第六十八話『藤吉郎、炎上する!?──反発と暗殺未遂』
尾張に吹いた春風は、やがて熱を帯びて“風評”という炎に姿を変えた。
「木下藤吉郎、民を騙し、年貢米を自分の屋敷にため込んでいるらしい」
「専用の流通路を作って、実は私腹を肥やしとるんやと」
「新しい道で楽して出世しとるだけ。戦も知らん、草履持ちの成り上がりが……」
そんな“偽の噂”が、城下に流れた。
出どころは明らかではない。
だが、秀吉の改革により既得権を奪われた旧勢力──
かつて“年貢を中抜きしていた役人筋”や“通行利権”を握っていた者たちの仕業であることは明白だった。
◆ ◆ ◆
「……殿下のこと、あんな風に言われて、うち……っ!」
ねねは怒りで震えていた。
帳簿を握るその手が、わずかに痙攣する。
「尾張で、正しいことしようとしただけやのに……!」
「ねね……気持ちは分かる。けど、感情だけで動いたら、あいつらと一緒になる」
「けど! 許せへん……っ」
その夜。
秀吉は、信長の命で清洲南の倉庫群を視察に出ていた。
春日井との流通確認のため、側近数名だけを連れていた。
その帰路、事件は起こった。
──弓の音。
──風を裂いて迫る殺意。
「殿下──危ないっ!!」
千鶴が飛び出した。
シュバッ!!
一本の矢が、秀吉の袖を裂いた。
「くっ……弓兵!」
「囲まれてます、十時方向と──屋根の上からも!」
秀吉は、咄嗟に荷車の陰に身を伏せた。
「こりゃ、ただの暴漢ちゃう。
間者……いや、もっと組織的や!」
千鶴は身を翻し、影の一人に肉迫。
その一太刀が、闇を切り裂いた。
「名を名乗れ!」
「……名乗る者に、暗がりは要らぬ」
「ならば、討たれる覚悟もあろう!」
刃が交錯する。
だが相手は引いた。
矢を撃った影も、すぐに煙玉を投げて撤退。
秀吉は地面に手をつき、肩で息をしていた。
「大丈夫ですか、殿下!?」
「……わしは、生きとる」
そう答える声には、怒りでも悲しみでもない、確かな決意の響きがあった。
「まだ、やれるんや」
◆ ◆ ◆
報せが清洲に届いたのは、その夜明け前。
「──なにっ! 殿下が!?」
ねねは叫び、おしのは床に崩れ落ちて泣き出した。
「そんな、そんな……うそや……っ」
千鶴はすぐに装束を着直し、刀を帯びて出て行こうとした。
「行ってきます。
敵の足跡を追い、首を取って戻ります」
「待って! 千鶴、行くんやったら……うちも行く!!」
「ねねさま、無理しないで……!」
だがそのとき、戸が開いた。
「お、お待たせ……って、なんやこの修羅場」
秀吉の声だった。
顔に傷はあるものの、いつもの調子でへらりと笑っている。
「な、なんで……!!」
「わしが死ぬほどヤワや思たんか? しぶといで、わし」
おしのは泣きながら飛びつき、ねねは拳を震わせたまま唇を噛みしめていた。
「ほんま、もう……! 無茶せんとってや……っ!!」
「わかってる。
けどな──わしは“やらなあかんこと”があるんや」
「それでも……うち、殿下がおらんようになったら……」
「おらんようにならへん。そやから、信じて待っとってくれ」
静かな時間が流れた。
その日の午後、秀吉は全役人に“反逆分子の洗い出し”と、“噂の出所調査”を命じた。
「わしに刃を向けるならええ。
でも、わしの“民を救う手”に、二度と泥は塗らせへん」
改革はまだ途上。
だが、秀吉の眼差しは炎を宿していた。
“命を狙われても進む”。
それが、木下藤吉郎秀吉の生き様だった。




