第4話:最短経路の限界と経験値の暴力
視界が真っ赤に染まっていた。
アリエスのコックピット内に鳴り響く、けたたましいアラート音。それは機体の損傷を知らせる警告であると同時に、結衣の心が折れかかっていることへの悲鳴のようでもあった。正面に迫る源三の『ギア・ファング』。その巨大な右拳が、重力の底から引き抜かれるような重厚な動作で、アリエスの頭部を粉砕せんと迫っていた。
「……終わりだと言ったはずだ、九条結衣。君の論理は、美しすぎるがゆえに脆い」
源三の声には、勝利への確信が冷たく滲んでいた。
結衣は操縦桿を必死に引き寄せるが、モニターに映る「最短経路」の青いラインは、どこを指しても赤く塗り潰されていく。右へ逃げればパイルバンカーが、左へ逃げればシールドによる圧殺が、後ろへ下がれば学園のシステムによる出力制限が待ち構えている。
パパのロジックは完璧だ。だが、その完璧さを「経験」という名のフィルターで濾過し、不純物を全て予測し尽くしている源三の前では、それはただの「なぞり書き」に過ぎなかった。
「お父さん……当たらない。どこを走っても、あの人の壁があるの……!」
『結衣、諦めるな! 今、新しいバイパスを構築して……!』
新宿からの通信。蓮太の叫びが聞こえるが、その背後で鳴り響く警告音は、新宿のサーバーさえも源三の予測アルゴリズムにオーバーランされつつあることを示していた。
パパの書く論理は、あまりにも「正解」を選びすぎた。そして源三は、その正解を熟知した上で、三学期の冷徹な現実を叩きつけてくる。
「……マジ無理なんだけど! あのおっさん、人のパパの努力を馬鹿にしてんの!? 結衣っち、マジでカマして! そこで終わったらウチ、一生許さないからね!」
通信ウィンドウで琥珀が叫ぶ。彼女の派手なメイクの下、瞳には涙が滲んでいた。隣で翡翠は、真っ青な顔でデータを指し示す。
「……結衣さん、ダメ。……アリエスの波形が、システムの『檻』に閉じ込められてる。……今のままじゃ、あと零点四秒で、消えちゃう……」
零点四秒。
死を予感した刹那、結衣の右手が、コンソールに輝く銀色の端子へと吸い寄せられた。冬休み、お父さんから託された最後のお守り。論理を焼き切り、感覚を直結させる禁忌のプログラム――『ゼロ・リンク』。
「……お父さん。私、アリエスと『一つ』になりたい」
結衣がそのチップを押し込んだ瞬間、世界から音が消えた。
鼓膜を突き破るような高周波の電子音が脳内を駆け抜け、背骨に沿って灼熱の火花が走る。それはパパの書いた優雅な論理回路ではなく、結衣自身の神経を剥き出しの電線に変え、アリエスの駆動モーターへと直接溶接するような、暴力的な接続だった。
$$S(t) = \int_{0}^{T} \Phi(Neural \cdot Logic) dt \quad \text{where} \quad \Phi \to \infty$$
視界の端で、颯太が仕込んだ監視コードが激しくエラーを吐き出している。
神経同期率、一〇〇%。
身体へのフィードバックを遮断するリミッターが全て消失し、アリエスの装甲に触れる一月の風の冷たさ、源三の機体が放つ熱量、そして大地を這う微かな振動の全てが、結衣の皮膚感覚として流れ込んできた。
「あ、が……あぁぁぁぁぁっ!」
結衣の叫びと共に、アリエスの挙動が一変した。
それはもはや「機動」ではなかった。物理演算の限界を無視し、関節部から火花を散らしながら、アリエスはあり得ない角度で上半身を捻った。源三の『ギア・ファング』の拳が、結衣の鼻先数ミリをかすめて空を切る。
「……何だと!? 回避プログラムを無視しただと!?」
源三の驚愕。彼の「経験」という名のデータベースに、今の動きは存在しなかった。
機械ならば安全装置が働くはずの、自らを壊しかねない無理な捻転。最短経路を無視し、ただ「避ける」という本能のみに突き動かされた、システム上のバグ。
「お父さん……見える。最短経路じゃない……『私が行きたい道』が見える!」
結衣の瞳は、過負荷によって黄金色のノイズを撒き散らしていた。
アリエスは地面を蹴るのではない。結衣の足が地を蹴る感覚のまま、装甲を軋ませて跳躍した。源三の予測を「予測の土俵ごと」踏み潰す、野生のロジック。
最短経路が描く直線の美しさを捨て、曲がりくねり、歪み、けれど誰にも先読みさせない「不完全な正解」。
アリエスの右腕が、源三の死角へと吸い込まれるように突き出された。
それは、父の書いた論理と、娘の熱い情熱が、システムの火花となって共鳴した瞬間だった。
「行くよ……アリエス!」
鋼鉄の拳が、精密機械の心臓部へ向けて放たれた。




