第21話:日常と視線
聖エルモ学園の廊下を歩くとき、結衣が感じる「空気」は、一週間前とは劇的に変化していた。
これまでは、透明人間のように無視されるか、聞こえよがしに「適性なし」と嘲笑われるかのどちらかだった。だが今は、結衣が通り過ぎるたびに会話が止まり、刺すような、あるいは値踏みするような視線が背中にまとわりつく。
(……みんな、私のことを見てる。でも、前とは違う……)
それは、得体の知れないバグを見つけた時のエンジニアのような、困惑と警戒の入り混じった視線だった。
教室に入れば、そこにはもはや「掃き溜め」の暗さはなかった。結衣の席の周りには、当然のようにDクラスの面々が集まっている。
「おはよー結衣っち! 今日もアゲアゲで行こうよ!」
「……おはよう。……機体ログ、更新した」
琥珀が眩しい笑顔で手を振り、翡翠がフードの奥から昨日解析したばかりのデータを差し出す。ひよりは「結衣さん、おはようございます!」と、まだ少し緊張気味だが、それでも以前よりずっと顔を上げて挨拶をしてくれた。
「九条、少し面を貸せ」
昼休み。学食へ向かおうとした結衣を呼び止めたのは、Aクラスの数人の生徒たちだった。進藤の取り巻きだった者たちだ。彼らの表情には、エリートとしてのプライドが傷つけられたことへの、隠しきれない苛立ちが浮かんでいた。
「……何か用?」
「昨日の試合、あれは一体何をしたんだ。学園の公式ログには異常がないが、あんな旧型機が最新のAI予測を外れるなんて物理的にあり得ない。……何か、裏で不正な外部通信でも行っているんじゃないのか?」
核心を突くような問いに、結衣の心臓が跳ねた。
だが、言い返すよりも先に、結衣の前に「壁」が立ち塞がった。
「……九条に、何の用だ」
超重量級の巨躯を持つ大門豪が、無機質な瞳でAクラスの生徒たちを見下ろしていた。ただ立っているだけで、周囲の温度が数度下がったかのような威圧感がある。
「大門……! Dクラスの落ちこぼれが、しゃしゃり出るな!」
「……不正だと言うなら、証拠を持ってこい。……できないなら、消えろ。練習の邪魔だ」
大門の静かな、だが拒絶を許さない言葉に、Aクラスの生徒たちは舌打ちをして去っていった。大門は彼らがいなくなったのを確認すると、ゆっくりと結衣に振り返った。
「……気にするな、九条。……お前の走りは、本物だ。俺たちが、知っている」
「……ありがとう、大門くん」
結衣は胸を撫で下ろした。孤独だった頃なら、今の糾弾に耐えられなかったかもしれない。だが、今は背中を預けられる仲間がいる。その実感が、結衣を強くしていた。
一方、新宿のオフィス街。
九条蓮太(40歳)は、絶望的なほど積み上がった書類と、鳴り止まないチャット通知の中で、静かに「マルチタスク」をこなしていた。
「九条! A社の修正パッチ、まだ上がってこないのか! クライアントがロビーで待ってるんだぞ!」
「……佐竹課長。今、本番環境へのデプロイ準備をしています。あと三〇〇秒待ってください。それ以上急かすと、整合性が崩れてサーバーが死にますよ」
蓮太は眼鏡を指で押し上げ、感情の消えた声で返した。四十歳のプロSEとして、彼は「無能な上司の怒号」を単なる低周波ノイズとして処理する方法を熟知している。
彼のモニターの隅には、業務用のコードに隠れるようにして、学園のシステムへの「バックドア」が開かれていた。
(……結衣の周りが騒がしくなってきたな。Aクラスの連中、外部通信の可能性に気づき始めたか。……なら、偽装レイヤーをもう一段深くするしかないか)
蓮太はキーボードを叩く。彼が今、仕事の合間に進めているのは、来るべき筑波の研修旅行に向けた「超広域・分散型演算サーバー」の構築だった。
学園を離れ、通信環境が不安定になる筑波でも、娘をリアルタイムでサポートし続けるために。蓮太は、自宅のPCと会社の使われていない待機サーバー、さらにはフェイを通じて確保した闇のクラウドサーバーを繋ぎ、巨大な「パパ専用演算網」を作り上げていた。
「……よし、これで筑波のどこにいても、一ミリ秒のラグもなく接続できる。……エンジニアの意地を見せてやるよ、佐竹課長。あんたの言う『社運』より、俺には大事な『プロジェクト』があるんでね」
蓮太は、デプロイ完了のエンターキーを静かに叩いた。
それと同時に、結衣のスマートフォンが短く震える。
『結衣。視線を恐れるな。……見られているということは、お前がそれだけ「予測不能」な存在になった証だ。……パッチの更新は終わった。明日の練習から、新しい姿勢制御アルゴリズムを試す。……晩飯は、お前の好きなハンバーグだそうだ。早く帰ってこい』
結衣はスマホの画面を見て、ふっと微笑んだ。
日常の中の、変わらない優しさと、プロとしての厳しさ。
学園中の視線が自分に向けられていようとも、自分を信じて、最強の論理で支えてくれるパパがいる。
結衣は力強く歩き出し、北倉庫へと向かった。そこには、今日も彼女を待つ「最高のノイズ」たちが待っている。
「よし、みんな! 練習、始めよう!」
秋の陽光が差し込む倉庫の中で、結衣の声が晴れやかに響いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【☆☆☆☆☆】をいただけますと幸いです。
次回お楽しみに。




