第七十九話『勝利と名声──墨俣の虎と呼ばれて』
戦から三日後。
墨俣の空はようやく落ち着きを取り戻していた。
城門には見送りと見舞いの村人が列をなし、城内ではねねたちが兵たちの怪我を手当てしながら騒ぎ立てていた。
だが、墨俣より遥か西──尾張・清洲。
その城下にも、ひとつの噂が走っていた。
「聞いたか? 墨俣の戦、藤吉郎が勝ったらしいぞ!」
「火急の襲撃を指揮して、民も守ったって話や!」
「“政務も戦もできる小姓”やて。あいつ……“化け物”か!?」
──そして、信長の耳にも、その報は届いていた。
「藤吉郎、やったか」
信長は静かに盃を置くと、重臣・柴田勝家に問いかけた。
「勝家。“墨俣の虎”……というあだ名が、民の口から出ておるそうだ」
「おや、虎でございますか」
「政においては“柔らかく”、
戦においては“荒ぶる獣”──だとさ。
面白いな」
◆ ◆ ◆
同じころ。
墨俣城では、秀吉が村の若者と共に井戸を掘っていた。
「それ、ちょっと傾いとるでー。もっと右や右!」
「殿下、腰、痛うないですか?」
「わしの腰は“ねね様仕込み”や。ちょっとやそっとで壊れんで」
そのやりとりを見ていた千鶴がぼそっと呟いた。
「……墨俣の虎、というより“井戸端の狸”ですね」
おしのがにこにこ笑ってうなずく。
「でも、戦の時はちゃんと虎でしたよ!」
「ほんまやな。びっくりしたわ。
矢を避けながら敵に突っ込んでいくんやもん……」
「殿下、ほんまに“わたしらの虎”やなあ」
◆ ◆ ◆
その夜、墨俣城の書院。
信長からの使者が訪れる。
「木下藤吉郎殿。
上様より、戦の勝利と政務の整備、両面において“特に功あり”とのお達しでございます」
使者が広げた文には、こうあった。
──木下藤吉郎、尾張と美濃の境を預かるにふさわしき者なり。
──墨俣の地にて政と戦、両面を掌握。
──これを以て、“信の臣”と呼ぶに足る。
「……っ」
ねねが思わず文を握りしめた。
「見た? 殿下、“信の臣”やて!」
「……ちょっと泣いてええか」
「泣いたら膝に寝かすけど」
「それもう泣いてええやつやん」
◆ ◆ ◆
翌朝──
墨俣城前の広場に、村人が集まり始めていた。
誰かが作った紙旗に、こう記されていた。
『墨俣の虎、民を守りし風となる』
その言葉は、秀吉が笑いながら否定しても、
確かに、民の中に根を下ろしていた。
「わしはまだまだ“猫”や。
虎のフリしとるだけや」
そう笑った男の目の奥には、確かに猛き獣の光があった。
尾張、墨俣──
その名と姿は、いまや“ただの草履持ち”ではない。
国を変える風の名を持つ、“小さき虎”となっていた。




