第三話『父との別れ──男になる日』
日吉丸の父、弥右衛門が伏せってから、もう三日になる。
「……親父、わしや。水、持ってきたで」
藁の敷かれた床の上で、骨と皮だけになった父がうっすら目を開けた。
日吉丸の手から柄杓を受け取り、口に含むも、ごくりと飲み込むことはできず、半ばこぼれて畳を濡らした。
「すまん……のう……」
「ええよ、気にせんで」
病のせいで声はほとんど出ない。父の手は、かつて鍬や鋤を振るっていた力強さの面影もなく、枯れ枝のようだった。
「おまえは……夢……まだ、追いかけとるか……?」
日吉丸は少し口ごもった。
「……ああ、追いかけとる。わし、天下取るで。絶対、親父にも誇れる男になる」
父は小さく目を細め、口角だけで笑みを作った。
「ほうか……なら……もう、思い残すことは……」
その言葉の続きを待たずして、弥右衛門の手が力を失った。
その夜、風は妙に静かだった。
蝋燭の火がかすかに揺れ、母・なかがすすり泣く音が、かすかに障子の向こうから聞こえた。
日吉丸は、拳を強く握っていた。
(わしが……わしが、もっと働き者やったら、親父、助けられたんやろか)
膝に置いた手が、小刻みに震えていた。悔しさが、涙の代わりににじんでくる。
次の日。
弔いを終えた家に、お鈴がやってきた。
「……ねぇ、日吉丸」
彼女は、懐から小さな布袋を取り出した。
「これ……あたしの御守り。豆腐の切れ端と、米の粉と、唐辛子、ちょっとだけ入ってる。あったかくて、ピリッとしてて、元気が出るようにって」
日吉丸は、その布袋を両手で受け取った。
「ありがとうな……お鈴」
「……いつか、大きなお城、建ててね」
お鈴の目は、真剣だった。
それは、笑い話のようでいて、どこまでも本気の顔だった。
その時だった。
「きゃあああああっ!」
外から女たちの悲鳴が上がった。
それに続く、男たちの怒号。馬の蹄の音。
「な、なんや!?」
日吉丸とお鈴は顔を見合わせ、戸口に駆け寄った。
村の入り口に、黒ずくめの盗賊たちが馬を駆り、刀を振るっていた。
「野党やっ! 逃げろ!!」
村人が右往左往するなか、日吉丸はお鈴の手を掴んだ。
「はよっ! 裏山に逃げるんやっ!」
「う、うんっ……!」
だがその時、近くの家から幼子の泣き声が聞こえた。
「子どもが……!」
お鈴は迷わず駆け出した。
「お鈴、行ったらあかん!!」
日吉丸の叫びも届かず、彼女は家の中に飛び込んでいった。
その直後だった。
盗賊のひとりが、家の中に火を放った。
日吉丸は、叫び声と共に飛び込んだ。
煙の中、倒れているお鈴を見つける。
その腕には、幼子がしっかり抱かれていた。
「お鈴っ! しっかりせぇ!」
返事は、なかった。
その夜、村の火はようやく鎮まった。
お鈴の亡骸のそばで、日吉丸はひとり、声もなく泣いていた。
拳を握りしめ、誰にも聞かせることのない誓いを、胸に刻んだ。
(わしは……女が安心して暮らせる世を、絶対に作る)
その誓いこそが、後の豊臣秀吉を動かす原動力となる。
初恋と、死と、絶望の中から、日吉丸は“男”になった。