第16話:余韻と確信
聖エルモ学園のメインアリーナに響き渡った喝采は、帰宅の路についてもなお、結衣の鼓膜の奥で熱く脈打っていた。右脚を壊されたアリエスで、ランキング上位の最新鋭機を打ち破った。その事実は、これまで「無能」と蔑まれてきた彼女の心に、消えない火を灯していた。
だが、その火をさらに強く燃やしているのは、勝利の余韻だけではない。コクピットのモニターに躍った、あの力強いメッセージ。
> **Dad is Online(パパが接続しました)**
「……ただいま」
夜の九条家。玄関のドアを開けると、いつものようにカレーの匂いと、テレビから流れるプロ野球速報の音が聞こえてきた。リビングでは、父・蓮太がくたびれたワイシャツの袖を捲り、缶ビールを片手にソファに深く沈み込んでいた。
「お、結衣。おかえり。……今日は遅かったな」
蓮太はテレビに向けた視線を動かさず、ボソリと言った。その姿は、どこからどう見ても、四十歳の中堅エンジニアとして会社で揉みくちゃにされ、アルコールで一日をリセットしようとしている「冴えないおじさん」そのものだ。
「……うん。ちょっと、演習が長引いちゃって」
「そうか。飯、あかりが置いてくれてるぞ。レンジで温めなさい」
あまりにも、いつも通りすぎる。今日、娘が退学を賭けた決闘に挑んでいたことなど、まるで知らないかのような態度。だが、結衣は知っている。この人が、あの一分一秒を争う極限の戦場で、誰よりも速くキーボードを叩き、自分を死地から救い出してくれたことを。
結衣はキッチンでカレーを温め、ダイニングテーブルについた。蓮太もまた、空になった缶を置いて、結衣の向かいに座り直す。
「……お父さん」
「なんだ」
「今日の試合、見てた?」
直球の質問に、蓮太の眉がピクリと動いた。彼は湯気の立つお茶を啜り、少しの間を置いてから答えた。
「ああ。……お母さんから聞いたよ。なんでも、Aクラスの有名な子に勝ったんだってな。良かったじゃないか」
「『お母さんから聞いた』、だけ?」
「……それ以外に何がある。俺は今日、朝からA社のサーバー障害でそれどころじゃなかったんだ。佐竹課長にさんざん絞られてな。見てみろ、この目の隈を」
蓮太はふぅと溜息をつき、首筋をさすった。完璧な演技だ。四十歳の働き盛り、過労気味のエンジニア特有の、あの「自分の半径数メートル以外には興味がありません」という疲弊したオーラを全身から出している。普通の娘なら、ここで引き下がっただろう。だが、結衣はもう、中等部までの「お父さんに守られているだけの子供」ではなかった。
「お父さん。……これ、何?」
結衣はスマートフォンの画面を起動し、テーブルの中央に置いた。表示されているのは、学園の公式端末には存在しないはずのアプリ――『Dad is Online』のアイコンだ。
「……なんだ、その変な名前のアプリは。最近の流行りか? 最近の若者のセンスは分からんな」
「お父さんのパソコンから、私のスマホに強制インストールされたやつだよ。……お父さん、私のスマホの管理者権限、勝手に握ってるでしょ」
「……はは、バカを言うな。俺はただのSEだぞ? そんな高度なハッキングなんてできるわけが……。そもそも俺のITスキルは、エクセルのマクロでヒーヒー言ってるレベルだ」
蓮太の白々しい言葉を遮るように、結衣は画面をスワイプした。そこには、今日の試合中に流れた実行ログの一部が、テキストファイルとして保存されていた。
「これを見て。アリエスの姿勢制御をオーバーライドした時のコード。……ここ、『// FIXME: Yui's habit』ってコメントが書いてある」
蓮太の動きが、凍りついた。
「私の操縦の癖を『FIXME(要修正)』なんて書くの、世界中で一人しかいないよ。……お父さん、私が小さい頃にプログラミングの真似事をしてた時、いつも私の書いたコードに同じコメントを入れてたよね。『結衣、ここが美しくないぞ』って」
「……それは、単なる偶然というか、業界の一般的な記述というか……。SEなら誰しもが通る道で……」
「まだしらばっくれるの? じゃあ、もう一つ。……今日の『ONE-LEG-STAND』パッチ。あの物理演算のショートカット方法……。これ、お父さんが昔、私に自慢してた『冗長な多重ループを消し飛ばす魔法』と同じアルゴリズムだよね。線形代数の使い方が全く一緒だよ」
結衣は立ち上がり、蓮太の目を見据えた。
「アプリの名前が『Dad』。メッセージの差出人が『Dad』。……これでバレてないと思ってるなら、お父さんのセキュリティ意識、ザルすぎるよ。会社で研修受けてないの? それとも、わざと?」
「……佐竹の名を出すのは、やめなさい。あいつの顔を思い出すだけで胃に穴が開きそうだ」
蓮太は観念したように両手を上げ、深く、本当に深い溜息を吐いた。その顔から「冴えないサラリーマン」の仮面が剥がれ落ち、代わりに、現場で数々の修羅場を潜り抜けてきた「四十歳の超一流エンジニア」の、冷徹なまでに研ぎ澄まされた眼差しが顔を出した。
「……いつからだ」
「最初からだよ。変なアプリが入った時から、怪しいと思ってた」
「……バレバレだったか。もう少し匿名性を高くすべきだったな。……プロキシをもう一段噛ませて、ヘッダ情報を偽装して、名前も『System_Admin』とかにしておけば……いや、逆におかしいか……。現場のSEは『Dad』なんて甘い言葉は使わんからな……」
蓮太はボソボソと、エンジニア特有の早口で反省点を列挙し始めた。その姿を見て、結衣の心から、緊張の糸がふっと解けた。
「どうして、隠してたの?」
結衣の問いに、蓮太は少し気まずそうに、けれど真剣な顔で答えた。
「……お前を、学園のシステムから守りたかった。あそこのOSは、歪んでいる。特定の脳波、特定の『才能』だけを選別するように作られてるんだ。……そんな場所で、お前が一人で傷つくのを見ていられなかった」
蓮太は立ち上がり、キッチンの隅にある古いノートPCを持ってきた。画面を開くと、そこには学園のセキュリティ・アラートを無効化する幾重ものプログラムと、結衣の乗るアリエスの詳細な3Dモデルが浮かび上がっていた。
「でも、俺が手を出せば、それは外部からの『不正介入』になる。バレればお前は退学だし、俺も無事じゃ済まない。四十歳の再就職は厳しいんだぞ。……だから、正体不明の『守護バグ』として支援するつもりだったんだ」
「……お父さん。退学になるのが怖かったら、あんな無茶な試合、受けてないよ」
結衣は蓮太の横に座り、その画面を覗き込んだ。そこには、今日自分が感じたアリエスの「軽さ」の正体――数十万行に及ぶ、父の執念の塊のようなコードが並んでいた。
「お父さん……これ、全部一晩で書いたの?」
「……まあ、会社のサーバーの余剰リソースを少し拝借したからな。……結衣。今日の勝利は、お前の技術があったからだ。俺のパッチは、お前の『指先の感覚』を前提に設計してある。他の誰が乗っても、あのアリエスは一歩も動かずに爆発するぞ」
蓮太は照れ隠しのように、結衣の頭を乱暴に撫でた。四十歳の男が、娘のために満員電車で命を削ってコードを書く。それは、どんな言葉よりも重く、温かい、エンジニアなりの愛情の証明だった。
「お父さん。……これからも、手伝ってくれる?」
結衣の言葉に、蓮太は少しの間、無言で画面を見つめていた。娘を戦場へ送り出すことへの、親としての葛藤。だが、今の結衣の瞳には、かつての「諦め」は微塵もなかった。
「……いいだろう。ただし、条件がある」
「条件?」
「俺は、お前の『パパ』としてじゃない。お前という機装パイロットを支える、『リードエンジニア』として参加する。……プロの仕事だ。俺が『退け』と言ったら退け。ハードウェアが悲鳴を上げているのに、無理な機動はさせない。……いいか?」
蓮太の言葉は厳しかった。だが、それはエンジニアとしての、そして父としての最大限の信頼の裏返しだった。
「……了解です、リードエンジニア」
結衣は背筋を伸ばし、悪戯っぽく笑って敬礼した。蓮太もまた、少しだけ口角を上げ、ノートPCのキーボードに指を置いた。
「よし。……じゃあ、まずは今日のログのフィードバックからだ。右脚の油圧バッファ、一ミリ秒遅延させてたな。お前の反射神経なら、あと零・五ミリ秒は詰められるはずだ。……夜食の準備はできてるか? 今夜は長くなるぞ。デバッグの夜は明けないからな」
「……うん!」
夜の九条家。テレビの野球速報はもう聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、軽快なタイピング音と、それを真剣に覗き込む少女の、希望に満ちた声。
**Dad is Online.**
その接続は、もはや単なる遠隔支援ではない。父と娘、ソフトとハード、論理と情熱。二人の運命が、物理レイヤーで完全に「接続」された瞬間だった。
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Dad is online
次回も無事にログインできますように。




