第四十三話『夜の忍び足──千鶴、怪しい動きに気づく』
──春の夜、清洲城。
昼の喧騒が去り、城の廊下には蝋燭の灯だけが淡く揺れていた。風が吹き抜けるたび、格子窓がわずかにきしむ音が耳を打つ。そんな中、音もなく滑るように歩く影がひとつ。
千鶴だった。
彼女は小姓頭・日吉丸の側近にして、女中の中でも随一の切れ者。表では控えめで優美な姿を崩さずとも、その本質は極めて冷静で、観察眼に長けていた。
そして今、彼女の中で小さな警鐘が鳴り止まないでいた。
──“お濃”。
その名が胸をかすめるたび、千鶴の背筋は自然と伸びる。あの女の柔らかな笑みの下に、何かしらの意図が潜んでいる──そう確信していた。
その夜、千鶴は一通の密報を受け取っていた。お濃が夜な夜な人気のない蔵の裏手に通っているという。
(動くなら、今しかない)
千鶴は薄衣を羽織ると、迷いなく城の奥へと歩き出した。
◇
裏蔵は、女中たちでも普段は足を踏み入れない区域だった。灯りの届かない回廊の果て、床板もわずかにきしむその場所に、かすかな灯がある。
──いた。
千鶴は、木戸の隙間からそっと覗き込んだ。お濃が、蝋燭の火を頼りに何かを取り出し、封をする姿が見える。
(文……?)
慎重に目を凝らすと、薄紙には見慣れぬ筆跡と、誰もが一目でわかる“家紋”が記されていた。
(浅井家──!?)
戦国の渦中、織田家と並び立つ西近江の雄。
その名がここで出てくる理由は、ひとつしかない。
間者。
千鶴の心拍が高鳴る。息を止めるようにして後退すると、その足取りが思わず乱れた。
ギィ……
かすかに床が鳴る。
お濃が振り返る気配がしたが、千鶴は音もなく身を引いた。
そのまま裏手の廊下を駆け抜け、女中部屋まで戻ると、壁にもたれて大きく息をついた。
(間違いない……あの女、日吉丸様に近づいたのは、任務のため)
だが、それを誰かに告げる前に、心の奥底で別の声が響いた。
──じゃあ、私は何のためにあの人の傍にいる?
唇を噛む。
(ただの監視役……それだけやない)
彼の笑顔を見て心が浮いた日。
布団を整える手が、彼の寝息に触れてふるえた夜。
女として、ひとりの男子に惹かれていく自分の想い。
(あたし……)
そこまで考えたとき、誰かの足音が近づいてきた。
「千鶴?」
それは──日吉丸本人だった。
「こんなとこで、どないしたん?」
「っ……別に。風が……心地よくて」
千鶴は目を逸らしながら、そっと背を伸ばす。
「おまえ、なんや最近顔赤いとき多ないか?」
「っ……気のせいです」
「そっか。ほんなら、ええんやけど」
とことこと歩き去る背中。
千鶴は、その場にひとり立ち尽くし、目を閉じた。
(あの人は、きっとまだ何も気づいてない)
(……でも、私はもう──)
──恋に堕ちていた。




