第13話:窮地と深夜
深夜二時。聖エルモ学園の北倉庫は、墓場のような静寂と、焦燥感に満ちていた。
作業灯の冷たい光が、右脚を失った騎士のように無惨に傾いた『アリエス』を照らしている。
「……ダメだ。やっぱり圧が逃げちまう」
トメが忌々しそうに、油まみれの軍手を床に叩きつけた。
切断された動力パイプの断面は、あり合わせのパテとテープで塞がれているが、機体を立たせるための高圧油圧には到底耐えられない。ポンプを回すたびに、無慈悲な青い冷却液が傷口から溢れ出していた。
「トメさん、まだです。まだ、やれることはあります」
結衣の声は、疲労でかすれていた。
彼女は機体の下、オイルの海に膝をつきながら、予備のバイパス配線を必死に繋ぎ直していた。指先は細かな傷で赤く腫れ、感覚はとうに麻痺している。
「お嬢ちゃん、無茶だよ。脚の一本が死んでるってのは、機体のバランス制御が全部パーになるってことだ。今のシンクロ・ドライブなら自動で補正してくれるが、マニュアル操作のお前さんじゃ、一歩踏み出した瞬間に転倒して終わりさ」
「……分かってます。でも、あきらめたくないんです」
結衣は、コンソールの脇に置いたスマートフォンを見つめた。
画面は暗い。父からの連絡は、一時間前から途絶えている。
だが、結衣には確信があった。
父は今、どこか遠くで、自分と同じように眠れぬ夜を過ごし、戦っているはずだ。
* * *
同時刻、新宿。帝都システムソリューションズのオフィス。
全ての明かりが消えたフロアで、唯一、サーバー室の前のデスクだけが青白い光に浮かび上がっていた。
「……計算が合わない。あと、コンマ二秒の猶予が必要だ」
九条蓮太は、ネクタイを緩め、鬼気迫る表情で三枚のモニターと対峙していた。
彼の周囲には、エナジードリンクの空き缶と、複雑な物理演算式が書き殴られたメモ帳が散乱している。
蓮太が今行っているのは、もはやプログラミングの域を超えた「魔術」だった。
一本の脚が死んでいるなら、残った左脚と腰の駆動モーター、そして背中のスラスター出力をミリ秒単位で「同期」させ、擬似的な「一本足の跳躍機動」を成立させる。
「サーバーの演算リソースを三〇%解放。予備ノードを仮想メモリに割り当て……。佐竹課長、文句は後でいくらでも聞いてやる」
蓮太は会社の基幹サーバーの一部を、娘のパッチのシミュレーション用に「徴用」した。
本来なら懲戒免職モノの暴挙だ。だが、今の蓮太にとって、会社の地位など路傍の石に等しい。
(物理的な欠損を、論理で埋める。……それがSEの本懐だ)
蓮太の指が、キーボードを叩く。その音は、もはやタイピング音ではなく、戦場を駆ける銃声のように鋭く、速い。
その時、蓮太の端末に一通のプライベート・メッセージが届いた。
差出人は、颯太。
『親父、進藤の機体のログを学園のパブリック・アーカイブから引っこ抜いたよ。あいつ、右旋回にわずかな「ラグ」がある。最新AIが優秀すぎて、あいつの脳波の癖を消しきれてない。……これ、使えるでしょ?』
メッセージと共に送られてきたのは、緻密に解析された進藤拓海の挙動データだった。
「……ふん。颯太にしては、働きすぎるな」
蓮太の口元がわずかに緩む。
弟が敵の弱点を暴き、父がそれを突くための牙を研ぐ。
不器用な家族の連鎖が、絶望的な状況を少しずつ、だが確実に塗り替えていく。
* * *
「……結衣、入るわよ」
北倉庫の扉が開き、母・あかりが姿を現した。
彼女の手には、丁寧にラップで包まれた、まだ温かいおにぎりの包み。
「お母さん……どうしてここに」
「お父さんに場所を聞いたの。……お母さん特製の、おにぎり。これ食べないと、力が出ないでしょ?」
あかりはおっとりと微笑み、オイルまみれの結衣の頬を、ハンカチで優しく拭った。
「私には、機械のことはよく分からないけれど。……九条家のみんなが、一度決めたことを投げ出すはずがないってことだけは知ってるわ。……ね、トメさんも。娘がお世話になっております」
「……へっ。母親には敵わないねえ」
トメは苦笑いしながら、あかりからおにぎりを受け取った。
結衣は、一口おにぎりを頬張った。米の甘みと塩気が、疲弊した体に染み渡る。
(一人じゃない。……お父さんも、颯太も、お母さんも、トメさんも。みんな私を支えてくれてる)
結衣の目に、力が戻った。
その瞬間、スマートフォンの画面が眩い光を放った。
漆黒の画面に躍る、あの青い文字列。
『Compile Success.』
『Project "K-Shell" evolved to: "ONE-LEG-STAND"』
『Dad is Online.』
そして、父からの短い、だが震えるような決意が込められたメッセージ。
『パッチを送った。……結衣、明日は「一歩目」だけを信じろ。後の計算は、全部お父さんがやっておいた』
「――っ、はい!」
結衣は立ち上がった。
アリエスのメインカメラが、呼応するように鋭い閃光を放つ。
窮地の夜は明ける。
残された時間は、あと四時間。
落ちこぼれが世界を覆すための、究極の「一行」は、今ここに完成した。
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次回お楽しみに。




