第七十一話『墨俣の風、草履の記憶』
五月の末、初夏の陽が尾張の空に高く昇った日──
木下藤吉郎秀吉は、新たなる任地「墨俣」へと入城した。
城門は錆びつき、屋根は欠け、櫓の上には鳥の巣が作られていた。
雑草が生えた中庭には兵たちの姿もまばらで、まるで“見放された砦”のようだった。
「……こら、見事に荒れとるな」
荷馬車の脇で、ねねが呆れたように漏らす。
「わし、戦場に来たんやなくて“廃墟見学”に来たんかと思うたわ」
「静かに、ねね様。兵の前で口を慎まれよ」
千鶴が警護の位置から注意を入れるが、ねねは肩をすくめた。
「でも、見てみ。あの目。
みんな、“どこの誰やこいつ”って顔しとる」
確かに。
城内にいた兵士たち、役人、女中たちは、皆一様に秀吉を遠巻きに見ていた。
(……無理もない)
百姓出身の成り上がり者が、尾張と美濃の境に位置する“墨俣の城”という要衝を任された。
信長の直命とはいえ、その重さも、意味も、彼らには計り知れない。
そして何より──まだ“信じていない”のだ。
この男が、自分たちを引っ張るに足る人物であるかどうかを。
「秀吉様、まずは大広間で“顔見せ”をなされるのがよろしいかと」
案内に出た老臣・丹羽右近が、静かに言った。
「……せやな。まず、顔を見てもらわな」
しかし秀吉は、大広間へ行く前に、ひとつの行動を取った。
「ん……わし、ここで草履脱ぐわ」
「……え? 殿下?」
ねねが驚く間に、秀吉は自身の草履を脱ぎ捨て、素足で土の上を踏みしめた。
「この土、まだ生きとる。
雨が流れて溜まった跡があるけど、しっかり踏めば、ちゃんと返してくれる」
「……なんや、それ」
「わし、昔は草履持っとったやろ。
どんな人がどんな土地を歩いてきたか、草履見れば分かる。
同じや、城も。土も。ここをちゃんと踏まんと、わし、“治める”なんて言えへん」
その言葉に、丹羽右近のまなざしがわずかに変わった。
◆ ◆ ◆
大広間。
武士、役人、村の庄屋など、墨俣の顔役たちが居並ぶ中。
「本日より、墨俣城を預かります、木下藤吉郎秀吉や」
ざわり、と空気が揺れる。
「わしは百姓の倅や。草履持ちから始まって、こうしてここまで来た。
せやけどな、ええか。
“生まれ”で人を測るつもりはないし、“昔のやり方”を否定だけするつもりもない」
秀吉はゆっくりと、ひとりひとりを見渡す。
「ただ一つ、約束する。
“この城を変える”。
兵も、民も、笑って暮らせる場所にする。
この城の土が、もっと柔うて、あったかくなるようにな」
会場に、静かな沈黙が流れた。
だが、その言葉は確かに届いていた。
“この男は、本気で変える気だ”。
◆ ◆ ◆
その日の午後、秀吉は甲冑を脱ぎ、作業着に着替えた。
「さ、まずは掃除や」
「は? 誰が?」
「わしが」
「……いやいやいや、殿下がなんで……」
「まずはわしが“ここに住む”ってことを見せなな」
箒を持ち、破れた障子を張り替え、井戸の周りの草をむしる。
ねねは呆れながらも一緒に動き、おしのは掃除用の団子を配り出す。
「……不思議な人ですね、秀吉様って」
女中たちがひそひそと話す。
「でも……なんか、見てたらやらな悪い気ぃするなあ」
気がつけば、兵のひとりが手伝いはじめ、
その後にまた一人、また一人──
夕暮れには、城の中庭がすっかり整えられていた。
「ええ風吹いとるやろ」
秀吉が笑った。
「墨俣の“風”、わしが変えてみせるで」




