第三十八話『信長の誘い──茶の間での語り合い』
「──日吉丸、来い」
その声が届いたのは、夜半すぎ。
女中部屋で起きた騒動の記憶も新しい日吉丸は、寝床でうつらうつらしながらも、びくりと身体を起こした。
「な、なんやねん、こんな時間に……? ねねか? それとも、また千鶴の襲来か……!?」
──だが、その予想を覆す声が廊下から飛ぶ。
「日吉丸、小姓頭! 殿がお呼びだ!」
「……えぇぇっ!? 信長さま!? こんな時間に!?」
寝ぼけ眼で顔を洗い、浴衣から慌てて小姓装束に着替え、草履を手に階段を駆け上がる。
その先にあるのは、信長が最も寛ぐ私室──“虎の間”。
ろうそくの炎が揺れ、薄暗い空間の中で、信長はすでに正座して湯を沸かしていた。
「……参りました、日吉丸にございます」
「遅い」
ぴしゃりと一言、だが声はどこか柔らかい。
「……座れ。茶を淹れる」
日吉丸は、ごくりと唾を飲み込んでから正座した。
静かだった。
湯が沸く音、茶碗のこすれる音──
それだけが、耳に届く。
信長の所作は静かだ。
だが、刀を抜いたときのような鋭さも、やはりある。
「……よう、やっとるな」
その一言に、日吉丸はびくんと肩を揺らす。
「え、えっと……はい、なんとか、へこたれず……」
「女の中を泳ぎきり、男の中で揉まれ、笑われながらも一歩ずつ前へ出てくる──
それがどれだけ、難しいことか。わしは知っておる」
信長は湯を茶碗に注ぎ、すっと日吉丸の前に差し出した。
「……殿。わしなんて、まだまだです。
草履温めるのも、女中の機嫌取るのも、利家に勝つのも……ただ必死で、やっとるだけやて」
信長はふっと笑った。
「そう思えるうちは、おまえは“まだ伸びる”。
自分の器を測りきったと思うた者から、腐る」
日吉丸は、言葉を失った。
茶を啜る音がふたりの間をつなぐ。
「日吉丸。わしは、家を守るために動いておる。だがな、それだけでは“天下”など取れぬ」
「……天下、ですか」
「そうだ。
おまえのような者──底から這い上がる者がいなければ、国は回らぬ。
名門でも武功でもない“才と胆”を持つ者が、世を動かす」
信長は、茶碗を見つめるように目を細める。
「だからこそ、目をかけた。
おまえが“天下人”になる器かどうか……それを、わしは見てみたい」
「……っ、信長さま……」
喉の奥が熱くなる。
どれだけ笑われても、泥をかぶってでも、足元を見られても、それでも前を向いてきた自分に──
この男は、ちゃんと目を向けてくれていた。
「わし、信長さまのその言葉……一生、忘れまへん!
絶対に、もっともっと上へ上ります! 草履持ちやなくて、“草履履かす側”になってみせます!」
「ふふ……言うようになったな」
信長は、静かに立ち上がった。
その背は、まるで天を仰ぐ大木のようだった。
「日吉丸。
明日から、“政”の席にも顔を出せ。
ただ笑い取るだけの男で終わるな」
「……はいっ!!」
畳に額が触れるほど深く、頭を下げる。
この一夜の会話が、日吉丸の人生にとってどれほどの“分岐点”になったか──
この時点では、まだ誰も知らなかった。
ただ、火鉢に落ちた灰が、はらりと形を変えるように。
少年の中の“何か”が、確かに生まれ変わった。
──信長と日吉丸、初めての“主従の契り”の夜。
その記憶は、後に語り継がれる伝説の始まりとなる──。