第七話『最後の夜──手をつなごうか』
夜の村は、しんと静まりかえっていた。
焚き木の匂い、夜露の湿った土の香り、どこか遠くで虫の声がかすかに響く。
日吉丸は、ひとりで村はずれの小さな墓場へ向かっていた。
弥右衛門──父と、お鈴の墓が並んでいる。
「……親父。わし、明日、村を出るんやて」
線香をあげながら、ぽつりぽつりと語りかける。
「草履持ちいうても、信長さまのとこや。天下を取るには、ここが第一歩やと思っとる」
蝋燭の火が揺れ、暗がりに影を作った。
「……お鈴、聞いとるか。わし、まだあんたのこと、忘れとらん」
袖の中から、あの御守りを取り出した。
米と豆腐の乾き物と、唐辛子が入った、小さな手縫いの布袋。
「これ持ってくで。あんたの分まで、わし、生きてやる。出世して、女の子らが安心して暮らせる世にする」
静かに、墓に頭を下げた。
そのとき、背後に気配を感じた。
「……あんた、こんなとこで何しとるん」
振り返ると、ねねが立っていた。
「いや、ちょっと、親父と……お鈴に、挨拶や」
ねねは近寄ってきて、黙って自分の肩掛けを外すと、日吉丸にかけてやった。
「風邪、引いたらあかんやろ」
「……ありがとな」
「ほんまに行くんやな」
「うん。行く。もう決めた」
しばしの沈黙。
やがて、ねねがぽつりと呟いた。
「……あんた、ひとりで寝られるん?」
「……え?」
「今日くらい、一緒に寝てもええやろ。布団、二枚あるし」
あくまで自然な口調だったが、顔はほんのり赤かった。
その夜、日吉丸の家の囲炉裏のそばに、ふたつの布団が並べられた。
隣で、ねねが背を向けて横になっている。
「なあ、ねね」
「……なに」
「やっぱり、村出るの怖いわ。都会やろ? 名古屋弁、バカにされるかもやし」
「そしたら、言い返したったらええがね」
「でも……」
「……あんたなら、なんとかするやろ」
その言葉に、日吉丸の胸がじんわりとあったかくなった。
気づけば、眠気が襲ってきて――
……ふと、手を伸ばした。
ごそ、ごそ。
「っ……!」
日吉丸の手が、ねねの手に触れた。
寝ぼけているのか、何かを探しているように、その手がぎゅっと、ねねの指を握りしめた。
「……ばか」
ねねは起きていた。
けれど、その手を……離さなかった。
静かに、そっと、握り返した。
「……出世して、ちゃんと帰ってきぃよ」
夜の静けさが、ふたりの体温を包み込んだ。
明日、日吉丸は村を出る。
けれど、ねねとの間には、もう一つの“約束”が芽生えていた。