第九十八話『お濃、命を賭して情報を届ける』
秋も深まり、夜が一段と冷たさを増したある日──
月明かりに照らされた小牧城下で、一人の女が静かに動いていた。
お濃。
かつては京で“間者”として生きた彼女は、今は秀吉の下で情報屋として動いていた。
その夜、彼女は城下の茶屋“初音”の裏手で、耳を澄ませていた。
聞こえてきたのは、油断した男たちの密談。
「明日未明、三の村と北の水路を同時に突く。旧家の家子郎党を潜ませてある」
──まさか、動き出したのか……!
お濃の背筋がぞくりと冷える。
すぐさま懐から小筆と紙を取り出し、手早く要点だけを綴った。
信じられるのは、秀吉ただ一人。
この文さえ届ければ、きっと──
だがその瞬間、背後に殺気。
「どこへ行くつもりだ、裏切り者」
黒装束の男が三人、彼女を囲む。
「……来ると思ったわ。あんたたち、間者の中でも下っ端ね」
「口を慎め、元女狐」
鋭く刃が走る。お濃は身をかわしながら、袖の中から短剣を引き抜いた。
勝てる見込みはない。だが、時間を稼げば逃げ道はある。
「殿下に……渡すまでは死ねないのよ!」
闇の中で交錯する刃。ひと太刀浴び、血が溢れる。
だが、お濃は噛みしめた唇の奥で、笑った。
「わたしの忠義、甘く見ないことね」
彼女は細い路地を抜け、屋根を飛び、森を駆け、全身血と泥にまみれながら小牧の城へ走った。
◆ ◆ ◆
明け方前、小牧城。
「開門せよ! 開けろ!」
門番の兵が声に驚いて駆け寄る。
月明かりの下、そこに立っていたのは、血塗れの女──お濃だった。
「殿下に……この文を……っ……」
右腕は斬られ、息も絶え絶え。それでも文を握る手は、離れなかった。
◆ ◆ ◆
「お濃!?」
ねねが駆け出した。
寝間着のまま、おしのも飛び出してくる。
「うそやろ……なんでこんな……!」
「千鶴! 包帯と薬!」
「すぐに!」
秀吉が、兵に担がれたお濃の姿を見た瞬間、顔色を変えた。
「なんでや……なんで、ひとりで……!」
「だって……わたし、あの人に……恩があるの」
「お濃──!」
彼女の体から文が滑り落ちる。
拾い上げた秀吉は、震える手で封を解き、目を走らせた。
「……敵襲、間違いない。すぐ動くぞ!」
お濃の手を、ねねとおしのがそれぞれ握っていた。
「何があっても渡すって……あんた、ほんまに……」
「バカやけど……かっこよすぎるわ」
おしのの声が震える。
その頬には、涙が伝っていた。
「うちは、殿下のためなら何でもするつもりやったけど……命、懸けるのは想像してへんかった」
「……わたしはね……最初は、ただの任務だったのよ。
でも……あの人に救われて、気づいたら……好きになってた」
「そっか……なら、もう止めへん。
同じ女として、全力で認めたる」
◆ ◆ ◆
お濃は一命を取り留めた。
秀吉は彼女の枕元で、ずっと文を握っていた。
「お濃、おまえが救ったんや。
この文がなかったら、村が焼けとったかもしれん」
目を細めて笑う彼女に、ねねとおしのも隣で泣き笑いしていた。
「わしな、ほんまは“女中衆の絆”とか、ようわからんかった」
「でも……今はようわかる。
おまえらがわしの城や。
命かけて支えてくれる女たちがおって、わしはようやく、“殿下”になれた気がする」
ねねはそっと秀吉の肩に手を置いた。
「なら、これからもちゃんと、わたしたちに“背中見せて”な」
「うん。わし、もう迷わん」
その夜、小牧に吹いた秋風は、確かに一段あたたかく感じられた。
命をかけた文は、すべてを変えた。
それは、ただの情報ではない──
“忠義”と“愛”の形だった。




