第九十五話『千鶴の初恋、きづかれてしまう』
小牧の秋は、墨俣よりも少しだけ早く深まっていた。
稲の穂は重く頭を垂れ、風に吹かれてさわさわと音を立てる。
そんな秋の夜、城の縁側には三人の影が寄り添うように並んでいた。
ねね、おしの、千鶴。
夜の虫の音を聞きながら、三人は湯上がりの茶を静かにすする。
「……なんやろな」
おしのが最初に口を開いた。
「殿下って、たまに“とんでもなくかっこよく”見えるとき、あるやろ?」
「あるな」ねねが即答する。
「田んぼで泥まみれで草履脱いで歩いてたときとか、あれ、うっかり見とれてもうたし」
「うちはあの“水路の詰まり抜いてるとき”の真剣な顔、好きやったな」
二人がわいわい語る中、千鶴は黙って茶碗を持ち、月を見上げていた。
「なあ、千鶴」
おしのが横から覗き込むように問いかける。
「最近、あんた、ちょっと殿下のこと“見すぎ”やない?」
「そんなことは……」
千鶴はすぐに否定しようとしたが、言葉が口から出てこなかった。
「なあ、昨日の夕方、田んぼで殿下とすれ違ったとき、顔、赤かったで」
「それは……あの……湯冷めです」
「いや、湯冷めで頬だけ赤くならへんやろ」
ねねとおしのが揃ってじっと千鶴を見つめる。
「……別に、そういう意味では」
「ほんまに〜?」
「ただ……」
千鶴は言葉を切って、小さく息を吐いた。
「殿下が笑うと、少し……自分も笑いたくなる」
「うんうん」
「怒ってると、胸がぎゅっとなる。
無茶すると、なんか、自分も一緒に傷ついたような気になる」
「それ、完全に……」
「でも、それが“恋”かどうか、まだ……」
千鶴の声は、どこか戸惑いと不安が混ざっていた。
「千鶴、それはね、恋や」
ねねが優しく微笑んだ。
「わからへんでもええよ。うちかて最初、ようわからんかった」
「でも、あの人のことを思って、嬉しかったり悲しかったりするんなら……それでええんや」
おしのが言葉を継いだ。
「そうそう。恋って、そんなんから始まるもんやし」
千鶴は少しだけ微笑んだ。
それは、これまで見たことのない、柔らかい笑顔だった。
「……私、まだ未熟ですけど。
いつか、ちゃんと自分の想いに名前をつけられるように、なりたいです」
「おお〜〜〜、名言出た〜!」
「恋の剣士、千鶴爆誕や!」
「やめてください……」
三人は肩を並べて笑った。
縁側に座る三つの影。
それはどこか温かく、どこかくすぐったい空気をまとっていた。
夜風が、ふわりと三人の髪を揺らす。
──気づいてしまった恋。
まだ名前のない感情。
それでも、確かに千鶴の中には、“好き”という芽が、静かに育ち始めていた。




