第六話『わし、出世するでよ!』
春の風が村を通り抜け、桜の花びらがひとひら、畦道に舞い降りた。
「織田家の小者募集やて!? 本物の武士に会えるってことか!」
村の辻に立つ、行商人の声が大人たちの耳目を集めていた。
「なんでも、清洲のお城で草履を持つ働き手が足らんらしい。信長さまのとこの家臣になれるかもしれんぞ」
「ほう……信長さまいうたら、尾張一の大大名やろ? あの人の草履を温められたら、出世も夢やないな」
村人たちがざわめく中、日吉丸の耳がぴくりと動いた。
「草履……? 草履持ち……?」
かつて、お鈴に笑われながらも温め続けた、あの草履たち。
「……これや!!」
彼は思わず立ち上がった。
「わし、行くでよ! 清洲の城まで行って、織田信長さまの草履、温めてくるんや!」
周囲の大人たちが笑った。
「おまえみたいなチビスケが、織田様の草履持ちぃ? 寝言は昼に言え!」
「ほんまやて! わし、草履持ちだけはちょっと得意なんや。それに、夢があるやんか。草履から始まる出世道やて!」
村の外れの道で、その騒ぎを聞きつけたねねがやってきた。
「……日吉、ほんまに行くん?」
「行く。これが、わしのチャンスや。出世して、いつか……お鈴の分まで、強い男になるんや」
ねねは少しだけ黙ってから、ぽつりと呟いた。
「……ま、あんたやったら、どこかで何とかする気がするけど」
「な、なんやそれ。応援してくれとるんか、呆れとるんか、ようわからんがね」
「ふん、どっちでもええわ。あんたが泣きついて戻ってきても、うちの畑、もう手伝わせんでな」
その言葉の裏に、ほんの少しだけ、寂しさがにじんでいた。
「なあ、ねね」
「……なに」
「わし、ほんまに出世して帰ってくるで。信長さまに気に入られて、いつか……」
「草履から天下まで行くつもり?」
「せや! 草履から、天下人や!」
日吉丸は笑った。泥まみれの顔に、太陽の光が差し込む。
ねねはぷいっと背を向ける。
「……勝手にしぃ。でも、草履の左右はちゃんと合わせや」
「心得とるで!」
こうして、日吉丸は初めて村を出た。
草履ひとつを手に、夢と、希望と、ちょっぴりの不安を背負って。
――この一歩が、やがて“豊臣秀吉”と呼ばれる男の始まりだった。