としての冷徹な指示ではない。そこにあるのは、一人の父親としての、震えるような後悔と焦燥だった。
結衣は震える唇を動かし、かろうじてマイクに声を乗せた。
「……お父さん。勝ったよ。勝ったけど……手が、動かないの」
その言葉が通信を介して届いた瞬間、新宿の作戦室に凍りつくような沈黙が流れた。
蓮太の目の前のモニターには、結衣の神経電位図が、真っ白な横一線のままで停止している。それは、過負荷によってシナプスが一時的な「燃え尽き」を起こし、通常の神経信号を通さなくなっていることを示していた。
『……すまない。僕のせいだ。……すぐに陽菜さんたちが行く。絶対に自分から動こうとするな。いいな、結衣! 脳が指先を見失っているだけだ、時間はかかるが、必ず治る……!』
蓮太の言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
その時、アリエスの外部ハッチが荒々しく叩かれ、強制開放レバーが回る音が響いた。
「結衣! 無事なの!? 結衣!!」
陽菜の声だ。ハッチが跳ね上がると、一月の冷たい外気と共に、陽菜とひより、そして琥珀と翡翠の顔が飛び込んできた。
結衣はシートに沈み込んだまま、力なく笑おうとした。だが、顔の筋肉さえも、うまく動いてくれない。
「陽菜さん……。アリエス、壊しちゃったかな」
「バカなこと言わないで! 機体のことなんてどうでもいいわよ! あんた、その手……!」
陽菜が結衣の両手を取り、自身の温かい手で包み込んだ。
結衣には、その感触がわからなかった。陽菜の手がどれほど震えているのか、どれほど熱いのか。まるで厚手の防護手袋越しに触られているような、あるいは、遠い別室で起きている出来事を眺めているような、極端に希薄な感覚。
「マジでありえない……。結衣っち、マジで指、真っ白じゃん。冷たすぎだし、ウチのネイルより血色悪いよ……」
琥珀が結衣の手を覗き込み、その震える声に隠しきれない動揺を滲ませる。彼女はいつもの軽快な調子を取り戻そうとしていたが、結衣の指先がピクリとも動かない現実を前に、言葉を失っていた。
「……音が、消えてる」
翡翠が結衣の隣で、フードを深く被りながら呟いた。
「……結衣さんの手から、ログが流れてこない。……空っぽの、ただの器みたいになってる……」
ひよりはタブレットを片手に、アリエスの残存データを必死に解析していた。
「……ゼロ・リンクの残存電圧、まだ神経節に残ってます。……無理やりバイパスを作ったせいで、本来の神経回路が『自分たちの仕事は終わった』と誤認して休止状態に入ってる……。これ、再起動には、かなりの時間がかかりますよ……」
ひよりの分析通り、結衣の指先は鉛のような重さを保ったまま、意志という名の電流を弾き返し続けていた。
演習場のスタッフが駆け寄り、アリエスを回収しようとする。その横を、敗北した源三が、自身のボロボロになった機体から降りて通り過ぎようとした。
源三は一度だけ足を止め、陽菜たちに抱えられてコックピットを降りる結衣を見た。
「……九条結衣」
源三の声に、もはや先ほどの傲慢さはなかった。
「……君が払った代償は、安くない。だが、認めよう。……今の学園に、自らを焼き切ってまで『論理』を超えようとする狂気は、君以外に存在しなかった」
源三はそれだけ言い残し、肩を落として去っていった。
九十八位の少女が、六十位のベテランを撃破した。そのニュースは瞬く間に学園中を駆け巡るだろう。だが、北倉庫へと戻る運搬車の中で、結衣たちの間に勝利を祝うムードは一切なかった。
車内の狭い空間で、結衣は自分の膝の上に置かれた「動かない両手」を、ただ見つめていた。
一月の風が、結衣の頬を撫でる。
勝利の代償。それは、自慢のパパがくれた「力」を、自分の体の一部に変換し、そしてその代償として「自分自身の感覚」を失うという、過酷な等価交換だった。
『……結衣。これから、リハビリのコードを書く。時間はかかるが、必ず元に戻すからな』
新宿の父の、痛々しいほど優しい声。
結衣は答えようとしたが、ただ、感覚のない指先を、もう片方の動かない手で、無意味に握りしめようと試みるだけだった。
三学期。始まったばかりの戦いの、これが本当の「洗礼」だったのだ。
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