第四十九話『お濃の正体、明かされる』
春の夜、清洲城。
淡い月が天守を照らし、庭の石灯籠が細く影を落としていた。
静寂の中、ただひとつ、緊迫した気配を湛える部屋がある。
織田信長の私室──“虎の間”。
そこに集められたのは、信長、千鶴、そして……お濃。
「──確かか?」
信長の声は低く、重かった。
千鶴は無言で、ひとつの巻物を差し出す。
「これが、その証です。浅井家より清洲内への密使に宛てた文。
隠し持っていた場所を突き止め、中身を写し取りました」
信長は巻物を広げ、目を通す。
そこには、お濃の名こそないが、彼女の行動と一致する密命の数々が記されていた。
──日吉丸に接近し、その動向を探れ。
──信長の意図を探り、必要とあらば“情”を以て懐柔せよ。
千鶴は続けた。
「彼女は明らかに間者です。
そして、日吉丸様に対し“感情”を利用している節がございます」
その言葉に、お濃は顔色一つ変えなかった。
「……その通りです」
静かに、すっと頭を下げる。
「わたくしは、間者として浅井家より遣わされた者。
この場で隠すことも、否定することもいたしません」
ねねやおしのが聞けば、怒号が飛んでいただろう。
だが、信長の前では、誰も騒ぎ立てなかった。
お濃の態度が、あまりにも澄んでいたからだ。
「……では問う。
いま、この瞬間、おぬしの“忠義”はどこにある」
信長の視線が、鋭く突き刺さる。
「──それは」
お濃は一拍、間を置いた。
「……未だ定まっておりません」
その答えに、千鶴は眉を寄せる。
「主を持たぬ者が、側にあるとは。失礼にも程があります」
「それは重々承知の上で、申し上げました」
お濃の声音は決して濁らず、ただ静かだった。
「この城にて、日吉丸様と接し、ねね様、千鶴様……多くの方々と関わる中で。
……私は“本当に自分が何を見つめるべきか”を見失いかけておりました」
信長は、無言で茶を一口啜る。
「処断は、いかようにも……されて然るべき」
お濃が額を床に付けた瞬間──
「処断は、せぬ」
その言葉に、部屋の空気がぴたりと止まった。
「し、信長さま……」
「むしろ──試す」
信長の目が、薄く笑みを浮かべる。
「おぬし、浅井へ帰る手立てを断たれているな? 戻れば“裏切り者”として始末されるだけだ」
「……はい」
「ならば、ここで生きよ。そして働け」
お濃が顔を上げる。
「間者としての技術、視野、洞察──それを、わしのために使え。
“内と外を見通す女”として、日吉丸の側に立て」
「……日吉丸様の、側に……」
「そうだ。だが、今度は命をかけろ。
間者ではなく、忠臣として。己の立ち位置を、今度こそ明確にしろ」
千鶴は黙していた。
だが、信長の決定に逆らうことはなかった。
「──承知しました」
お濃の額が再び、畳に触れる。
その夜、彼女は誰の部屋にも戻らず、城の一角にひとり膝を抱えた。
「……情など、使い捨てるはずだったのに」
その呟きは、自嘲か、あるいは……初めての“戸惑い”だった。




