呪われし古城の魔女と幼馴染の勇者
「よく来た。わたくしを殺す者よ」
荒れ果てた部屋の窓辺に置かれた、質素な木製の椅子。
ジェルメーヌはその椅子に座ったまま、来訪者を見つめていた。
蜂蜜色をした長い髪が、ジェルメーヌの形の良い顔を包んでいる。
瞳の色は、鮮やかな緑。可憐な唇は、桃の色。
着ているものは、いかにも虜囚らしい、簡素な白いワンピース。
細い手足も、まるで血が通っていないかのように白い。
悪名高い魔女ジェルメーヌは、愛らしい少女の姿でほほ笑んでいた。
ジェルメーヌは椅子から立ち上がった。
ここの窓からの景色も見納めだろう。
景色といっても、木の葉と枝が見えるだけ。
楽しみといったら、小鳥やリスが遊びに来てくれること。
窓ガラスは、とうの昔に割れてしまっていた。
自分がいなくなったとて、惜しむ者はいない。
小鳥やリスが惜しんでくれるとも思えない。
彼らも数日間は不審に思うかもしれないけれど……。
きっとすぐに、ジェルメーヌのことなど忘れるだろう。
「……抵抗はせぬ」
ジェルメーヌは静かに言った。
◆◇◆◇◆
深い森の奥に建つ、『忘れられた城』。
この城の前には今、勇者リオネルが立っていた。
魔王を倒した、当代の英雄である。
リオネルは緑の葉に覆われた古城を見上げた。
「ここか……」
つぶやくと、リオネルは剣を抜いた。
リオネルの視線の先には、蔦に隠された扉があった。
その石造りの古城は、壁中に蔦が這い、ところどころが崩れ始めていた。
この朽ちかけた城には、一つの言い伝えがある。
古の魔女、ジェルメーヌが幽閉されているというのだ。
悪しき魔女ジェルメーヌは、その美貌で勇者フローリアンを惑わせた。
そのために、一つの国が滅んだと伝えられている。
伝説の勇者の時代から、すでに千年以上の時が過ぎた。
人々は本で、芝居で、吟遊詩人の歌で、勇者フローリアンの活躍を伝えてきた。
勇者フローリアンの知恵と勇気に胸を躍らせ、卑劣な魔女ジェルメーヌに怒りを覚える。
最後には勇者フローリアンが、魔王を討伐する。
この英雄譚を、人々は心から愛した。
――魔女ジェルメーヌなど、勇者の物語の脇役だった。
ジェルメーヌのいる部屋に入ってきたのは、長身の逞しい男だった。
年の頃は、二十代半ばくらい。
燃えるような赤毛に、琥珀色の瞳、高い鼻。きつく結ばれた唇には、男の意志の強さが表れているようだった。
男の全身を覆うのは、黄金の鎧だった。鎧の胸には、大きな赤い紋章。剣と盾を組み合わせたその紋章が、彼の国のものなのか、彼の家のものなのか、ジェルメーヌにはわからなかった。
腰には、一振りの立派な剣。赤い革が巻かれた柄の先には、黄金の獅子の頭。どうやら剣の鞘までも、黄金でできているようだった。
豪華絢爛たる装備の男は、ジェルメーヌの部屋を見まわした。
ジェルメーヌが千年以上もの時をすごした、ジェルメーヌの世界のすべてだった場所。
「ずっと、ここにいたのですか?」
男は名乗りもしないで訊いてきた。
「えっ、ええ……」
ジェルメーヌは肯定した。
そんなことを確認して、どうしようというのだろう。
もうすぐ、すべてが終わるというのに……。
「まあ、ここは季節も天候も、あまり変わらないようですが……」
男はどこかぎくしゃくとした足取りで、ジェルメーヌの前まで歩いてきた。
「俺はリオネル。当代の勇者です」
名乗ると、男はジェルメーヌの前でひざまずいた。
ジェルメーヌは戸惑った。リオネルがなにをしたいのかわからない。
幽閉されてから、千年以上もの時が過ぎた。
魔女を殺すのにも、いろいろな手順が必要になったのだろうか。
「あ、えと……、あの……」
自分も名乗った方が良いのだろうか。自分が誰かも知らないで、ここまで来たとは思えないが……。
「わたくしは、魔女ジェルメーヌ」
ジェルメーヌは、本当は魔女ではなかった。魔法など使えない。ただの子爵家の一人娘だった。だが、それを言ったら、この当代の勇者様は、ジェルメーヌを殺せなくなってしまうかもしれない。
「魔女などと言わないでください……」
リオネルは立ち上がり、ジェルメーヌを抱きしめた。
黄金の鎧は冷たく、リオネルの腕は力強かった。
まさか、勇者にぎゅうぎゅう抱きしめられて、殺されることになるとは……。これも絞殺になるのだろうか。
「会いたかった」
と言って、リオネルはジェルメーヌを解放した。
ジェルメーヌは大きく息を吸ったり吐いたりした。一人は寂しくて、辛くて、早く死にたいとばかり思ってきた。だが、死ぬのも楽ではないようだ。
「食事はどうしていたのです?」
リオネルは視線を彷徨わせつつ、興味なさそうに訊いてきた。
ジェルメーヌは、こんな感じの脳筋で不器用な男に、一人だけ心当たりがあった。
ジェルメーヌの幼馴染である、下男の孫だ。
没落した子爵家に仕え続けてくれた下男が、引っ込み思案なジェルメーヌの遊び相手として、一歳年上の孫を連れてきてくれたのだ。
「呪いで……、食べなくても死なないようになっていて……」
食べることも、排泄することも必要なくなり、狂うことも、老いることも、死ぬこともなくなる。それが、ジェルメーヌにかけられた呪いだった。
「訊くべきではなかった。イライラしてくる」
「ご、ごめんなさい……」
ジェルメーヌは謝りながら、リオネルが怒っている方が、早く殺してもらえるのではないかと思った。
「千年も一人だったのなら、話し方を忘れているかと思いましたが……」
「小鳥さんやリスさんがいてくれたから……。お話したり、物語を聞かせたりしていたの……。退屈だと、歌を歌ってみたり……。あとは、その……」
ジェルメーヌは、神に祈りを捧げていた。
勇者が苦難の末にもたらした平和が、少しでも長く続くように。
ここに幽閉されてからも、一日として欠かすことなく。
呪われ、悪しき魔女などと呼ばれた者の祈りになんて、効果などないかもしれないけれど……。
それでも、なにもしないでは、いられなかったのだ。
「俺は順を追って話せていますか?」
「順を追って……?」
「ああ、俺ときたら、全然ダメだな」
リオネルはジェルメーヌの両手をそっと握った。
「お嬢様、フローリアンが戻ってまいりました」
「えっ、ええっ、フローリアンなの!? 下男の孫で、幼馴染のフローリアン? 勇者になった、あのフローリアン?」
「はい。そのフローリアンが、リオネルに転生してきました」
ジェルメーヌは目の前の男を見た。どう見ても、幼馴染のフローリアンとは容姿が違う。年齢だって、だいぶ年上に見える。
実際には、ジェルメーヌの方が、千歳以上も年上なのだが……。
「魔王を倒したら、必ずお迎えに行くと約束したフローリアンです。お嬢様に求婚して旅立ったフローリアンです」
「魔王討伐になんて行きたくないと、さんざんゴネた、あのフローリアン?」
「そのフローリアンです。お嬢様を残して、どこにも行きたくなかった」
フローリアンはジェルメーヌの右手の甲に口づけた。
ジェルメーヌは、ぐいぐい迫ってきた下男の孫のフローリアンと、恋人同士になっていたのだ。
フローリアンは、ジェルメーヌを娶るために騎士となった。騎士は準貴族。子爵令嬢ならば、なんとか娶ることができる。
騎士となったフローリアンは、騎士団の一員として魔物を討伐しに行った。
そこで騎士団が壊滅しかけた時、フローリアンの勇者の力が発現したのだ。
物語では、共に戦う仲間の危機を救うため、勇者として覚醒したということになっている。
フローリアン自身が語った『お嬢様と結婚するまでは、絶対に死ねないと思った』という言葉は、はるか昔に人々から忘れ去られていた。
「最悪ですよ。魔王を討伐して帰ってきたら、『王女と結婚しろ』とか言われて。しかも、『お嬢様は死んだ』なんて言われたんですよ」
ジェルメーヌは勇者の力によって守られていた。それゆえ、一国の王と王女といえども、ジェルメーヌを殺せなかった。
王や王女は、死なないジェルメーヌを激しく罵った。
「勇者を惑わす悪しき魔女め! 永遠の孤独を生きるがよい!」
などと叫びながら、二人はジェルメーヌに呪いまでかけた。
そして、ジェルメーヌが生きていることをフローリアンに知られないよう、この『忘れられた城』に幽閉した。
「お嬢様が死ぬわけないって、大暴れしてやりましたよ」
フローリアンはジェルメーヌをまた抱きしめた。大きな手が、ジェルメーヌの髪や背中をなでていく。
「大暴れ……。ああ……」
フローリアンの『ジェルメーヌのために国を滅ぼした』という伝説は、こうして作られたのだ。
ジェルメーヌの両目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「王と王女を殺したら、二人に忠誠を誓っていた魔法使いが、自爆魔法なんて唱えやがったんですよ。あの野郎のせいで、俺まで死んでしまいました」
フローリアンは「まいりましたよ」などと、とぼけたことを言っている。
ジェルメーヌは昔となにも変わらないフローリアンがおかしくて、泣きながら笑ってしまった。
「ただいま、お嬢様。遅くなりまして、申し訳ありません」
フローリアンは、まっすぐにジェルメーヌを見つめていた。
「ああ、フローリアン……。おかえりなさい」
ジェルメーヌもまた、フローリアンを見上げた。
フローリアンはジェルメーヌを抱えると、悠然と歩いて城の外に出た。
城にも呪いがかけられていたが、勇者の力の前には、千年の呪いすら無力だった。
「お嬢様を苦しめた王と王女の魂を贄として、俺は永遠の命を生きる。もう二度と、寂しい思いはさせません」
フローリアンは笑顔でジェルメーヌに約束した。
その後の百年で、悪しき魔女ジェルメーヌの伝説は消え去った。
その代わり、人々が伝え聞く勇者の物語には、悪しき王と王女が登場するようになった。
勇者が苦難の末に魔王を倒して戻ると、二人は勇者の力と愛を欲し、勇者に「恋人は死んだ」という嘘を教えた。
勇者は怒りと悲しみでその力を暴走させ、国が滅びてしまった。
――そして、千年の時が過ぎ、魔王が再び現れた。
別人として生を受けた勇者は、また魔王を討伐する。
勇者は、その二度目の人生で、古城に囚われていた恋人を助け出した。
この新しい英雄譚は、こう締めくくられる。
勇者は恋人と結ばれて、いつまでもいつまでも、二人仲良く幸せに暮らしましたとさ。