第五十九話『帰還──信長の評価と“次なる課題”』
郷倉村の任務を終えた日吉丸たちは、間者たちを拘束したまま、早朝の山道を引き返していた。
山々の稜線から朝日が差し、緑の中を鳥のさえずりが跳ねる。
小さな村での数日間が、まるで長い夢のようにも思えた。
だが、その夢には確かな意味があった。
笑い、汗を流し、涙をこぼし──命を懸けて“守る”ということを学んだ。
日吉丸はその背に、村から預かった味噌と干し大根の包みを背負いながら、胸の中に新たな火が灯っているのを感じていた。
「──ほんま、あっという間やったな」
「地味やったけど、濃かったな」
「うちは、もう布団が足りん小屋はゴメンやわ」
「わたしは……次はもう少し大きな敵とやり合っても構いません」
道中、ねね・お濃・千鶴の三人がそれぞれのテンションで喋る中、日吉丸は静かに頷いた。
(今までのわしなら、“ふぅ、終わったー”って笑ってただけやろな)
(でも、今のわしは──“次に備えなあかん”って思とる)
◇ ◇ ◇
清洲城・本丸。
登城許可を得た日吉丸たちは、捕えた間者たちの身柄を預けたあと、信長の前に控えていた。
「──成る程、郷倉の件はすでに千鶴より報告を受けている」
信長はゆっくりと盃を傾ける。
その目が、日吉丸に向けられた。
「上出来、だ」
静かな声。
だが、重みがあった。
「殿……」
「作戦の発案、部隊の統率、現地判断、戦闘回避の判断力。
そのすべてにおいて、十分以上の成果を上げた」
「い、いや、わしなんて、ただの草履持ちで……」
「“草履持ち”とは、もはや誰も思うまい」
信長の言葉に、日吉丸の背筋が自然と伸びた。
「──だが、ここからが本番だ」
ピシッとした空気が走る。
「今までのおぬしは、“現場”で光る存在だった。
だがこれからは、“机の上”でも通用する器でなければならぬ」
「机の……上?」
「政、じゃ」
信長は一枚の巻物を取り出し、畳の上に置いた。
「尾張各地の年貢収集、兵糧配分、流通管理……そのいずれにも目を通せ。
今後、おぬしには“小役人”としての務めも与える」
「えぇ!? え、えええっ!? そ、それって……つまり、わしも……」
「小姓から、家中の“政”に関わる一員となるということじゃ」
「で、でも、わし、字もちっちゃいし、数字もそんなに……」
「安心せい。ねねが全部教える」
「ちょ!? 勝手に決めんな!」
「千鶴も、お濃も補佐に入る。
これは“命令”じゃ。従え、日吉丸」
「うう……わし、また人生の段階がひとつ上がった気ぃする……」
◇ ◇ ◇
その日の午後。
城下の文官部屋に連れてこられた日吉丸は、早速帳簿とにらめっこを始めていた。
「えーと、“百石=何俵”やっけ……」
「だいたい十三俵換算です」
「え、ほんまか!? なんや、その計算、暗号みたいやな」
「これから毎日、暗号解読です」
「泣けるやんけ……」
だがその後ろでは、ねねが筆を持ち、お濃が帳簿を整理し、千鶴が数字の読み方を説明していた。
(この三人がついとるなら、わし、やれるかもしれんな)
日吉丸はそう思った。
(現場だけやのうて、“政”も、民のことも、わしの手で──)
その夜、再び信長に呼び出された。
茶室に入ると、信長はただひとこと、こう告げた。
「天下は、戦だけで動くと思うな」
「──はい」
「兵も、刀も、米も、人も、皆“数”じゃ。
その数字の重みを知る者だけが、天下に届く」
「……それを、学べということですね」
信長は微笑した。
「学んだうえで、壊せ」
「……!」
その言葉が、胸に深く刺さった。
「おぬしに期待しておる、日吉丸」
茶の湯が湯気を上げる中──
日吉丸はその熱よりも熱い、信長の“未来の眼差し”に、胸を叩かれた思いがした。
(わし、次の段階へ──行くんや)
草履持ち、山仕事、囮作戦。
それを経て、今度は“数字”の世界へ。
新たな戦場の幕が、静かに開いた。




